この聖水、泥の味がする ~まずいと追放された俺の作るポーションが、実は神々も欲しがる奇跡の霊薬だった件~

夏見ナイ

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第5話 追放

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地下牢は、冷たく湿った石と絶望の匂いで満ちていた。壁を伝う雫の音だけが、不規則に暗闇へ響く。俺は硬い石の床に座り込み、ただ虚空を見つめていた。手足にはめられた枷が、ずしりと重い。

どれくらいの時間が経ったのか。思考はまとまらず、儀式の光景が何度も頭の中で繰り返される。泣き叫ぶ少女。人々の怒声。そして、俺を見下ろすゲオルグの歪んだ笑み。

どうして、あんなことになったのか。俺が運んだ樽の中身は、間違いなく本物の「清めの聖水」だったはずだ。それがなぜ、俺の作る泥水に変わってしまったのか。

答えは一つしかない。ゲオルグだ。俺が台車を運ぶ途中、彼が樽を覗き込んだ、あのわずかな時間。彼が何かをしたに違いない。おそらく、懐に隠し持っていた俺の泥水を、ほんの少し樽に混ぜたのだ。

俺の泥水は、異質だ。ほんの一滴でも混ざれば、清らかな聖水全体を侵食し、同じ泥水に変えてしまう性質があるのかもしれない。だから、匂いも濁りも、俺が作ったものと全く同じになった。完璧な証拠の捏造。

「……ははっ」

乾いた笑いが漏れた。あまりに鮮やかな手口。俺には、それを覆す証拠など何もない。ゲオルグが俺に親しげに話しかけてきた時から、全ては仕組まれていたのだ。俺は、巨大な蜘蛛の巣に自ら飛び込んだ、哀れな虫けらに過ぎなかった。

鉄格子が、軋みながら開く音がした。二人の聖騎士が、松明の明かりと共に牢の中へ入ってくる。

「ルーク・アークライト。審問会がお前を呼んでいる。来い」

有無を言わさず、俺は引き立てられた。向かう先は、大神殿の最上階にある審問室。神殿の法を犯した者を裁くための、厳粛な場所だ。

部屋の中央に立たされると、正面の席に神官長をはじめとする神殿の幹部たちがずらりと並んでいた。その中には、もちろんゲオルグの姿もある。彼は心配そうな表情を浮かべているが、その目の奥には冷たい光が宿っていた。

「ルーク・アークライト。お前は聖女選定の儀式において、神聖なる『清めの聖水』を意図的に汚染し、神と人々を冒涜した。相違ないか」

神官長が、重々しく口を開いた。その声には、以前のような温かみは微塵もなかった。

「違います!俺は罠に嵌められたのです!ゲオルグ様が……!」
「見苦しいぞ、ルーク!」

俺の言葉を遮ったのは、ゲオルグの隣に座る貴族神官だった。

「己の罪を認めず、あろうことかゲオルグ様に濡れ衣を着せようとは!どこまで腐りきっているのだ!」
「その通りだ。ゲオルグ様は、お前の邪悪な企みを見抜いていたからこそ、事前に忠告してくださったのだ。それを無視したのはお前自身ではないか!」

次々と上がる弾劾の声。俺が何を言っても、それは全て「見苦しい言い訳」として処理されてしまう。誰も、俺の言葉を信じようとはしない。

「静粛に!」

神官長が場を制した。彼はじっと俺の目を見つめる。その瞳の奥に、わずかな葛藤の色が見えた気がした。

「ルーク。お前の言い分も聞こう。だが、証拠はあるのか。ゲオルグ様がお前を陥れたという、確固たる証拠を」

証拠。そんなもの、あるはずがない。ゲオルグは、俺にしか分からない一瞬の隙をついて犯行に及んだのだから。

俺が黙り込むと、審問室の空気は決定的なものになった。誰もが、俺が有罪であると確信した。

「……神官長。もうよろしいでしょう」

ゲオルグが、静かに立ち上がった。

「この男が罪人であることは、火を見るより明らかです。これ以上、この男の戯言に付き合う時間は我々にはありません。儀式を台無しにされた王家や貴族の方々への対応が急務です。一刻も早く、この神の敵に裁きを下し、大神殿の権威を取り戻さねば」

彼の言葉は、理路整然としていた。そして、それは事実だった。大神殿は、この大失態の責任を誰かに負わせる必要があった。俺は、そのための完璧な生贄だったのだ。

神官長は、深く目を閉じた。長い沈黙の後、ゆっくりと目を開ける。その瞳から、葛藤の色は消えていた。

「……ルークを庇うことはできん、か」

彼は小さく呟くと、俺に向かって宣告した。

「判決を言い渡す。ルーク・アークライト。お前を神官の職から永久に追放し、神官の地位を剥奪する。加えて、聖域たる王都への立ち入りを永久に禁ずるものとする」

それは、死刑宣告にも等しい言葉だった。神官として生きてきた俺から、全てを奪う判決。

「神官服を剥ぎ取れ」

冷たい命令と共に、聖騎士たちが俺の服に手をかけた。女神への忠誠の証である純白の神官服が、びりびりと音を立てて引き裂かれていく。代わりに渡されたのは、罪人が着るような粗末な麻の服だった。

俺は、もはや神官ですらなくなった。ただの、ルークという名の男になった。

最後に、俺は顔を上げてゲオルグを睨みつけた。憎しみと怒りを、ありったけその視線に込めて。だが、ゲオルグは少しも動じなかった。彼はただ、憐れな虫けらを見るような目で俺を見返し、小さく、そして確信に満ちた声で囁いた。

「さらばだ、泥水神官」

審問は終わった。俺は聖騎士たちに両脇を抱えられ、大神殿の出口へと引きずられていく。見慣れたはずの、磨き上げられた大理石の廊下。壁に飾られた聖女たちの肖像画。その全てが、俺を嘲笑っているように見えた。

大神殿の巨大な正門が開かれる。外の光が目に痛い。

門の前には、噂を聞きつけた王都の民衆が黒山の人だかりを作っていた。俺の姿を認めると、彼らは一斉に罵声を浴びせ始めた。

「裏切り者め!」
「神の敵だ!石を投げろ!」

乾いた土塊や、小石が飛んでくる。いくつかが俺の体に当たり、鈍い痛みが走った。聖騎士たちはそれを止めるでもなく、俺を群衆の中へと突き飛ばした。

「とっとと失せろ!二度とこの王都に足を踏み入れるな!」

背後で、重い扉が閉まる音がした。それは、俺の過去の全てが閉ざされた音だった。

俺は人々の罵声を浴びながら、よろよろと歩き始めた。どこへ向かうという当てもない。行く場所も、帰る場所も、俺にはもうどこにもなかった。

振り返ると、空を突くように大神殿の尖塔がそびえ立っていた。かつて、俺が夢と希望を抱いて見上げた場所。師匠と共に、女神への祈りを捧げた場所。そこはもう、俺の世界ではない。

絶望が、冷たい泥水のように全身を満たしていく。所持金はほとんどない。この身一つで、一体どこへ行けばいいのか。

それでも、足は前に進む。今はただ、この場所から離れたかった。俺を拒絶するこの世界から、一歩でも遠くへ。

王都の門をくぐり、荒野へと続く道に出る。乾いた風が、ぼろ布のような服を揺らした。振り返ることは、もうしなかった。

俺の神官としての人生は、今日、終わった。
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