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第7話 寂れた村ミストラル
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バルトロの荷馬車に揺られること二日。荒野の風景は徐々に変化し、背の低い灌木や痩せた草原が見られるようになった。そして、三日目の昼過ぎ。丘を越えたところで、バルトロが前方を指さした。
「ほら、見えてきたぜ。あれがミストラルだ」
その指の先には、谷間に寄り添うようにして集まる、数軒の家々が見えた。煙突から立ち上る煙は細く、頼りない。周囲に広がる畑は茶色い部分が多く、作物が育っているのかどうか判別もつかない。バルトロの言った通り、活気という言葉とは無縁の、静かで寂れた場所だった。
荷馬車が村の入り口に差しかかると、畑仕事をしていたらしい数人の村人が、怪訝な顔でこちらを見た。彼らは鍬を持つ手を止め、俺たちの姿を遠巻きに観察している。
「よう!村長さんいるかい!」
バルトロが明るい声で呼びかけると、村人たちの強張っていた表情が少しだけ緩んだ。彼らはバルトロには見知った顔なのだろう。軽く会釈を返すが、その隣に座る見慣れない俺の姿には、再び警戒の色を浮かべた。誰も、俺と目を合わせようとはしない。まるで、存在しないものとして扱われているかのようだった。
村の中は、想像以上に静かだった。道は舗装されておらず、荷馬車の車輪が乾いた土を巻き上げる。家々は木造で、どれも雨風に長年晒されたことが分かる色褪せた壁をしていた。軒先で繕い物をしていた老婆が、俺の姿を認めると、ぴしゃりと窓を閉める。村全体が、よそ者を拒絶している空気を放っていた。
「まあ、こんな村だ。驚いたかい」
バルトロが、苦笑しながら言った。
「……いいえ。静かで、いいところだと思います」
俺の言葉は、本心でもあり、気遣いでもあった。王都の喧騒と大神殿の息苦しい人間関係に疲弊していた俺にとって、この静けさはむしろ心地よくさえ感じられた。
やがて荷馬車は、村で一番大きな家の前で止まった。ここが村長の家らしい。バルトロが荷台から降りると、家の扉が軋みながら開かれ、白髪の老人が姿を現した。厳しい顔つきに、深く刻まれた皺。一目で、この村のまとめ役だと分かる威厳があった。
「バルトロか。息災だったか」
「ああ、村長さんこそ。頼まれてた薬と塩を持ってきたい」
「うむ、ご苦労」
村長はバルトロに頷くと、その鋭い目を俺に向けた。値踏みするような、探るような視線。俺は荷台から降り、深く頭を下げた。
「そいつは誰だ。見ねえ顔だが」
「ああ、こいつはルークってんだ。街道で行き倒れてたんで、ここまで乗せてきた。見ての通り、悪い奴じゃねえよ」
バルトロが取りなすように言ってくれるが、村長の警戒心は解けない。
「行き倒れ、だと?……どこの生まれだ。何を生業にしている」
「それは……」
俺は言葉に詰まった。元神官です、などと言えるはずもない。嘘をつくのも気が引けた。俺が答えに窮していると、バルトロが助け舟を出してくれた。
「まあまあ、村長さん。色々事情があるんだろ。俺が保証する。悪いようにはしねえよ」
「お前さんが保証する、か」
村長は腕を組み、しばらく俺とバルトロの顔を交互に見た。村の生活は、常に危険と隣り合わせだ。よそ者を安易に受け入れられない彼の気持ちも理解できた。
やがて村長は、大きなため息をついた。
「……分かった。バルトロの顔に免じて、ひとまずは置いてやろう。だが、条件がある」
「なんだい?」
「寝床は、村の外れにある古い納屋を使え。食事は自分で何とかしろ。そして、決して村の者に面倒をかけるな。もし問題を起こせば、即刻追い出す。それでいいな」
それは、滞在を許可するというより、存在を黙認するというニュアンスに近かった。だが、俺に異論はない。むしろ、雨風をしのげる場所を与えられただけでも、ありがたかった。
「はい。ありがとうございます」
俺が再び頭を下げると、村長はふんと鼻を鳴らして家の中へ戻っていった。
バルトロは荷馬車から品物を降ろし始め、俺もそれを手伝った。薬草、塩、布、鉄釘。村にとっては、どれも貴重な品なのだろう。バルトロは村人たちと物々交換で取引を済ませると、俺を村外れの納屋まで案内してくれた。
納屋は、今にも崩れそうなほど古びていた。壁にはいくつも隙間があり、屋根も所々穴が空いている。中には、埃をかぶった古い農具と、山積みの干し草があるだけだった。
「すまねえな、こんな場所で」
バルトロが申し訳なさそうに言った。
「いえ、十分すぎます。本当に、何から何まで……」
俺は言葉を尽くして礼を言った。バルトロは「いいってことよ」と笑うと、懐から小さな革袋を取り出した。
「これ、餞別だ。大した額じゃねえが、当座の足しにしな」
「こ、こんなものまで!いただけません!」
「いいから、取っとけ。俺は明日にはもう次の町へ発つ。達者でな、ルーク」
バルトロは俺の手に革袋を無理やり握らせると、ひらひらと手を振りながら去っていった。その背中が見えなくなるまで、俺はずっと頭を下げ続けていた。彼の親切がなければ、俺は今頃、荒野でカラスの餌になっていただろう。この恩は、決して忘れない。
一人になった納屋は、やけに広く感じられた。隙間から差し込む西日が、埃をきらきらと照らしている。俺は干し草の上に腰を下ろした。ふわりと、乾いた草の匂いがする。それは、大神殿で嗅ぎ続けた高級な香油の匂いとは全く違う、素朴で、どこか懐かしい匂いだった。
大神殿での日々が、まるで遠い昔のことのように思える。ゲオルグの顔も、俺を罵った人々の声も、この静寂の中では霞んでいく。
ここでなら、静かに生きていけるのかもしれない。誰にも関わらず、誰にも迷惑をかけず、ただ息を潜めるようにして。神官だった過去も、泥水の聖水も、全て忘れて。
だが、本当にそれでいいのか。
俺はバルトロにもらった革袋を開けてみた。中には、銅貨が十数枚。これで数日は食いつなげるだろう。だが、その後はどうする?村長の言う通り、食い扶持は自分で稼がねばならない。
俺に、何ができるというのだろう。神官としての知識は、ここでは何の役にも立たない。農作業の経験もなければ、狩りの技術もない。俺は、あまりにも無力だった。
ふと、自分の腰に手をやる。そこには、追放される時に唯一持ち出すことを許された、小さな革のポーチがあった。中に入っているのは、俺が自分で作った泥水の小瓶が数本。何の役にも立たない、俺の力の唯一の証明。
俺は一本取り出し、その濁った液体を眺めた。
この力は、呪いなのだろうか。それとも、師匠が言ったように、いつか光になるのだろうか。
答えは出ない。ただ、ミストラルの村に吹く乾いた風が、納屋の隙間を通り抜けて、俺の頬を撫でていった。それは、俺の新たな人生の始まりを告げる風のようにも感じられた。
「ほら、見えてきたぜ。あれがミストラルだ」
その指の先には、谷間に寄り添うようにして集まる、数軒の家々が見えた。煙突から立ち上る煙は細く、頼りない。周囲に広がる畑は茶色い部分が多く、作物が育っているのかどうか判別もつかない。バルトロの言った通り、活気という言葉とは無縁の、静かで寂れた場所だった。
荷馬車が村の入り口に差しかかると、畑仕事をしていたらしい数人の村人が、怪訝な顔でこちらを見た。彼らは鍬を持つ手を止め、俺たちの姿を遠巻きに観察している。
「よう!村長さんいるかい!」
バルトロが明るい声で呼びかけると、村人たちの強張っていた表情が少しだけ緩んだ。彼らはバルトロには見知った顔なのだろう。軽く会釈を返すが、その隣に座る見慣れない俺の姿には、再び警戒の色を浮かべた。誰も、俺と目を合わせようとはしない。まるで、存在しないものとして扱われているかのようだった。
村の中は、想像以上に静かだった。道は舗装されておらず、荷馬車の車輪が乾いた土を巻き上げる。家々は木造で、どれも雨風に長年晒されたことが分かる色褪せた壁をしていた。軒先で繕い物をしていた老婆が、俺の姿を認めると、ぴしゃりと窓を閉める。村全体が、よそ者を拒絶している空気を放っていた。
「まあ、こんな村だ。驚いたかい」
バルトロが、苦笑しながら言った。
「……いいえ。静かで、いいところだと思います」
俺の言葉は、本心でもあり、気遣いでもあった。王都の喧騒と大神殿の息苦しい人間関係に疲弊していた俺にとって、この静けさはむしろ心地よくさえ感じられた。
やがて荷馬車は、村で一番大きな家の前で止まった。ここが村長の家らしい。バルトロが荷台から降りると、家の扉が軋みながら開かれ、白髪の老人が姿を現した。厳しい顔つきに、深く刻まれた皺。一目で、この村のまとめ役だと分かる威厳があった。
「バルトロか。息災だったか」
「ああ、村長さんこそ。頼まれてた薬と塩を持ってきたい」
「うむ、ご苦労」
村長はバルトロに頷くと、その鋭い目を俺に向けた。値踏みするような、探るような視線。俺は荷台から降り、深く頭を下げた。
「そいつは誰だ。見ねえ顔だが」
「ああ、こいつはルークってんだ。街道で行き倒れてたんで、ここまで乗せてきた。見ての通り、悪い奴じゃねえよ」
バルトロが取りなすように言ってくれるが、村長の警戒心は解けない。
「行き倒れ、だと?……どこの生まれだ。何を生業にしている」
「それは……」
俺は言葉に詰まった。元神官です、などと言えるはずもない。嘘をつくのも気が引けた。俺が答えに窮していると、バルトロが助け舟を出してくれた。
「まあまあ、村長さん。色々事情があるんだろ。俺が保証する。悪いようにはしねえよ」
「お前さんが保証する、か」
村長は腕を組み、しばらく俺とバルトロの顔を交互に見た。村の生活は、常に危険と隣り合わせだ。よそ者を安易に受け入れられない彼の気持ちも理解できた。
やがて村長は、大きなため息をついた。
「……分かった。バルトロの顔に免じて、ひとまずは置いてやろう。だが、条件がある」
「なんだい?」
「寝床は、村の外れにある古い納屋を使え。食事は自分で何とかしろ。そして、決して村の者に面倒をかけるな。もし問題を起こせば、即刻追い出す。それでいいな」
それは、滞在を許可するというより、存在を黙認するというニュアンスに近かった。だが、俺に異論はない。むしろ、雨風をしのげる場所を与えられただけでも、ありがたかった。
「はい。ありがとうございます」
俺が再び頭を下げると、村長はふんと鼻を鳴らして家の中へ戻っていった。
バルトロは荷馬車から品物を降ろし始め、俺もそれを手伝った。薬草、塩、布、鉄釘。村にとっては、どれも貴重な品なのだろう。バルトロは村人たちと物々交換で取引を済ませると、俺を村外れの納屋まで案内してくれた。
納屋は、今にも崩れそうなほど古びていた。壁にはいくつも隙間があり、屋根も所々穴が空いている。中には、埃をかぶった古い農具と、山積みの干し草があるだけだった。
「すまねえな、こんな場所で」
バルトロが申し訳なさそうに言った。
「いえ、十分すぎます。本当に、何から何まで……」
俺は言葉を尽くして礼を言った。バルトロは「いいってことよ」と笑うと、懐から小さな革袋を取り出した。
「これ、餞別だ。大した額じゃねえが、当座の足しにしな」
「こ、こんなものまで!いただけません!」
「いいから、取っとけ。俺は明日にはもう次の町へ発つ。達者でな、ルーク」
バルトロは俺の手に革袋を無理やり握らせると、ひらひらと手を振りながら去っていった。その背中が見えなくなるまで、俺はずっと頭を下げ続けていた。彼の親切がなければ、俺は今頃、荒野でカラスの餌になっていただろう。この恩は、決して忘れない。
一人になった納屋は、やけに広く感じられた。隙間から差し込む西日が、埃をきらきらと照らしている。俺は干し草の上に腰を下ろした。ふわりと、乾いた草の匂いがする。それは、大神殿で嗅ぎ続けた高級な香油の匂いとは全く違う、素朴で、どこか懐かしい匂いだった。
大神殿での日々が、まるで遠い昔のことのように思える。ゲオルグの顔も、俺を罵った人々の声も、この静寂の中では霞んでいく。
ここでなら、静かに生きていけるのかもしれない。誰にも関わらず、誰にも迷惑をかけず、ただ息を潜めるようにして。神官だった過去も、泥水の聖水も、全て忘れて。
だが、本当にそれでいいのか。
俺はバルトロにもらった革袋を開けてみた。中には、銅貨が十数枚。これで数日は食いつなげるだろう。だが、その後はどうする?村長の言う通り、食い扶持は自分で稼がねばならない。
俺に、何ができるというのだろう。神官としての知識は、ここでは何の役にも立たない。農作業の経験もなければ、狩りの技術もない。俺は、あまりにも無力だった。
ふと、自分の腰に手をやる。そこには、追放される時に唯一持ち出すことを許された、小さな革のポーチがあった。中に入っているのは、俺が自分で作った泥水の小瓶が数本。何の役にも立たない、俺の力の唯一の証明。
俺は一本取り出し、その濁った液体を眺めた。
この力は、呪いなのだろうか。それとも、師匠が言ったように、いつか光になるのだろうか。
答えは出ない。ただ、ミストラルの村に吹く乾いた風が、納屋の隙間を通り抜けて、俺の頬を撫でていった。それは、俺の新たな人生の始まりを告げる風のようにも感じられた。
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