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1.茜に揺れる、銀の影
「確かに商品は受け取った。……ほらよ、ミリシュ。今日の代金だ」
「ありがとう、おじさん。またよろしくお願いします」
無愛想に手をひらひらとさせる店主に一礼をして、ミリシュ・エルパは店を出た。行きと違って軽くなったバスケットをゆらゆらと振りながら帰路につけば、つい先程までかごの中に入っていた商品の残り香が鼻をくすぐる。甘く、それでいて爽やかな香りはミリシュを心地よい気分にさせてくれる。
「おいこら、町の中でバスケット振り回すんじゃねぇよ」
しかし、背後からの小さな衝撃と窘める声によって、弾んでいた心が落ち着きを取り戻してしまう。
「きゃっ!? ……もう、なにも叩くことないじゃない!」
振り返れば、幼い頃から兄のような存在であるアカーシュカの姿があった。彼は呆れた表情で「往来でかごを振り回してるほうが悪い」と言うと、今度はミリシュの額を指で小さく跳ねた。
「いたっ! ……確かに周りが見えてなかったことは反省するけど……」
――だからって叩くことないじゃない。
ミリシュはアカーシュカをキッと睨みつける。彼は「はいはい、オレが悪かったよ」と反省しているとは思えない口調で謝罪するとミリシュから視線を外す。その視線はミリシュに向けるものと違い、どこか厳しい眼差しだ。
「お前、もう帰んの?」
「う、うん」
視線をどこかへと向けたまま、アカーシュカはミリシュに問いかけた。それに頷いてみせれば彼は「送っていく」と言ってミリシュの体を反転させると、軽く背を叩いて前に進むように促した。
「もう、シュカ兄は心配性なんだから」
「お前の赤髪は目立つんだよ、自覚しろ」
「それはシュカ兄もでしょ……っ、きゃっ!?」
家路へと足を踏み出せば、前から歩いてきていたのだろう人物にぶつかってしまった。反動で尻もちをつきそうになったところを、アカーシュカに支えられることで免れた。
「ごっ、ごめんなさい!」
「チッ、気をつけろ」
慌てて謝罪をすれば、ぶつかってしまった男性は舌打ちをして足早に立ち去った。
「あの人、大丈夫だったかな」
「……ミリィ、バスケットの中を確認しろ」
不機嫌そうに立ち去っていく男性を見送るミリシュに対して、アカーシュカは険しい表情で男の姿を追っていた。そんな彼の様子に首を傾げながらも、ミリシュは指示に従ってバスケットの中を確認する。すると。
「金貨袋がない!?」
バスケットの中にあったはずの金貨袋が消えてしまっていた。
「あいつ、スリだったか」
「と、取り返さなきゃ!」
ミリシュの顔からサーッと色が消えていく。あの袋には、二十日近く生活が賄えるだけの金貨が入っていた。つまり、かなりの大金である。
しかし、スリの男性は小さくではあるが視界に映っている。急いで追えば間に合うだろう。そう思ったミリシュは男性が立ち去った方向へ駆け出した。背後で舌打ちが聞こえたかと思えば、すぐ隣から「一人で行くな、バカ」と呆れた声がした。
「ご、ごめん。でも……!」
「分かってるよ。……ああいう輩は路地裏に逃げ込むだろう。危険だからはぐれるなよ」
「うん!」
「言ったそばからはぐれちゃった……」
ミリシュは薄暗い路地裏で一人頭を抱えた。脳内の片隅に「お前さぁ」と怒りを露わにしているアカーシュカの姿が浮かんでいる。だが、ミリシュもはぐれようと思ってはぐれたわけではないのだ。
こちらを撒くために人混みの中へと入っていくスリを追っているうちに、ミリシュは人々に流されるようにして移動するしかなかったのだ。身動きができる場所へ移動していくうちに何故か路地裏へと辿り着いてしまった。そんな言い訳を考えている途中にも脳内のアカーシュカは「言い訳すんな」と苛立っている。恐らく実際のアカーシュカも同じような顔をしてミリシュを探していることだろう。
(でもシュカ兄は人が勝手に避けてくれるじゃない)
自分の作り出した幻想に反論しても仕方がないのだが、それでもミリシュは言わずにはいられなかった。スリを追っている最中、体格の良いアカーシュカが通ろうとすれば人々は衝突を避けるため自然と彼から距離を取るように動いていた。一方でミリシュは平均的な大きさのため、自身も人々も最小の動きで衝突を回避しようとした。それがこの結果である。つまり、これは避けようがなかったことなのだ。空が朱くなる時間帯に混み合う街路を駆け抜けたスリが悪いのであって、ミリシュに非はない。
「うっ、ぐぅ……あ……」
「……っ!」
アカーシュカへの反論を考えていれば、奥の方からうめき声が聞こえてくる。突然聞こえてきた声に、ミリシュの体はびくりと反応した。
(に、逃げなきゃ……)
路地裏には危険が多い。
社会から弾かれてしまった者、海の外からやって来たならず者などいわゆる日陰者が集まりやすい場所だからだ。空が朱くなり始めたら決して一人で路地裏を歩いてはならない。それはこの国で生きている者であれば常識だった。ミリシュもそれを知っている。だからこそ、聞こえてくる声がどれだけ苦しそうな響きを伴っていても無視して大通りへと戻らなければならない。けれど。
「……こんな、ところで……死ぬ、のか……」
――俺には相応しい最期かもしれないな。
小さく聞こえてきた自虐的な言葉に、ミリシュの体は声の元へと自然と動き出していた。
「そんなこと言わないで!」
そう遠くない、けれど意識しなければ気付けないような路地の行き止まりには、到底この場には相応しいとは思えない男の姿があった。彼は真っ赤な液体の中で虚ろな表情をしていた。男が身に付けている衣服は血を吸い、澱んだ色に変化してしまっている。そう長くは持たない。素人のミリシュでも直感的にそう判断することができた。しかし、だからといって見捨てることができるミリシュではなかった。
「……っ、せめて止血だけでも……!」
ミリシュはワンピースの中に着用していたペチコートを急いで脱ぐと、そのまま縦に引き裂いた。火事場の馬鹿力なのか、それとも日々の作業の賜物か。思っていたより簡単に裂けてくれた、布となったそれを男の出血している部分へと巻いていく。
「……ぐ、ぅ……」
力強く巻いているためか、男は圧迫感にうめき声を上げている。だが、その苦しそうな声に心を痛めている場合ではない。むしろ、声が上がっている間はまだ希望がある。ミリシュは手早く止血作業を行っていく。
「できたっ……けど……!」
強く巻きつけたものの、傷はかなり深いようで布にはじんわりと血が滲んでいく。
(私の力で間に合う……?)
これ以上は医者の力でないと厳しいだろう。とはいえ、医者を呼びに行くのは現実的ではない。路地裏に、という言葉を発せば追い返されることは目に見えていた。つまり、どうにかして連れて行く必要がある。だが、ミリシュの力で男を医者の元まで運べるだろうか。不安がよぎる。
(ううん、諦めるわけにはいかないよね)
ミリシュは軽く腕まくりをして、男の懐に入り込む。大量に出血し、力の入らなくなっている男の体は想像よりもずっと重かった。彼の体を半ば引きずるようにして進んでいく。角を曲がり、大通りが遠目に見えてきた、その時。
「嬢ちゃん、その男をどこに連れて行くつもりだぁ?」
「……っ!?」
突然目の前に男が現れた。
口元をストールで隠している男の目つきは鋭く、睨まれたミリシュの体は無意識に震えだす。関わってはならない人物であると、本能が伝えていた。
「……ソイツを見ちまった以上、嬢ちゃんも始末対象だ。わりぃが、二人まとめて死んでもらおう」
男がため息を吐きながら短剣を取り出す。
ミリシュの体は自然と逃げ出そうとするも、背負っている男の重さがそれを許さなかった。
「に、げ……ろ……」
背負っている男がか細い声で逃げろと促してくる。ミリシュは力なく首を横に振る。無理だ。彼を置いて逃げたところで、目の前の男はミリシュを容易に捕らえることができるだろう。根拠はない。けれど、直感がそう告げていた。なにより、一度助けると決めた人間を置いて一人だけ逃げるなど、ミリシュにはできない。
「可哀想になぁ、嬢ちゃん。ソイツを見つけなきゃ、もう少し長生きできたろうに」
男はゆったりとした動きで剣の尖先をこちらへと向けた。可哀想、などとは微塵も思っていないことは、冷たい声の響きで分かった。
「……っ、ひっ……」
剣先が喉元に近付いてくる。
「恨むならソイツを恨むこった」
僅かに遠ざかった刀身が狙いを定めたことを直感的に理解できてしまい、ミリシュは背負っている男の腕をぎゅっと握りしめた。背後から声にならない声が聞こえる。それは音にならない空気の塊でしかないはずなのに、不思議と悔しさのようなものを感じさせた。
「……じゃあな、嬢ちゃん」
ストールで隠れているはずの男の口角がはっきりと見えた、気がした。迫りくる刀身はひどくゆったりとした動きをしていて。ああ、死んでしまうのだ。直感的に理解すれば、反射的にまぶたが落ちていく。
「させねぇよ!」
「っ!? がっ……!」
だが、ミリシュの視界が真っ暗になるより早く、聞き覚えのある声とほぼ同じタイミングでストールを巻いた男が吹き飛んでいった。
「無事か、ミリィ!」
「シュカ兄! どうしてここに……って、そんな場合じゃなかった。この人が……!」
命の危機を免れたこと、助けてくれたものが幼馴染であるアカーシュカであったことに、ミリシュは深く安堵した。じんわりと滲みはじめた涙は、しかし背後の男が微かに身動ぎをしたことで一気に蒸発していく。安堵は焦燥に変わり、彼のことを伝えねばと思えば思うほどミリシュの言葉はあやふやになっていく。
「落ち着け。……お前たち、その不審人物を捕らえよ!」
「「「はっ!」」」
そんな彼女の肩に手を置いたアカーシュカは冷静になるように諭す。ミリシュが一つ呼吸をしている間に、アカーシュカはどこからともなく現れた――ように、彼女には見えた――複数の騎士にストールの男を捕らえるように指示を出していた。騎士たちが男を捕らえようと動き出したことを確認したアカーシュカは再度ミリシュに向き合うと、今度は目線を合わせて静かに言った。
「その男は諦めろ。……もう助からない」
「で、でも……! まだ動いて……!」
アカーシュカの言葉にミリシュは首を振る。彼ならばミリシュの気持ちが分かるはずだ。あのとき、共にいたアカーシュカであれば。だが、アカーシュカはミリシュよりも強い力で首を横に振って見せた。
「この状態で息があるほうがおかしい。なにより、暗殺者に狙われるような男だぞ。深入りすれば危険なのは今ので分かっただろ。お前の命が危険にさらされるのであれば、オレは見捨てろと……っ、これは……!?」
ミリシュが反論する余地を与える間もなく、アカーシュカは彼女の体から傷だらけの男を引き剥がそうとする。しかし、ミリシュの背から男を奪うと何かに気付いたようで、大きく目を見開く。そうして深い溜息ののち、彼は大きな舌打ちをしていった。――最悪だ、と。
「おい、誰でもいい。あの偏屈医者をエルパ邸まで遣わしてくれ。……ミリィ、走れるか」
「だ、大丈夫」
「なら、今度こそ家まで送る。……ついでに、この男もな」
アカーシュカは騎士に指示を飛ばすと、傷を負った男を抱えた。そして、深いため息を一つ吐くと、ミリシュに「行くぞ」と声をかけ、そのまま駆け出した。
面倒そうな様子のアカーシュカだったが、抱えた男を見捨てるという選択はどうやら消えたようだ。人通りが少なく駆け抜けることができる路地裏を、彼はミリシュが辛うじて見失わないでいられる速度で進んでいく。ミリシュはアカーシュカの揺れる赤髪が視界から消えてしまわぬように全力で駆けた。
「ありがとう、おじさん。またよろしくお願いします」
無愛想に手をひらひらとさせる店主に一礼をして、ミリシュ・エルパは店を出た。行きと違って軽くなったバスケットをゆらゆらと振りながら帰路につけば、つい先程までかごの中に入っていた商品の残り香が鼻をくすぐる。甘く、それでいて爽やかな香りはミリシュを心地よい気分にさせてくれる。
「おいこら、町の中でバスケット振り回すんじゃねぇよ」
しかし、背後からの小さな衝撃と窘める声によって、弾んでいた心が落ち着きを取り戻してしまう。
「きゃっ!? ……もう、なにも叩くことないじゃない!」
振り返れば、幼い頃から兄のような存在であるアカーシュカの姿があった。彼は呆れた表情で「往来でかごを振り回してるほうが悪い」と言うと、今度はミリシュの額を指で小さく跳ねた。
「いたっ! ……確かに周りが見えてなかったことは反省するけど……」
――だからって叩くことないじゃない。
ミリシュはアカーシュカをキッと睨みつける。彼は「はいはい、オレが悪かったよ」と反省しているとは思えない口調で謝罪するとミリシュから視線を外す。その視線はミリシュに向けるものと違い、どこか厳しい眼差しだ。
「お前、もう帰んの?」
「う、うん」
視線をどこかへと向けたまま、アカーシュカはミリシュに問いかけた。それに頷いてみせれば彼は「送っていく」と言ってミリシュの体を反転させると、軽く背を叩いて前に進むように促した。
「もう、シュカ兄は心配性なんだから」
「お前の赤髪は目立つんだよ、自覚しろ」
「それはシュカ兄もでしょ……っ、きゃっ!?」
家路へと足を踏み出せば、前から歩いてきていたのだろう人物にぶつかってしまった。反動で尻もちをつきそうになったところを、アカーシュカに支えられることで免れた。
「ごっ、ごめんなさい!」
「チッ、気をつけろ」
慌てて謝罪をすれば、ぶつかってしまった男性は舌打ちをして足早に立ち去った。
「あの人、大丈夫だったかな」
「……ミリィ、バスケットの中を確認しろ」
不機嫌そうに立ち去っていく男性を見送るミリシュに対して、アカーシュカは険しい表情で男の姿を追っていた。そんな彼の様子に首を傾げながらも、ミリシュは指示に従ってバスケットの中を確認する。すると。
「金貨袋がない!?」
バスケットの中にあったはずの金貨袋が消えてしまっていた。
「あいつ、スリだったか」
「と、取り返さなきゃ!」
ミリシュの顔からサーッと色が消えていく。あの袋には、二十日近く生活が賄えるだけの金貨が入っていた。つまり、かなりの大金である。
しかし、スリの男性は小さくではあるが視界に映っている。急いで追えば間に合うだろう。そう思ったミリシュは男性が立ち去った方向へ駆け出した。背後で舌打ちが聞こえたかと思えば、すぐ隣から「一人で行くな、バカ」と呆れた声がした。
「ご、ごめん。でも……!」
「分かってるよ。……ああいう輩は路地裏に逃げ込むだろう。危険だからはぐれるなよ」
「うん!」
「言ったそばからはぐれちゃった……」
ミリシュは薄暗い路地裏で一人頭を抱えた。脳内の片隅に「お前さぁ」と怒りを露わにしているアカーシュカの姿が浮かんでいる。だが、ミリシュもはぐれようと思ってはぐれたわけではないのだ。
こちらを撒くために人混みの中へと入っていくスリを追っているうちに、ミリシュは人々に流されるようにして移動するしかなかったのだ。身動きができる場所へ移動していくうちに何故か路地裏へと辿り着いてしまった。そんな言い訳を考えている途中にも脳内のアカーシュカは「言い訳すんな」と苛立っている。恐らく実際のアカーシュカも同じような顔をしてミリシュを探していることだろう。
(でもシュカ兄は人が勝手に避けてくれるじゃない)
自分の作り出した幻想に反論しても仕方がないのだが、それでもミリシュは言わずにはいられなかった。スリを追っている最中、体格の良いアカーシュカが通ろうとすれば人々は衝突を避けるため自然と彼から距離を取るように動いていた。一方でミリシュは平均的な大きさのため、自身も人々も最小の動きで衝突を回避しようとした。それがこの結果である。つまり、これは避けようがなかったことなのだ。空が朱くなる時間帯に混み合う街路を駆け抜けたスリが悪いのであって、ミリシュに非はない。
「うっ、ぐぅ……あ……」
「……っ!」
アカーシュカへの反論を考えていれば、奥の方からうめき声が聞こえてくる。突然聞こえてきた声に、ミリシュの体はびくりと反応した。
(に、逃げなきゃ……)
路地裏には危険が多い。
社会から弾かれてしまった者、海の外からやって来たならず者などいわゆる日陰者が集まりやすい場所だからだ。空が朱くなり始めたら決して一人で路地裏を歩いてはならない。それはこの国で生きている者であれば常識だった。ミリシュもそれを知っている。だからこそ、聞こえてくる声がどれだけ苦しそうな響きを伴っていても無視して大通りへと戻らなければならない。けれど。
「……こんな、ところで……死ぬ、のか……」
――俺には相応しい最期かもしれないな。
小さく聞こえてきた自虐的な言葉に、ミリシュの体は声の元へと自然と動き出していた。
「そんなこと言わないで!」
そう遠くない、けれど意識しなければ気付けないような路地の行き止まりには、到底この場には相応しいとは思えない男の姿があった。彼は真っ赤な液体の中で虚ろな表情をしていた。男が身に付けている衣服は血を吸い、澱んだ色に変化してしまっている。そう長くは持たない。素人のミリシュでも直感的にそう判断することができた。しかし、だからといって見捨てることができるミリシュではなかった。
「……っ、せめて止血だけでも……!」
ミリシュはワンピースの中に着用していたペチコートを急いで脱ぐと、そのまま縦に引き裂いた。火事場の馬鹿力なのか、それとも日々の作業の賜物か。思っていたより簡単に裂けてくれた、布となったそれを男の出血している部分へと巻いていく。
「……ぐ、ぅ……」
力強く巻いているためか、男は圧迫感にうめき声を上げている。だが、その苦しそうな声に心を痛めている場合ではない。むしろ、声が上がっている間はまだ希望がある。ミリシュは手早く止血作業を行っていく。
「できたっ……けど……!」
強く巻きつけたものの、傷はかなり深いようで布にはじんわりと血が滲んでいく。
(私の力で間に合う……?)
これ以上は医者の力でないと厳しいだろう。とはいえ、医者を呼びに行くのは現実的ではない。路地裏に、という言葉を発せば追い返されることは目に見えていた。つまり、どうにかして連れて行く必要がある。だが、ミリシュの力で男を医者の元まで運べるだろうか。不安がよぎる。
(ううん、諦めるわけにはいかないよね)
ミリシュは軽く腕まくりをして、男の懐に入り込む。大量に出血し、力の入らなくなっている男の体は想像よりもずっと重かった。彼の体を半ば引きずるようにして進んでいく。角を曲がり、大通りが遠目に見えてきた、その時。
「嬢ちゃん、その男をどこに連れて行くつもりだぁ?」
「……っ!?」
突然目の前に男が現れた。
口元をストールで隠している男の目つきは鋭く、睨まれたミリシュの体は無意識に震えだす。関わってはならない人物であると、本能が伝えていた。
「……ソイツを見ちまった以上、嬢ちゃんも始末対象だ。わりぃが、二人まとめて死んでもらおう」
男がため息を吐きながら短剣を取り出す。
ミリシュの体は自然と逃げ出そうとするも、背負っている男の重さがそれを許さなかった。
「に、げ……ろ……」
背負っている男がか細い声で逃げろと促してくる。ミリシュは力なく首を横に振る。無理だ。彼を置いて逃げたところで、目の前の男はミリシュを容易に捕らえることができるだろう。根拠はない。けれど、直感がそう告げていた。なにより、一度助けると決めた人間を置いて一人だけ逃げるなど、ミリシュにはできない。
「可哀想になぁ、嬢ちゃん。ソイツを見つけなきゃ、もう少し長生きできたろうに」
男はゆったりとした動きで剣の尖先をこちらへと向けた。可哀想、などとは微塵も思っていないことは、冷たい声の響きで分かった。
「……っ、ひっ……」
剣先が喉元に近付いてくる。
「恨むならソイツを恨むこった」
僅かに遠ざかった刀身が狙いを定めたことを直感的に理解できてしまい、ミリシュは背負っている男の腕をぎゅっと握りしめた。背後から声にならない声が聞こえる。それは音にならない空気の塊でしかないはずなのに、不思議と悔しさのようなものを感じさせた。
「……じゃあな、嬢ちゃん」
ストールで隠れているはずの男の口角がはっきりと見えた、気がした。迫りくる刀身はひどくゆったりとした動きをしていて。ああ、死んでしまうのだ。直感的に理解すれば、反射的にまぶたが落ちていく。
「させねぇよ!」
「っ!? がっ……!」
だが、ミリシュの視界が真っ暗になるより早く、聞き覚えのある声とほぼ同じタイミングでストールを巻いた男が吹き飛んでいった。
「無事か、ミリィ!」
「シュカ兄! どうしてここに……って、そんな場合じゃなかった。この人が……!」
命の危機を免れたこと、助けてくれたものが幼馴染であるアカーシュカであったことに、ミリシュは深く安堵した。じんわりと滲みはじめた涙は、しかし背後の男が微かに身動ぎをしたことで一気に蒸発していく。安堵は焦燥に変わり、彼のことを伝えねばと思えば思うほどミリシュの言葉はあやふやになっていく。
「落ち着け。……お前たち、その不審人物を捕らえよ!」
「「「はっ!」」」
そんな彼女の肩に手を置いたアカーシュカは冷静になるように諭す。ミリシュが一つ呼吸をしている間に、アカーシュカはどこからともなく現れた――ように、彼女には見えた――複数の騎士にストールの男を捕らえるように指示を出していた。騎士たちが男を捕らえようと動き出したことを確認したアカーシュカは再度ミリシュに向き合うと、今度は目線を合わせて静かに言った。
「その男は諦めろ。……もう助からない」
「で、でも……! まだ動いて……!」
アカーシュカの言葉にミリシュは首を振る。彼ならばミリシュの気持ちが分かるはずだ。あのとき、共にいたアカーシュカであれば。だが、アカーシュカはミリシュよりも強い力で首を横に振って見せた。
「この状態で息があるほうがおかしい。なにより、暗殺者に狙われるような男だぞ。深入りすれば危険なのは今ので分かっただろ。お前の命が危険にさらされるのであれば、オレは見捨てろと……っ、これは……!?」
ミリシュが反論する余地を与える間もなく、アカーシュカは彼女の体から傷だらけの男を引き剥がそうとする。しかし、ミリシュの背から男を奪うと何かに気付いたようで、大きく目を見開く。そうして深い溜息ののち、彼は大きな舌打ちをしていった。――最悪だ、と。
「おい、誰でもいい。あの偏屈医者をエルパ邸まで遣わしてくれ。……ミリィ、走れるか」
「だ、大丈夫」
「なら、今度こそ家まで送る。……ついでに、この男もな」
アカーシュカは騎士に指示を飛ばすと、傷を負った男を抱えた。そして、深いため息を一つ吐くと、ミリシュに「行くぞ」と声をかけ、そのまま駆け出した。
面倒そうな様子のアカーシュカだったが、抱えた男を見捨てるという選択はどうやら消えたようだ。人通りが少なく駆け抜けることができる路地裏を、彼はミリシュが辛うじて見失わないでいられる速度で進んでいく。ミリシュはアカーシュカの揺れる赤髪が視界から消えてしまわぬように全力で駆けた。
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