終われない人々の国

カイ異

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やるべきこと

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「今朝は何を食べた?」
 目前に広がる湖を眺めているとき、一人のしわの寄った老人が話しかけてきた。俺は急に話しかけられたことに少し戸惑ったが、湖を見たまま何も答えなかった。
 老人はため息をつくと俺と同じように湖を見つめながら草原に座る。昨日は雨が降っていたため、きっと濡れるだろうなと思ったが、伝えるまではしなかった。
 この老人が横に座ってくるのは今日が初めてではない。数か月前から、湖を見ているといつも横に現れた。
 最初のころは、気づいた時にはいつもそばにいたため見張られているかのような気持ち悪さを覚えた。しかし、今となっては何もしてこないとわかっているため、完全に無視していた。

「今日もきれいだな」
 二人でぼうっと湖を見続けて数分間、老人は再び口を開いた。声がはっきりとしておらず聞き取りづらい。それが余計に俺をイラつかせた。
 何かやらなければならないことがあったはずなのだ。
 でもそれが思い出せない。
 きっと目の前に広がる湖に関わることだったはずだ。だからこそ、俺はここから離れられずいつも湖を見ているのだ。なのに、この老人は何の嫌がらせかいつも話しかけてきては俺の邪魔をする。本当に鬱陶しい。
「知っているか? この湖で亡くなった人の話」
 懲りずにまた老人が話しかけてきた。
「うるさい!」
 俺は老人を怒鳴りつけた。そんな話など聞きたくもない。俺は俺が何をなさなくてはいけないのか思い出さなくてはならないのだ。
 老人は寂しそうに俯いた。そしてどうすればいいのか迷うようにもう少ない髪をわさわさといじる。
 その瞬間俺の中で何かが輝いた気がした。そのしぐさは見覚えのあるものだった。
 俺のなすべきことはこいつと関りがあるのか?
「話せよ」
 俺は老人に向かってぶっきらぼうに言った。その瞬間老人はぱっとうれしそうに顔を上げた。
「俺は昔ここで溺れたんだ」
 老人は先ほどとは打って変わって静かな声で話しかけた。まるで子供を諭すみたいに優しく、でも淡々と言葉を続ける。
「その日の朝食はスクランブルエッグだった。伝えたことはなかったが兄さんはほんと料理が上手だったんだ。俺はここの近くのコテージに来るたび兄さんにいつも作ってもらっていた」
 この湖は観光スポットだ。近くには貸し別荘がいくつもあるし、人によっては土地を買ってコテージを立てる人もいる。
「俺は今でもそのスクランブルエッグの味が忘れられないんだ」
「お前はスクランブルエッグの話をしに来たのか?」
 老人はゆっくりと首を振った。
「これは大事な前座なんだ。最後まで聞いてくれよ」
 俺はしぶしぶ頷いた。いつも必死に考えていても俺は答えを導き出せていない。だが、この老人の話を聞けば何かに気づけるかもしれない。そう思った。
「スクランブルエッグを食べた俺は兄さんにせがんで一緒に湖に行ったんだ。確か朝の7時頃だったはずだ。それくらいだと湖には誰もいないから自由に遊べたんだ」
 ここで老人は一拍置いた。
「馬鹿だよな。朝早く出たせいで親は俺と兄さんが湖に行ったことに気づかなかった」
「……」
「そして俺はダメだってわかっていながら湖に入った。最初は深いところまではいかないつもりだったんだ。だが……つい泳いじまった。行けるところまで行こうとしたんだ」
「だとしたら自己責任だな」
 老人は頷いた。
「ああ、自己責任だ。全部俺が悪いんだ! なのに……兄さんは俺を追っかけて湖に入った。溺れる俺を引きずって泳いだんだ」
 その顔には絶望がにじんでいた。それは俺と同じ答えの出ない問答をずっとしている人間の顔だった。
「どうして兄さんは俺を助けちまったんだ!」
 老人は押し黙った。俺も何も言わなかった。数秒の無言の空間を風の音だけが満たしていた。
 老人はカッと見開いてこちらにとびかかって来た。涙を流しながら、必死に俺を掴もうとしてくる。しかし、その手が俺に届くことはなかった。
 正確には届いてはいても俺を掴めなかった。
「なんで、なんで俺なんかのために死んじまったんだよ! 兄さん!」
 泣き叫びながら老人は俺を兄と呼ぶ。必死になって俺を掴もうとする。
 その光景には見覚えがあった。
 ああ、そうだ。これが俺の忘れていることだったのだ。俺はこの湖で必死に弟を救おうと懸命に泳いだ。救わなくてはならない。それだけを必死に考えて、考えて、考えて、そして死んだのだ。
 俺は改めて自分の姿を見る。藻にまみれ水でぐっしょりぬれた服を着た少年が視界に映った。
 どうりで草が湿っているのが気にならないはずだと、ぼうっとした頭で考える。
「今朝食べたのはスクランブルエッグだ」
 俺は思い出すように言った。その瞬間老人ははっと俺の目を覗き込む。
「思い出してくれたのか? 俺がわかるのか兄さん!」
 老人、弟は俺の目を見て声を張り上げる。
「ああ、やっとわかったよ」
 俺はそれだけしか言えなかった。急に体に力が入らなくなったのだ。ふわふわとした心地よい浮遊感に感覚が包まれる。
「俺がお前を守った理由、そんなのはない。兄として俺がするべきだと思ったからしたんだ」
 ああ、なんて馬鹿なのだろう。やるべきことはとうにもう成し遂げていたのだ。なのにそれに気づかず、目的も忘れ何十年もここに囚われていた。
 だが、そんな時間もやっと終われるらしい。
 もう意識を保つのもやっとだ。死んだ人間であった俺は、心残りがあったから終わることができなかった。だが、その心残りはもうない。これでやっと楽になれる。
 朝日が雲の隙間から洩れ、二人を照らす。
 これは道だと思った。俺が天に上る道。
「泣くなよ、そしてめいっぱい生きてこい」
 震える口で何とか言葉を伝える。なんてばかだったのだろう。ずっと兄さんと言ってくれていたのに、それに気づけなかった。
 気づいていたらもっとたくさん話せたかもしれないのに。もっと言葉を残せたかもしれないのに。
 俺は最後の力を振り絞って弟をその目にしっかりと焼き付ける。
 弟はなんて返せばよいかわからないらしく、いつものように髪をわさわさとして見せた。
 その瞬間意識が消えた。


「おじいちゃん、どうしていつもここにいるの?」
 子供の甲高い声が聞こえて、老人は振り返る。
「兄さんに会ってたんだよ」
 老人は優しく子供に語り掛けた。
「ちょっとお父さん、子供に変なこと言わないで」
「いやぁ、悪いな」
 家族の楽しそうな声が湖に響き渡った。
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