終われない人々の国

カイ異

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せめて人として生きるために

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 背中に鋭い痛みを感じながら体を起こす。昨日は最悪な一日だった。寝る場所を見つけられず、仕方なく路地裏で睡眠を取ったのだ。
 今まではなんとかマシな寝床を見つけられたが、そんな幸運はずっとは続かないのだろう。
 痛む背中をほぐすために、軽く上へと伸びをして体を左右へ交互にひねる。ぽきぽきと小気味いい音が聞こえた。
 軽く動いて頭がはっきりした頃、男は食事を手に入れようと路地裏を後にした。
 男の格好はひどいものだ。泥と汚れに塗れた上着に所々に穴の開いたズボン。しかし、格好とは裏腹に、通りを歩く人は誰も一切の反応を示さなかった。
 これがすべての原因だった。男は誰にも感知されなかった。いつからそうなったのかわからない。だが、男がいくら叫ぼうが、不快な匂いを発しようが、目の前に立とうが誰も気づいてくれなかった。
 昔は透明人間になりたいと思っていた。人から蔑まれ嫌われる日々。にもかかわらず、反撃する勇気も持てない。だからこそ相手を見返す力なんて望まず、すべての人が自分に関心を持たなければいいと思った。
 だが、誰にも気づかれないというのは想像以上の地獄だった。誰にも気づかれないということは誰にも助けてもらえないということだ。自分一人の力で生きていくしかなく、病気になったとしても治療も何も受けられない。
 しばらく歩いているといつものコンビニについた。コンビニはいい。たくさんの商品が並ぶが明確な消費期限が決められている。それが意味することは一定数は必ず廃棄する商品が生まれるということだ。
 誰にも感知されなくなってから、商品を盗むことも考えた。だが商品に手をかけた瞬間思ってしまったのだ。
 自分はすべての人から人として扱われない。なら、自分が自分を人と思えなくなったら、自分はいったいなんになるのだろう?
 結果として盗むことはできなかった。その代替案が、廃棄された商品を食べることだった。これもグレーな範囲ではあるが盗むよりはよほどいいと思えたのだ。
 なれた手付きでごみ置き場で廃棄品を探す。こんな時は感知されないことは便利だった。明らかに昼間からゴミを荒らす異常な光景を誰も認識しない。
「……!」
 声にならない声が漏れた。美味しそうなものが見つかったのではない。それは手紙だった。それだけなら捨てられた手紙だと気にならない。しかし、その手紙はまるでゴミから守られるようにジップロックに入れられていた。
 誰にも見られないとわかっていながら辺りをキョロキョロと見てしまう。直感だが、この手紙が自分宛ての気がしたのだ。
 恐る恐る手紙を開く。そこには『左端のゴミ箱の裏を見て』ただそれだけがかかれていた。
 久しぶりに感じた高揚感と共に、書かれた場所を探し出す。そこには期限の切れたコーラとおにぎりが置かれていた。
 誰にも感知されなくなってから初めて人に気づいてもらえた瞬間だった。

 それから二人の文通が続いた。相手はどうやらコンビニでアルバイトをしている女性らしい。年は自分と一個違いの21歳。大学にアルバイト、友達関係。すべてが充実している時期だ。
 自分との境遇の違いに驚かされながらも、普通の人間だとわかり、どうして自分に気づけたのか疑問に感じた。
 彼女は手紙でたいしたことはないと教えてくれた。どうやらアルバイトでゴミ出しを担当しているうちに違和感を覚えたらしい。
 それはゴミ袋の位置が変わっているといった些細なものだった。しかし、疑問に思った彼女は今までいくらか実験をしていたらしい。
 曰く、最初に廃棄品をメモしてなくなっているものがないか調べた。次に荒らされ方から動物じゃないと考え、手紙を用いて意思疎通ができるか試したそうだ。
 それを知り、僅かな違和感から自分の存在にまでたどり着いた彼女に脱帽せざるを得なかった。
『あなたはどう生きるつもりなんですか』
ある日、手紙でそう尋ねられた。文通が始まって数週間経った頃だった。
 聞きたいことの意味はなんとなくわかった。彼女は大学生。もうすぐアルバイトも辞め、就活に力を入れるのだろう。
 今は彼女から食料をもらっているがいずれそれも不可能になる。それにそもそも今の時代一人で生きていくことなど不可能に近い。
 男は答えられなかった。だからただ一言手紙に書いた。『せめて人として生きたい』と。
 これが答えになっているとは思えない。しかし、こんな自分では生き方など選べない。ならば、願望を言う以外に何が言えるだろうか?
 何より彼女に自分は人だと知ってほしかった。自分を人だと、血の通った確かに生きている人間だと認めてほしかった。
『あなたは人ですよ。少なくとも人の心を持った存在です』
 だからこそ、彼女のこの返答は涙が出るほど嬉しかった。

 それから更に数週間経った。そして彼女からアルバイトを辞めることを告げられた。いつかその日が来るとわかっていても、やはり心に重くのしかかるものがあった。
 思えば彼女の顔すら見たことがなかった。文通を通して格好や年齢は知っていてもどんな人なのか全くわからない。
 考えれば考えるほど、最後に一目顔を見たいと思わずにはいられなかった。自分の体質を考えれば、一目顔を見るだけなら迷惑はかからないとも思える。
 だが、そうやって顔を見る行為は果たして許されるものなのだろうか? 自分が普通の人間だったらこんな行為を人は許してくれただろうか?
 悩みながらも気づいたときには通りを歩いていた。周りの景色はもうすぐコンビニにつくことをひしひしと知らせる。
 今はもう夜で、明かりは街灯と月明かりだけだ。この時間ならばちょうど彼女が帰る時間にコンビニに着くだろう。
 彼女の顔が見られる。そう思うと嬉しい反面、彼女を裏切っているようなそんな嫌悪感が胸を打つ。
 たどり着いたコンビニはいつも来ているはずなのに、まるで初めて来たようなそんな感覚がした。
 気づかれないとわかっていても、つい隠れて入り口を見られる場所を探してしまう。そしてふと気づいた。自分以外にももう一人隠れて入り口を凝視している男がいたのだ。
 嫌な予感がした。まるで自分がなにかしなければ悪いことが起こる、そう告げられたようだった。
 自分に対する嫌悪感、そして訴えかける不吉な予感。そんな負の感情に苛まれながらも、その時はきた。
 彼女がコンビニから出てきたのだ。初めて見たにもかかわらず、彼女だと気づけたのは彼女が自分の思っていた通りの姿をしていたからだろうか。
 きれいだと思った。長い髪と切れ長の目。その姿から彼女の知性的な面が強く感じられた。
 男はゆっくりと目を閉じた。満足だった。これでもう思い残すこともない。後はもうひとりで生きていこう。そう思った瞬間だった。
 自分より先に隠れていた男が彼女の後を追いかけ始めたのだ。胸の中の嫌な予感が確信に変わった。何をするつもりなのか知ろうと男の後をつける。
 そうして人通りの少ない道についたときだった。彼女をつけていた男がナイフを構えたのだ。
 まずいとすぐに思った。男が何をするつもりなのか嫌でもわかってしまう。
 男が足を早めた。彼女はまだ気づいた様子はない。暗くてわからないがもしかしたらイヤホンをつけているのかもしれない。
 体が勝手に動いた。気づかれないとわかっているから音を気にせず全力で走れる。彼女と男の間に入るのは簡単だった。
 だができたのはそこまでだった。腹に痛みを感じた。まるで焼けるような熱い感覚だった。同時に足に力が入らず崩れ落ちる。彼女は全く気づいていないようだった。自分の体質のせいだろう。彼女は自分が刺された瞬間を認識できていないはずだ。
 それは彼女をつけていた男も同じだった。彼女をつけていたはずなのに気づいたら立ち止まっており、ナイフには何故か血がついている。男は混乱したように踵を返して逃げていった。
 通りに残ったのは自分だけだ。完全に詰みだった。この傷はもう自分ではどうしようもない。
 おそらくもう自分は助からないだろう。頭を上げて彼女のいる方をかすむ視界で見る。
 彼女は今日何があったのか気づくことはない。もしかしたら自分が死んだことにいつか気づいてくれるかもしれない。彼女の洞察力の高さならそれが可能なはずだ。
 目から涙が溢れた。生きたかった。だがそれはもう叶わない。それでも後悔は無かった。彼女を見殺しにしていたら、自分は人でなしだっただろう。そうならずに済んだ。それだけが虚しさに呑まれてゆく心を灯す微かな光だった。
 口の中でしょっぱい味がした。もう体の感覚はない。
「人として頑張れたのかな……」
 その問いには誰も答えてくれなかった。

一人の女性が通りに花を添えた。その通りは、今はもう使ってない、自宅とコンビニを繋ぐ道だった。
 いっときニュースになった誰だかわからない突如発見された謎の死体。そのニュースを聞き、彼女はきっとその死体が文通の相手だったのだろうと察することができた。そして、ストーカーから自分を護ってくれたということにも。
「ありがとうございました」
 名前もわからない相手に語りかける。それは彼女ができる精一杯の、人への感謝の表れだった。
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