涙と花

カイ異

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狂い咲く愛と軽蔑

始まり

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『つまり記憶喪失ってことか』
 電話越しの唯理の声に、雨車はまるで唯理が目の前にいるかのように頷いてしまう。石人の言葉はそれほど雨車を取り乱すものだったのだ。
 石人が言うには、日常生活の記憶の一部、そして事故の時の記憶の一部がないらしい。
 石人は警察に事情聴取を受けていたが、現場の状況からして事件性がほとんどなかったこと、石人がまだ幼く動揺していた事などから、証言があやふやだったことに違和感を持たれなかったようだった。
 石人本人も隠すつもりはなかったが、日常生活を送れるだけの記憶はちゃんとあるため、おかしいことだとは思わなかったらしい。
 それに加え、雨車たちは嫌なことを思い出さないように話題を選んでいたため、偶然ここまで誰も記憶喪失に気づかなかったのだろう。
『俺は記憶喪失の人間に会ったことがないから断言はできない。だが、精神的なストレスで記憶を失うことはあるって聞いたことがある』
 その話は雨車自身も聞いたことがある。その時は身内で実際にそうなる人が出るなど思いもしなかったが。そして精神的なストレスという言葉に心当たりがないはずがなかった。
「やっぱり事故のショックっていうことなんでしょうか?」
『わからない。少なくとも、これは俺たちがどうこうできる問題じゃなく、医者に頼むべきものだ。素人が勝手に動かない方がいい』
 その通りだと思った。唯理は人の心を見ることは出来ると言っても、それは万能の力じゃない。
 ある程度状況から補完しなければならないものだと言われていたのを思い出し、雨車は焦って答えを求めていた自分を恥じた。
「とりあえず両親に連絡したので、今日の夜に病院をどうするか話そうと思います」
 ああと重々しい返答が返ってくる。そしてためらうような沈黙の後、再び唯理の声がスピーカーから洩れた。
『怯えていた。そう石人は言っていたんだな』
「はい。……やはり警察に行くべきでしょうか?」
 再び沈黙が場を支配する。あまりにデリケートな問題に、二人ともはっきりとした答えを出せない状態だった。
『今石人が思い出しているのは、いつどんな状況だかわからないが石人の母が誰かに来ないでと脅えたような声を出していた、それだけであっているか?』
「はい」
 石人に他に思い出せることはないか聞いてみたが、石人はわからないと首を振っていた。雨車としても思い出すことを強要したくなく、話はそこで終わっている。
『話すべきだとは思う。だが、事故で結論が出ているし、肝心の証言があやふやなものだ。多分まともに取り合ってもらえないと思う』
「そんな……」
 唯理の言うこともわかる。当然の話だ。子供のよくわからない証言で動いてくれるほど世の中は簡単じゃない。
 だが、石人が思い出した不穏な言葉。無視するには、あまりに心に何かがつっかかったような気持ち悪さが残る。
『これはあくまで提案だ』
 突如、唯理がかしこまった声で話しかけてきた。
『石人の親が来るまでの残り数日で、少しだけ調べてみないか?』
 唯理からの提案に雨車はぱっと顔を上げた。
「いいんですか?」
 唯理はこういった人の心にまつわることには慎重だった。自分が関わったことで事態が悪化しないか、その責任をいつも考え、関わるべきかそうでないかを明確に分ける。
 だからこそ、一緒に調べてくれるという提案は予想外のものであった。
『ああ。前の時みたいにはっきり核心があるわけじゃない。だが、嫌な予感がするんだ』
 そこで唯理は言葉を切る。唯理の中でまだ迷いがあるようだった。
『だが、調べるのはあくまで石人の経過観察と母親の身辺調査が中心だ。できる限り石人には負担がないようにする。俺の勘で石人を苦しめるわけにはいかないからな』
「ありがとうございます。それだけでも十分です。私もできる限り協力します」
 それから少し話してから雨車は通話を切る。唯理と何かを調べるのはこれが二回目だ。
 前回は、調査の結果友達と衝突し、お互い傷つけあった。正直言って辛い思い出もたくさんある。だが、それ以上に桜家の時みたいに何も気づかないままでいるのは嫌だった。
「こんな私だって、みんなを助けたい!」
 雨車の強い決意が自分の部屋に響く。そのまっすぐな目が決意の固さを物語っていた。

 くぐもった悲鳴と共に石人は目を覚ます。そして石人はあたりを見渡し、今が夜で、うなされて起きてしまったのだと気づいた。
 幸いなことに、今石人が寝ている場所は雨車の父の部屋だ。雨車の父はリビングで布団を敷いて寝ていたため、誰も起こしてはいなかった。
 石人はもう一度眠ろうとしたが、目は完全にえてしまい全く眠気はやってこなかった。しかたなく寝相ねぞうで乱れてしまった毛布を掛けなおすと、石人は暇をつぶすために見た夢を思い出そうとする。
 しかし、まるで記憶が抜け落ちてしまったように何も思い出すことができなかった。ただ一言言えるとしたら、ひどく恐ろしかったということだ。
「記憶喪失のせいなのかな」
 自分でも違和感を覚えていたが、記憶喪失だと自覚したのは今日雨車に話したのが最初だった。
 最初はまさか自分がおかしいとは夢にも思わず混乱したが、受け入れるといろんなことと記憶喪失を絡めてしまう。
 石人は大きくため息をついた。記憶が思い出せないのはとても不安になる。まるで自分に穴が開いているような気分だった。一生このままなのかとも想像してしまう。
 石人は暗くなっていく考えを無理やり振り払った。こんな時は楽しいことを考えるに尽きる。
 石人はそこでお楽しみ会の話を思い出した。記憶喪失の衝撃が大きくて、それより前に話したこの話題は頭の隅に追いやられていた。
 しかし、この提案を改めて思い出してみると自然と頬が緩んでしまう。
「どこに行こうかな」
 母と行ったいろいろな場所が思い出される。どれも大切な思い出だ。幸せな思いに包まれていると次第に眠気も戻って来た。
 石人は母がまたよくなるように祈ると、心地よい眠気に身を任せ、沈むように眠りに落ちた。
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