涙と花

カイ異

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狂い咲く愛と軽蔑

巡る考え

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「そういえばお母さん、最近伯母さんが何か変わったこととか話してなかった?」
 雨車の質問に、雨車の母は目をパソコンに向けたまま、考え込むようにうーんという声を漏らした。
 真剣に画面を見ているようだったので、雨車は何を見ているのか気になり、悪いとは思いつつもそっと画面を覗く。
 母親の見ているページは新しいパートの資料だった。今まで仕事を増やそうとするそぶりを見せなかったので、雨車は怪訝に思ってしまった。
「あの子がまた働けるようになるまで、治療費や学費は私が何とかしなくちゃ」
 聞かれる方が鬱陶しいと思ったのか、母ははっきりと告げた。淡々とした言葉から、雨車は母の覚悟を感じ取った。
 伯母が事故にあったと知り、一番驚き悲しんでいたのは伯母の姉である母だった。
 だが、今は冷静に現実と向き合い、自分にできることを精一杯しようとしている。
 雨車は自分の母を強い人間だと思わずにはいられなかった。
「あの子はこんな風に不幸になっていい子じゃないわ。元夫の人は暴力とかはなかったけど、人間だった。だから、離婚してあんな大人にならないように子供を立派に育てるって言ってたのに……」
 母が伯母の離婚の話をするのはこれが初めてだった。
 当時、自分は小学校高学年ほどであり、離婚の時の話を何も聞かされなかったのは仕方ないことだ。
 だが、今になって離婚した理由を知った衝撃は大きかった。
 雨車にとって、伯母は明るく気さくな人物というイメージだった。そんな伯母が今まで背負ってきたものを思い、雨車は下を向く。
 だが、どれだけ悲しくても自分は回復するように祈るしかできない。その事実がどうしようもないやるせなさを感じさせた。
 それでも、ただ悲しんでいたところで何も変わらない。自分にできること、石人にしてあげられることをしようと、雨車は気を引き締めた。
「伯母さんのことで他に私が知らない事とか、気づいたことない?」
 先ほど気づかされた、自分は伯母についてまだまだ知らないことがあるという事実。もしかしたら、そこに何かヒントがあるかもしれない。
「離婚関連の話はこれ以上変なことはないわ。変わったことといえば……そうね、ここ最近石人を預かる機会が減っていたわね」
 それは雨車にとって初めて聞いた情報だった。
 確かに思い返してみれば、夏休みの間、石人は雨車家に数回しか来なかった。
 もう高学年でもあるしそんなものかとも思っていたが、確かに一年前の夏休みと比べれば目に見えて石人が訪ねてくる日が減っている。
「そのことで、何か伯母さん話していなかった?」
 雨車は何かを掴みかけていると直感し、身を乗り出して母に尋ねる。しかし、そこで母はしびれを切らしたようであった。
「さっきから、うるさい。もう遅いんだからそろそろ寝なさい。というか宿題は終わってるの?」
 母の一括に雨車は肩をすくめる。今の母はただでさえ伯母のことで気が立っている。そのうえ新しくパートをやる必要も出て、心の余裕が全くないはずだ。
 自分がこれ以上聞いたところで母を余計に苛立いらだたせるだけだろう。雨車としても母にこれ以上つらい思いをして欲しくない。
「ごめんなさい、お母さん」
 雨車はそうしょんぼりと告げると、パソコンの明かりを背にリビングから出ていった。

 床に敷いた布団で仰向けになりながら、唯理は手に持ったマスコット人形を顔の前に持ち上げた。
 所々擦り切れ変色しているその人形は、唯理が母親から唯一貰ったものだった。
 唯理には両親との写真はもちろん、両親との関りを示すものがほとんどない。
 祖母によると、父と母は生まれてくる自分を待ち焦がれていたらしい。両親が数か月かけて唯理という名前を決めたことは何度も聞かされた。
 そんな両親も最終的には唯理を捨てる選択肢を取った。
 唯理はゆっくりと起き上がると、いつも使っている鞄のポケットの中に人形を入れる。
 そのポケットは今まで人形しか入れていない。他のものを入れると、唯一の母との思い出が穢されるような気がしていた。
「お前にはこうなるってわかってたんだな、浅見」
 自分しかいない空間にいると、否応なしに記憶が掘り起こされる。唯理は浅見に言われた割り切れという言葉に唇を噛みしめた。
 自分はだと思っていた。両親のことはすでに受け入れていたと思っていたし、祖母が死んで以降一度だって泣いたことがない。もう心が揺れ動くことなんかないと思っていた。
『君は冷静を装うのが上手いだけだ』
 自分は冷静だと自身に言い聞かせるたび、脳裏に浅見の言葉が忌々しいほどちらついた。
 メッキは一度がれれば元には戻らない。浅見の言葉が、薄っぺらな表層に覆われた自分の中身を、唯理に自覚させた。
 唯理は悪態をつくと寝返りを打つ。秋の夜はまだまだ寝苦しく、鬱陶しい蒸し暑さが部屋の中に漂っている。
 着ている服を脱ぎ捨てたい衝動に襲われるが、唯理はひとまず布団近くの窓を開けて様子を見ることにした。
 窓を開けてしばらく経っても全く違いはわからない。相変わらず部屋の中は蒸し暑くて、どうやってもすっきりしない。それが自分の頭の中を想起させ、唯理は嫌悪感に辟易へきえきとした顔をした。
「こういうところが冷静じゃないって言われるんだろうな」
 雨車は自分のことをよく冷静沈着な人物だと言う。それ自体は別に何とも思わない。周りから感情の起伏が少ないとはよく言われており、自分でも自覚していた。
 だが、浅見ははっきりと自分の本心を言い当てた。自分でも気づいていなかった自分自身を、唯理は浅見によって気づかされた。
 そこが唯理が浅見を信頼する点の一つだった。自分と違って特別な力がなくても人の心を推測し言い当てる。
 それは浅見が出会う人一人一人に真剣に向き合っている何よりの証拠だ。
 だが、今の自分はどうだろうか? 
 果たして真剣に石人と向き合えているだろうか? 
 今回の調査は自分から雨車に提案したものだ。だが、普段ならば絶対に自分からその選択肢を提示しなかっただろう。
 それが一つの考えを唯理に連想させてしまう。すなわち、自分と重ねた石人を救うことで、自己満足を得ようとしているだけなのではないのかと。
 その時、窓にかけられていたカーテンが軽く揺れて、新しい空気が部屋に入ってきたことを告げた。
 そよ風程度の静かな空気の動きだった。実際生ぬるいと感じただけで、涼しさや心地よさは全く感じられない。
 だが、小さな変化が煮詰まった思考を解きほぐすこともある。
「向き合い続けるしかない。せめて石人が笑顔でいられるように」
 口に出した言葉は、この件に関わるうえで最初から思っていたことと何一つ変わっていない。
 だが、口に出すとそれだけでその言葉に対する見方が変わった気がした。
 唯理は大きく息を吐く。その目は覚悟を決めたようにどこまでも静かだった。
「俺がんだ」
 唯理の言葉は闇夜に溶けて消えていった。
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