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狂い咲く愛と軽蔑
幻影を辿って
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唯理は手に握ったチケットを見つめながら電車に揺られていた。
電車に乗る時間が通勤ラッシュと重なり、最初の内は身動きも取れなかった。しかし、都心を過ぎると人の数も減り、今は座れるくらいになっている。
唯理はカバンからメモ帳を出すと、その内容に目を通した。
メモに書かれていることは、主に雨車から与えられた情報、そして石人が話していた思い出だ。
昨日雨車から聞いた離婚にまつわる話はもちろん、数日前の石人との会話も覚えている限りメモに記していた。
メモを見ていると自然と頭が回りだす。電車内はアナウンスや走行音でうるさいはずなのに、気づけば音は全く聞こえなくなっていた。昨日悩んだおかげか久々に今日は頭がすっきりしている。
唯理はメモの情報を一通り読み終え考えをまとめると、一息つきながら背中を背もたれに預ける。電車の振動が体に伝わるが、それが心地よく思えた。
電車のアナウンスが唯理の下りる予定である駅の名を連呼した。あと数十秒程でたどり着くだろう。
唯理はメモ帳をカバンにしまうと、電車が停止したタイミングで立ち上がる。電車のスクリーンには動物園前という表記が映っていた。
駅を出ると、唯理は緑豊かな道を人の移動に合わせて進んで行った。
唯理と同じ方向に進む人の目的はほぼ間違いなく動物園だ。ついていけば動物園が見えてくると唯理は考えていた。
木々の間から漏れたまぶしい光が目を指す。唯理は手をサンバイザー代わりにしながら快晴の空に目を向けた。
運のいいことに、今日は晴れているがそれほど気温が高くない。今回予定している動き回る調査に最適といえる日だった。
歩いて十分経たないかぐらいで目の前に入口らしき建物が見えてきた。
平日の午前ということもあり、人混みを整理するための鉄製のレーンがまったく意味を成さないほど、列は出来ていなかった。
唯理はメモを開くとその内容と入口に掲げられている広告とを見比べる。その時、目の前で幻影が見えた気がした。
今より幼い石人がその母と手を繋ぎ、目を丸くして広告を眺めている。そんな幻影だった。
入り口を抜けると開放感のある広場があり、ここから色々な動物のところへ行けるようだった。
『動物園についたら嬉しくなっちゃって、お母さんの手を引いてまっすぐ走っていったんだ』
唯理は目の前に広がる光景一つ一つを観察しながらゆっくりと進んだ。
目の前でまだ幼稚園生くらいであろう子供が、母親と話しながら目の前を通り過ぎる。二人の目は日常では見られないものに対する興奮で輝いていた。
その奥で、同じように幸せそうな石人の幻影が笑顔で母の手を引くのが見えた。唯理はまるで惹かれるようにその後を追いかけた。
『まっすぐ進んだら大きなゾウがいて、お母さんが僕に大きいねって話しかけてきたんだ。僕がゾウに夢中で全然気づかなかったから、お母さん怒っちゃったんだけどね』
唯理は事前に駅で買っておいた水で喉を潤すと、目の前にいるゾウを眺めた。柵の向こうにいるゾウは鼻を池に入れ水を貯めると体に吹きかける。
テレビでは何度も見たことある光景だったが実際に見ると迫力が違った。
『ゾウを見た後は、そのすぐ近くに色んなサルがいたから、夢中で回ったよ』
唯理は園内の地図を開くと、石人の情報を元にどこに行ったのか当たりをつけて道を進む。
歩いて十数分くらいでいろんなサルが展示されている折にたどり着いた。折の前には、動物の名前とどんな性格でどんな習性の生物なのかが書かれた看板が置かれていた。
石人がその看板を指差し、母がやれやれといった感じにスマホで調べる。そんな光景が思い浮かんだ。
「この光景が真実だったら、あいつは救われたのか?」
答えは浮かんでこなかった。目の前に広がる幻影はただただ幸せそうに母と話していた。
それからも唯理は石人の言葉通りに動物園内を進んでいった。そうしているうちに日も高くなり、空腹感も大きくなっていった。
『ふれあい広場の横にカフェがあって、そこでサンドイッチとか食べたんだ』
やっぱりかと大きなため息が口から洩れた。唯理は地図を閉じるとカフェの方へ進んで行く。ふれあい広場とは真逆の方向だった。
カフェでの食事はとても美味しかった。この動物園で有名な、パンダをモチーフにしたパンなども売られており、子供にとって楽しい場所であることが伺える。
目の前の席では親子連れの客が笑顔で食事を取っていた。その光景に唯理は石人を重ねる。石人が母と笑いながら食事を取る。そんな幻影が目に写った。
心のどこかでわかっていた。自分の辿っていた幻影が自分の願望に過ぎないと。
だが、願わずにはいられなかった。石人は彼が話した通りの輝かしい思い出をたくさん作った、それが紛れもない事実であると。
唯理は携帯を開き、いま自分がいる動物園の公式ホームページを出した。
石人は低学年のときに動物園に来たと言っていた。ならば、少なくとも五年以内にこの動物園を訪れているはずだ。
唯理はここ数年の展示場所の変化や、新しい建物の建設に関する情報がないか目を通す。
心臓が大きく跳ねるのを感じた。ここに書かれている内容次第ではもう自分の考えを否定することはできないだろう。
唯理は読み飛ばしがないようにゆっくりと画面をスクロールしていく。文字が頭の中に入っては消えていった。
それからどれくらい時間が経った頃だろうか。唯理は画面を動かす手を止めた。
すべての記録のチェックは終わった。工事や大掛かりな移転を知らせる情報はそこにはなかった。
気づいたら石人の幻影は跡形もなく消え去り、元の親子連れに戻っていた。まるで幸福な夢から覚めてしまった後のような絶望感がこみあげる。
「俺はただ、お前に幸せでいて欲しかった」
唯理は目の前の料理を口に入れる。味はしなかった。ただ、周りの客の楽しそうな声が耳にこびりついて離れなかった。
唯理は動物園を出ると、タイミングよく到着した電車に乗り込んだ。まだぎりぎりお昼の時間だということもあり、朝と比べて驚くほどに電車は空いていた。
唯理はすぐ近くの席に腰を下ろす。本来ならばもう少し調査をする予定だった。
だが、誤魔化しが効かないほどの石人の嘘に唯理は気づいてしまった。これ以上調べたところで結果が変わることはないだろう。
携帯を取ると、唯理は雨車にメッセージを送る。その内容は午後石人の家に行きたいというものだった。
恐らく、今雨車は授業中であるため、この連絡を見るのは放課後だろう。だが、ここから電車で地元に戻るまで数時間かかる。
ちょうど雨車がメッセージを確認したタイミングで最寄りの駅に着くだろう。
唯理は携帯に記された日付を確認する。石人の父親が来るまで今日を除いてあと三日だ。
できることなら今日中にすべての情報を集め切り、石人と話したかった。父親が来てしまえば、もう石人とは話をできない可能性がある。
口から大きなため息が漏れた。唯理はシートに深く腰を掛ける。自分では自覚していなかったが、精神的な疲労がピークに達しているらしく瞼が重い。
唯理はその甘美な誘惑に身を任せるように目を閉じた。うるさいアナウンスもなれればまるで子守歌のようだ。
今だけは何もかも考えず眠ってしまいたい。頭はこれ以上考えるのを拒んでいるようだった。次の駅名のアナウンスを最後に、唯理は眠りに落ちていった。
電車で眠りに落ちてから数時間後、唯理は最寄りの駅のホームで雨車の返答を確認していた。
『伯母さんのお見舞いに行く予定があります。でも、そのついでに家に寄るなら平気です』
唯理は雨車にそれでいいと返信すると、記憶を頼りに石人の家に向かった。
石人の家に着くと、雨車は既に門の前に立っており、カバンの中身を確認しているようだった。恐らくお見舞いで忘れ物がないのか確認しているのだろう。
唯理が顔を下に向けている雨車に声をかけると、雨車ははっと顔を上げた。
「待たせて悪かった。家の中、少し調べてもいいか?」
前回の調査では、事故の不自然さに気づいた段階でいったん調べるのを止めていた。そのため細かい点までは確認できていない。
しかし、はっきり言って午前に調べたことでこの事件に対する仮説はもうできている。だから、これは唯理が納得するための補完作業と言えた。
「大丈夫ですよ、ただし細かく調べる場合は私が一応見守る感じになります」
当然だろう。石人やその家族にとっては、赤の他人が家に入って中を調べるのだ。関りの深い雨車が見張るのは、合鍵を預かる人間ならば当たり前の権利だと思う。
唯理が頷いたのを確認して、雨車は鍵を回してドアを開く。唯理は雨車に軽く頭を下げると家の中に入った。
家の中の空気は相変わらず冷たかった。唯理は家の電気を点けるとゆっくりと廊下を歩いて行く。
視線を下げると床の黄色のカーネーションの残滓が目に入った。血痕を拭き落とすため、雨車の両親が一度拭き掃除をしている。その影響で残滓はかすかにしか見えなかった。
唯理は廊下を抜け、生活スペースであるリビングに入った。
テーブルの上に資料が山積みになっていたり、ソファーに服が置かれていたりと、お世辞にも奇麗とは言えない部屋だった。
だが、生活するうえで困らない程には部屋は片付いていた。
唯理はソファーに目を落とす。そこに咲いていたのはルリタマアザミ、花言葉は『鋭敏』『傷つく心』だった。
恐らく石人の母のものだろう。ここに住んでいるのは石人とその母だけだ。そしてはっきりと痕跡として残っている花は黄色のカーネーションとルリタマアザミのみ。ならば消去法で石人の母の物と取るのが妥当だろう。
唯理は機械的にその花を観察した。その花は今にも折れそうなほど枯れる寸前の状態だった。
唯理は自分の仮説が現実味を帯びてきたのを感じ、口に手を当てて考えをまとめていく。
恐らく、母親はかなり追い詰められていたのだろう。そうでもなければ、ソファーで横になりながらこれほど涙を流すことはないはずだ。
さらに言えば、寝室があるのになぜソファーで横になっていたのか? 単純に寝室に行けないほど毎日疲労困憊だったのか、それとも……
「何か見えてるんですよね?」
雨車の言葉に唯理は頷いた。
「ああ、最悪に近い答えが見えてる」
唯理は淡々と言い放った。その声色と内容にかなりショックを受けたらしく、雨車は数歩後ろに下がる。
「この家を出る時にすべて説明する。それまで待ってくれ」
こんな言葉で雨車が落ち着くとも思えなかった。それでも気休め程度にはなるはずだと唯理は雨車に声をかけた。
それからしばらく唯理はリビングを観察し続けた。そして一通り見終えると次に石人の部屋に向かう。
石人の部屋には私物があまりなかった。学校に行くのに困らない程度の服が段ボールにまとめられており、本棚に置かれているのはほとんどが教科書だった。
「石人君の私物はすべてここにあるはずです。でもあまり触らないようにしてくださいね」
「必要最低限のものにしか触らない」
唯理はそう告げるとまっすぐ本棚へと足を進める。
この部屋に入った段階で、本棚に置かれていた一つの箱に唯理は的を絞っていた。
その箱を持ち上げてみると中はほとんど何も入っていないように軽かった。しかし、この中は大切なものだというように、錠前によってカギがかけられている。
唯理がこの箱に興味を持ったのは錠前が原因ではない。唯理は箱に咲くカーネーションの残滓を見ていた。その花は今の石人のカーネーションより遥かに深く傷ついていた。
唯理は部屋をぐるりと見渡し、箱に咲いているカーネーションと同じくらい傷ついている残滓を見つける。
それはゴミ箱の下から生えていた。唯理は無言のままゴミ箱を横にずらす。思っていた通り、そこには錠前の鍵があった。
「それが何か私も聞いたことあるんですけど、石人君は覚えてないって言ってたんです」
雨車の言葉に唯理は目を細めると、錠前に鍵を差し込んだ。鍵はぴったりとはまり音を立てて錠前が開く。
それを見て唯理と雨車は顔を見合わせた。
「開けてみてください。石人君には私から謝ります」
唯理は頷くと箱を開いた。そしてその中身を見て、雨車は目を丸くする。
「これって……」
それはごく最近見たことのある紙だった。そして石人が持っているはずのないものであった。
箱の中、そこにあったのはお楽しみ会で行った動物園のチケットだった。
唯理はそのチケットに咲いたボロボロのカーネーションを視界に収めると、鍵と箱をもとに戻し、部屋を後にした。
電車に乗る時間が通勤ラッシュと重なり、最初の内は身動きも取れなかった。しかし、都心を過ぎると人の数も減り、今は座れるくらいになっている。
唯理はカバンからメモ帳を出すと、その内容に目を通した。
メモに書かれていることは、主に雨車から与えられた情報、そして石人が話していた思い出だ。
昨日雨車から聞いた離婚にまつわる話はもちろん、数日前の石人との会話も覚えている限りメモに記していた。
メモを見ていると自然と頭が回りだす。電車内はアナウンスや走行音でうるさいはずなのに、気づけば音は全く聞こえなくなっていた。昨日悩んだおかげか久々に今日は頭がすっきりしている。
唯理はメモの情報を一通り読み終え考えをまとめると、一息つきながら背中を背もたれに預ける。電車の振動が体に伝わるが、それが心地よく思えた。
電車のアナウンスが唯理の下りる予定である駅の名を連呼した。あと数十秒程でたどり着くだろう。
唯理はメモ帳をカバンにしまうと、電車が停止したタイミングで立ち上がる。電車のスクリーンには動物園前という表記が映っていた。
駅を出ると、唯理は緑豊かな道を人の移動に合わせて進んで行った。
唯理と同じ方向に進む人の目的はほぼ間違いなく動物園だ。ついていけば動物園が見えてくると唯理は考えていた。
木々の間から漏れたまぶしい光が目を指す。唯理は手をサンバイザー代わりにしながら快晴の空に目を向けた。
運のいいことに、今日は晴れているがそれほど気温が高くない。今回予定している動き回る調査に最適といえる日だった。
歩いて十分経たないかぐらいで目の前に入口らしき建物が見えてきた。
平日の午前ということもあり、人混みを整理するための鉄製のレーンがまったく意味を成さないほど、列は出来ていなかった。
唯理はメモを開くとその内容と入口に掲げられている広告とを見比べる。その時、目の前で幻影が見えた気がした。
今より幼い石人がその母と手を繋ぎ、目を丸くして広告を眺めている。そんな幻影だった。
入り口を抜けると開放感のある広場があり、ここから色々な動物のところへ行けるようだった。
『動物園についたら嬉しくなっちゃって、お母さんの手を引いてまっすぐ走っていったんだ』
唯理は目の前に広がる光景一つ一つを観察しながらゆっくりと進んだ。
目の前でまだ幼稚園生くらいであろう子供が、母親と話しながら目の前を通り過ぎる。二人の目は日常では見られないものに対する興奮で輝いていた。
その奥で、同じように幸せそうな石人の幻影が笑顔で母の手を引くのが見えた。唯理はまるで惹かれるようにその後を追いかけた。
『まっすぐ進んだら大きなゾウがいて、お母さんが僕に大きいねって話しかけてきたんだ。僕がゾウに夢中で全然気づかなかったから、お母さん怒っちゃったんだけどね』
唯理は事前に駅で買っておいた水で喉を潤すと、目の前にいるゾウを眺めた。柵の向こうにいるゾウは鼻を池に入れ水を貯めると体に吹きかける。
テレビでは何度も見たことある光景だったが実際に見ると迫力が違った。
『ゾウを見た後は、そのすぐ近くに色んなサルがいたから、夢中で回ったよ』
唯理は園内の地図を開くと、石人の情報を元にどこに行ったのか当たりをつけて道を進む。
歩いて十数分くらいでいろんなサルが展示されている折にたどり着いた。折の前には、動物の名前とどんな性格でどんな習性の生物なのかが書かれた看板が置かれていた。
石人がその看板を指差し、母がやれやれといった感じにスマホで調べる。そんな光景が思い浮かんだ。
「この光景が真実だったら、あいつは救われたのか?」
答えは浮かんでこなかった。目の前に広がる幻影はただただ幸せそうに母と話していた。
それからも唯理は石人の言葉通りに動物園内を進んでいった。そうしているうちに日も高くなり、空腹感も大きくなっていった。
『ふれあい広場の横にカフェがあって、そこでサンドイッチとか食べたんだ』
やっぱりかと大きなため息が口から洩れた。唯理は地図を閉じるとカフェの方へ進んで行く。ふれあい広場とは真逆の方向だった。
カフェでの食事はとても美味しかった。この動物園で有名な、パンダをモチーフにしたパンなども売られており、子供にとって楽しい場所であることが伺える。
目の前の席では親子連れの客が笑顔で食事を取っていた。その光景に唯理は石人を重ねる。石人が母と笑いながら食事を取る。そんな幻影が目に写った。
心のどこかでわかっていた。自分の辿っていた幻影が自分の願望に過ぎないと。
だが、願わずにはいられなかった。石人は彼が話した通りの輝かしい思い出をたくさん作った、それが紛れもない事実であると。
唯理は携帯を開き、いま自分がいる動物園の公式ホームページを出した。
石人は低学年のときに動物園に来たと言っていた。ならば、少なくとも五年以内にこの動物園を訪れているはずだ。
唯理はここ数年の展示場所の変化や、新しい建物の建設に関する情報がないか目を通す。
心臓が大きく跳ねるのを感じた。ここに書かれている内容次第ではもう自分の考えを否定することはできないだろう。
唯理は読み飛ばしがないようにゆっくりと画面をスクロールしていく。文字が頭の中に入っては消えていった。
それからどれくらい時間が経った頃だろうか。唯理は画面を動かす手を止めた。
すべての記録のチェックは終わった。工事や大掛かりな移転を知らせる情報はそこにはなかった。
気づいたら石人の幻影は跡形もなく消え去り、元の親子連れに戻っていた。まるで幸福な夢から覚めてしまった後のような絶望感がこみあげる。
「俺はただ、お前に幸せでいて欲しかった」
唯理は目の前の料理を口に入れる。味はしなかった。ただ、周りの客の楽しそうな声が耳にこびりついて離れなかった。
唯理は動物園を出ると、タイミングよく到着した電車に乗り込んだ。まだぎりぎりお昼の時間だということもあり、朝と比べて驚くほどに電車は空いていた。
唯理はすぐ近くの席に腰を下ろす。本来ならばもう少し調査をする予定だった。
だが、誤魔化しが効かないほどの石人の嘘に唯理は気づいてしまった。これ以上調べたところで結果が変わることはないだろう。
携帯を取ると、唯理は雨車にメッセージを送る。その内容は午後石人の家に行きたいというものだった。
恐らく、今雨車は授業中であるため、この連絡を見るのは放課後だろう。だが、ここから電車で地元に戻るまで数時間かかる。
ちょうど雨車がメッセージを確認したタイミングで最寄りの駅に着くだろう。
唯理は携帯に記された日付を確認する。石人の父親が来るまで今日を除いてあと三日だ。
できることなら今日中にすべての情報を集め切り、石人と話したかった。父親が来てしまえば、もう石人とは話をできない可能性がある。
口から大きなため息が漏れた。唯理はシートに深く腰を掛ける。自分では自覚していなかったが、精神的な疲労がピークに達しているらしく瞼が重い。
唯理はその甘美な誘惑に身を任せるように目を閉じた。うるさいアナウンスもなれればまるで子守歌のようだ。
今だけは何もかも考えず眠ってしまいたい。頭はこれ以上考えるのを拒んでいるようだった。次の駅名のアナウンスを最後に、唯理は眠りに落ちていった。
電車で眠りに落ちてから数時間後、唯理は最寄りの駅のホームで雨車の返答を確認していた。
『伯母さんのお見舞いに行く予定があります。でも、そのついでに家に寄るなら平気です』
唯理は雨車にそれでいいと返信すると、記憶を頼りに石人の家に向かった。
石人の家に着くと、雨車は既に門の前に立っており、カバンの中身を確認しているようだった。恐らくお見舞いで忘れ物がないのか確認しているのだろう。
唯理が顔を下に向けている雨車に声をかけると、雨車ははっと顔を上げた。
「待たせて悪かった。家の中、少し調べてもいいか?」
前回の調査では、事故の不自然さに気づいた段階でいったん調べるのを止めていた。そのため細かい点までは確認できていない。
しかし、はっきり言って午前に調べたことでこの事件に対する仮説はもうできている。だから、これは唯理が納得するための補完作業と言えた。
「大丈夫ですよ、ただし細かく調べる場合は私が一応見守る感じになります」
当然だろう。石人やその家族にとっては、赤の他人が家に入って中を調べるのだ。関りの深い雨車が見張るのは、合鍵を預かる人間ならば当たり前の権利だと思う。
唯理が頷いたのを確認して、雨車は鍵を回してドアを開く。唯理は雨車に軽く頭を下げると家の中に入った。
家の中の空気は相変わらず冷たかった。唯理は家の電気を点けるとゆっくりと廊下を歩いて行く。
視線を下げると床の黄色のカーネーションの残滓が目に入った。血痕を拭き落とすため、雨車の両親が一度拭き掃除をしている。その影響で残滓はかすかにしか見えなかった。
唯理は廊下を抜け、生活スペースであるリビングに入った。
テーブルの上に資料が山積みになっていたり、ソファーに服が置かれていたりと、お世辞にも奇麗とは言えない部屋だった。
だが、生活するうえで困らない程には部屋は片付いていた。
唯理はソファーに目を落とす。そこに咲いていたのはルリタマアザミ、花言葉は『鋭敏』『傷つく心』だった。
恐らく石人の母のものだろう。ここに住んでいるのは石人とその母だけだ。そしてはっきりと痕跡として残っている花は黄色のカーネーションとルリタマアザミのみ。ならば消去法で石人の母の物と取るのが妥当だろう。
唯理は機械的にその花を観察した。その花は今にも折れそうなほど枯れる寸前の状態だった。
唯理は自分の仮説が現実味を帯びてきたのを感じ、口に手を当てて考えをまとめていく。
恐らく、母親はかなり追い詰められていたのだろう。そうでもなければ、ソファーで横になりながらこれほど涙を流すことはないはずだ。
さらに言えば、寝室があるのになぜソファーで横になっていたのか? 単純に寝室に行けないほど毎日疲労困憊だったのか、それとも……
「何か見えてるんですよね?」
雨車の言葉に唯理は頷いた。
「ああ、最悪に近い答えが見えてる」
唯理は淡々と言い放った。その声色と内容にかなりショックを受けたらしく、雨車は数歩後ろに下がる。
「この家を出る時にすべて説明する。それまで待ってくれ」
こんな言葉で雨車が落ち着くとも思えなかった。それでも気休め程度にはなるはずだと唯理は雨車に声をかけた。
それからしばらく唯理はリビングを観察し続けた。そして一通り見終えると次に石人の部屋に向かう。
石人の部屋には私物があまりなかった。学校に行くのに困らない程度の服が段ボールにまとめられており、本棚に置かれているのはほとんどが教科書だった。
「石人君の私物はすべてここにあるはずです。でもあまり触らないようにしてくださいね」
「必要最低限のものにしか触らない」
唯理はそう告げるとまっすぐ本棚へと足を進める。
この部屋に入った段階で、本棚に置かれていた一つの箱に唯理は的を絞っていた。
その箱を持ち上げてみると中はほとんど何も入っていないように軽かった。しかし、この中は大切なものだというように、錠前によってカギがかけられている。
唯理がこの箱に興味を持ったのは錠前が原因ではない。唯理は箱に咲くカーネーションの残滓を見ていた。その花は今の石人のカーネーションより遥かに深く傷ついていた。
唯理は部屋をぐるりと見渡し、箱に咲いているカーネーションと同じくらい傷ついている残滓を見つける。
それはゴミ箱の下から生えていた。唯理は無言のままゴミ箱を横にずらす。思っていた通り、そこには錠前の鍵があった。
「それが何か私も聞いたことあるんですけど、石人君は覚えてないって言ってたんです」
雨車の言葉に唯理は目を細めると、錠前に鍵を差し込んだ。鍵はぴったりとはまり音を立てて錠前が開く。
それを見て唯理と雨車は顔を見合わせた。
「開けてみてください。石人君には私から謝ります」
唯理は頷くと箱を開いた。そしてその中身を見て、雨車は目を丸くする。
「これって……」
それはごく最近見たことのある紙だった。そして石人が持っているはずのないものであった。
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