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その男、ボチェク

2 視点

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 それは数日後の事。
 休憩時間になって、ボチェクは馬を見る名目でまた馬場に足を運んだ。
「そろそろアンタが来る時間だと思ってたよ」
 インストラクターがボチェクに近付きながら云った。「───ハリー様を見に来たんだろ」
「何を云ってる。俺が見るのは馬だ」
 ボチェクさんは素直じゃない。
───くそっ、他人からはそう見えてるのか。
 ボチェク自身が気付いてないとすると、これはいよいよ重症かも知れない。
「ハリー様ならそろそろ厩舎から───」
 インストラクターが振り向くのとほぼ同時に、その厩舎からいななきがした。そして悲鳴───。
「ハリー!」
 ボチェクは走り出した。もどかしいが、柵の外を回って厩舎に向かう。インストラクターも柵の内側を突っ切ろうとするが、ボチェク程に俊足ではない為、厩舎の入り口ではボチェクの一歩先をリードしていた程度。厩舎の中でボチェクに先を譲った。
 二人は迷いなくクサントスの馬房に向かう。
 急に暗い屋内に飛び込んで目が慣れないながら、馬房の奥にライディングキュロットの白さを認める。壁に貼り付いて身をすくめるハリーだった。同じ馬房の中ではクサントスが気を荒げて足踏みし、逃げ場を探して狭い房内で巨体をさまよわせていた。
 ボチェクは馬を刺激しないように黙って柵に上り、頭を振る度にビュンと空気を切りそうになる手綱をなんとか捕まえた。掴んだ手綱に体ごと持っていかれそうになりながらやっとのことでインストラクターにも掴ませ、男二人掛かりで馬の頭をハリーと反対の壁側に寄せる。その間二人共、ハリーが蹴られやしないかと気が気じゃなかった。
 ボチェクはまだ落ち着き切らない馬に注意しながら静かに柵の内側に入った。壁伝いに奥へ進んで小さく声をかける。
「もう大丈夫だ、ハリー」
「...っ!」
 ボチェクの胸に飛び込んできた少年は小鳥のように震えていた。ボチェクはその薄い肩を何度も擦ってやった。
───何故こんな事に...。


 その夜、フォルカーは執事から報告を受けた。
「ハリーに怪我は?」
「ご無事です」
「馬は?」
「インストラクターによりますと───」
 耳打ちの仕草をする執事。「背後からのムチの痕が見受けられた、と」
 フォルカーの耳元で声を潜めた。
「ハリーが自分でやったのではないのか?」
「ハリー様はまだそこまで技術が達していらっしゃいません。馬場には、ムチは持って行かれてないと、インストラクターが申しております」
 そもそも、痕が残る程の古いムチをハリーが持っている筈がない。ハリーの乗馬用品を揃えてやったのは、フォルカー自身だ。ハリーが買い替える事は、次期当主に対する無礼になる。
「4番目の動きはどうだ?」
 少しの思案の後、フォルカーは執事に尋ねた。
「今回は、それらしい動きはなかったようです」
「そうか」
 執事を下がらせて1時間後、フォルカーは父、ヒエロニムス=フリートウッド公爵の部屋にいた。ハリーの様子を報告する為だ。
 聞き終わると、公爵は難しい顔で黙り込んだ。
 本来なら、家庭を持って独立したフォルカーには別の住まいがあり、この時期は毎年家族で別荘にいる筈だった。
 ところが休暇に入って間もなく、公爵によって呼び出された。末っ子のハリーが休暇で帰省して数日後の事だった。
 その時もフォルカーは公爵のこの部屋にいた。
 その時の話の内容は、ハリーの部屋に忍び込んだ者がいた、というものだった。
 朝方、メイドのフィーネがドアをノックするとハリーの声がして、ドアが開くとヴィンツェンツが逃げるように出て行った。部屋の中のハリーは服を乱してソファにいたという。ヴィンツェンツはフリートウッド家の4番目の男子。ハリーの6歳年上の兄だ。
 この1時間で、フォルカーに命じられた執事が調べたところ、馬房の掃除や雑用を任されていた使用人が白状したという。
「また、ヴィッツか...」
 4番目の命令に従い、「ボチェクの指示だ」と云ってハリーをクサントスの馬房に誘い込み、房内で馬の向きを変えさせたと云う。手綱を持ったハリーは馬房の奥になり、その隙に使用人が馬の尻にムチを入れると馬が暴れ出した。使用人はすぐにそこから逃げ出したそうだ。
 四男の、ハリーに対する嫉妬か憎しみか、あるいは歪んだ愛情か。とにかくヴィンツェンツのしでかしたことは、ハリーの命に関わる。
「フォルカー」
 父の声に、姿勢を正す。「───いずれ公爵家を継ぐお前には、そろそろ明かしておかなければならない事がある」
 フリートウッド公爵家の次期当主は、そこで初めてハリーに関する秘密を知って驚愕した。
「ヴィンツェンツは限度が判らない。このまま放置すれば、取り返しのつかない事態を引き起こす可能性もある。それだけは避けなければならない」
 公爵はハリーを別荘に移すよう、長男に命じた。
「1つ、提案があるのですが」
「何だ」
「ハリーを、あの男に預けてはいかがでしょうか」
 64歳の当主は、長男の発言にピクリと眉を動かす。
「フォルカー。あの男は確かに仕事の出来る、信頼の置ける者だ。しかし───」
「こう考えてみてはいかがでしょうか」
 フォルカーは身振り手振りを交えて、「ハリーがもし、大人になって女性に手を付けるようになった時、王家の血統を穢すことにもなりかねません。そうなるくらいなら一層の事───」
 公爵はフォルカーの言葉を制した。額に手を当てて、また動かなくなる。
 ハリーを、絶対に国王にはしない。───それはヒエロニムスがハリーを預かる時の約束だった。そしてハリーが誘拐された4歳の時、居場所を教えてもらう代わりの条件でもあった。
 しかしもし皇太子のカミルに何かあったら、王位継承順位第二位のハリーがカミルに取って代わらなければならない。
 実際には、公式の王位継承順位第二位以下は不在で、ヴィンデルバンド公爵が摂政または関白を務める事になっている。貴族の間では、人工授精をしてでも王家の血統を維持しようという意見が大半を締めているらしい。
 そこまでするくらいなら、ハリーを国王にしないまでも、血統を絶やさない手段としての存在───つまり、生きた精子バンクに───。
───そんな残酷な事ができるか!?
 ハリーとは確かに血の繋がりはない。母親はどこの誰とも知らされることなく、父王は2年前に崩御した。
 しかし、フリートウッド公爵はハリーを我が子として迎えた時から、他の息子達と変わらない愛情を注いだつもりだ。『庶子』───私生子ということで、特別な目で見られているかも知れないが、公爵自身は血統を意識したことは一度もないと自負していた。
 そして次期当主の長男も、理解してくれるものと思っていた───。
 フォルカーの提案は、事実上の排除だ。公爵家からも、王家からも継承の対象とならないように、ハリーの存在を貶める提案だった。
 フォルカーの提案通りにした場合、宗教上の理由で、ハリーは王位継承者としては恐らく認められないだろう。
───まさかこの子が、そんな事を云い出すとは...。
 冷静に、考えてみる。
 フォルカーには、次期当主として相応しくなるよう、教育や愛情を注いできたつもりだ。だが彼から見たらハリーは───。
 他の兄弟にはない容姿と、時々しか見せない愛嬌と、どこかで感じる疎外感からくる寂しそうな眼差しが、母性的な心理を刺激するのかも知れない。それが末弟であるならまだしも、長男の自分よりも高貴な血をひく子であったとしたら、もしかしたら、己の地位をいずれ脅かす存在になるかも知れない。いつか彼の前に跪く事を余儀なくされる存在になるかも知れない。
 もしそう思うのが、あまり賢くはない四男ではなくこの頭の良い長男であったなら───。
───ハリーは本当に人知れず亡きものに...。
「フォルカー」
 公爵は長男に向き直った。「───この件は、次期公爵となるお前に任せる」
 そう云って、フォルカーを下がらせた。
 せめてハリーが生き長らえる道を考えよう。『もしも』や『たら』『れば』は考えてもキリがない。父親としての自分が健在なうちは、あの子を守ってやれるのは自分だけだ。それが公爵としての使命なのだから。精一杯の愛情を注いでやるのが、前国王の願いなのだから───。



 翌日、ボチェクはフォルカーに呼び出された。
「昨日はご苦労だった。ハリーを助けてくれたそうだな。礼を云うよ、カレル」
「どうも」
「公爵も忙しくて直接会えないが、君には感謝している。頼りにしている、と仰っていたよ」
「恐れ入ります」
 公爵家からの言葉よりも、ボチェクはハリーの様子の方が気がかりだった。
「ハリーの方も心配ない。怪我もなかったし睡眠も朝食もきちんととれていると、さっき帰った主治医が云っていた」
 そっと胸をなで下ろすボチェク。
「そこで、と云うか、公爵も頼りにしていると云うことで、君に頼みたい事があるんだが───」
 執務デスクに両肘をつき、組んだ手の上に顎を乗せる次期当主。
「なんでしょうか、フォルカー様」
「ハリーをしばらく君に預けたい」
「何ですって!?」
───冗談じゃない!
 狼の巣穴に赤ずきんを放り込むようなものだ。
 ボチェクにはこんな噂がある。
『奉仕で成り上がった男』
 その噂をボチェク自身は何とも思っていない。事実だからだ。
 ボチェクの家はごく一般的な家庭で、軍部に特別なコネがあるわけではない。
 幼い頃からサッカーが好きで、プロリーグに在席していたこともある。が、それも鳴かず飛ばずで早々に引退して大学を卒業し、公務員になり、軍部に配属された。健康で丈夫なだけで、ズバ抜けた身体能力、というわけでもない。
 政治情勢の安定した近年ではこれといった成果も勲章もなく、軍の存在意義さえ薄れつつある現状で目立った能力も活躍もない。
 現場での叩き上げでもなく、エリートと云うほどの大学を卒業したわけでもない。
 人員削減となればボチェクはリストラのリストの中にこそ必ず入るべき名前の一人だった。
 それが今まで軍に在席し続ける事が出来た理由は、命令に対する絶対服従。
 パシリをしろと云われればすぐに飛び出し、運転手を命じられれば上司の愛人の送り迎えもした。ラブレターの代筆も、誕生パーティーのピエロもやった。
 股間をしゃぶれと云われた時もきちんと命令を実行した。
 それがボチェクのかわいげとなり、どの部署へ回されても必ず上司に気に入られ、フリートウッド家の護衛に戻る事が出来た理由だった。
 フリートウッド家の護衛は楽だった。
 訓練と称してジムやスポーツを楽しむ日もあれば、護衛の下見と称して旅行をする日もある。上司の命令もたまになら気晴らしと思えない事もない。
 怪我は3度あった。フリートウッド家に強盗が入った時。公爵夫人が招かれた講演会で銃の乱射に巻き込まれた時。それとフリートウッド家が主催したクラシックのコンサート会場で暴漢を取り押さえた時。この時はハリーを庇って深手を負って生死をさまよった。ハリーには襲われたという意識はなく、トラウマにならなくて幸いだった。
 しかしボチェクの活躍は軍部では大した功績とはならず、彼に対する評価は、性的な命令を実行する好き者、という不名誉なもの。
 それでもボチェクは気にしてなかった。命令を必ず遂行する、というプライドさえ自分の中で保たれればそれで良かった。
 ボチェクが守っているのは、国のトップシークレットなのだから。
 なのに、その兄のフォルカーは守るべき弟のハリーを、自分に預けると云う。『奉仕で成り上がった男』にだ。その意味するところは───。
「君の噂は聞いている」
 フォルカーは穏やかに云った。至って冷静だ。
「これはまだ未発表だが、近々、ハリーの治療の件がシークレットではなくなる」
 フォルカーは椅子から立ち、窓辺に立ってボチェクに背を向けた。
「君がハリーを守る正式な理由がなくなるわけだ」
 それは事実上の解任を意味していた。
「公爵夫人も君を気に入っていたので、さぞかし残念がるだろうな」
 毎朝、新聞を持って行って挨拶をするのが、彼女から課せられた日課だった。鬱気味の夫人の相手をする者など、他に誰もいない。
「治療の事を公表されれば、ハリーは周りから普通の扱いをしてもらえなくなるかも知れない。この休暇中は楽しい思い出を残してやりたいんだ、場所で」
───やはり、昨日の事は事故じゃなかったのか。
「君がいなくなると、ハリーもきっと寂しがるよ。君は彼の憧れだからね」
「そんな、まさか...」
 ハリーと親しいなど、噂にすら上ってはならない事だ。ハリーの将来にキズがつくかも知れない。
「今更繕わなくていい。朝、ハリーの部屋に一人で入ったんだろう、カレル」
「あ、あれは───」
 ボチェクの顔から血の気が引く。あの出来事がフォルカーの耳に入らないわけがない。軽い気持ちでやってしまったが、ハリーにとっては決して為にならない行為だった。
 ふいに、フォルカーが声を上げて笑った。
「大胆な事をする割には、意外に真面目なんだな、カレル」
「恐れ入ります...」
 そんな言葉しか出て来ないボチェク。しかし彼に歩み寄り、フォルカーは耳元で云った。
「治療の件もある。ハリーはフリートウッド家の末っ子として生きるのが幸せなんだ」
「...!?」
 ボチェクは絶句した。嫌な汗が吹き出す。
───この男は、ハリーの秘密を知っている!
「命令には絶対服従だそうだが、あまりし難い命令はさせないでくれ、カレル」
 フォルカーはボチェクの肩を叩き、机に戻って書類を手に取った。
「明日にでもハリーを別荘に行かせるから、彼の休暇中は頼むよ」
 フォルカーはもう、ボチェクを見てはいなかった。
「失礼します」
 ボチェクはフォルカーの執務室を後にした。彼に拒否権など最初からなかった。
 狼は赤ずきんを食べなければならない。

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