上 下
35 / 91
クリスを探して

15 摂政殿下のお気に入り

しおりを挟む

 オペラの鑑賞に出掛ける前に、ハリーはアーロンを部屋に呼んだ。そして人払いをする。
 二人きりになると、ハリーは腕を広げてアーロンに全身を見せる。
「どうかな?」
「キレイだよ、ハリー」
 アーロンは目を細めて云った。「てっきり鑑賞するのかと思ってたけど、出演するの?」
「そんなに派手かな」
 ハリーは久しぶりにおしゃれをしている。
 シャツは小顔効果のある大きめの襟を、大きく開いてくつろげる代わりに、アスコットタイを巻いている。ジャケットの襟は別生地で切り替えして、同色の糸で刺繍が施され、更にチェーンラペルピンには、モチーフに宝石が散りばめられ、ライトを反射して煌めく。他にも袖口や裾にも細かい細工がふんだんに施された服装だった。
 普通、オペラ鑑賞時の男性の服装はシックなものが一般的だが、ハリーは観客でありながらも、本日の主役。泣く子も黙る摂政殿下だ。デザイナーがプライドを賭けて仕上げた王子様ファッションだった。
 アーロンがゆっくり歩み寄ると、ハリーははにかみながら、
「あのね、アーロン───」
 ちょっと上目遣いで、「昨夜はごめんね」
「うん? 何のことかな?」
 とぼけるアーロン。
 ハリーは手を前に上げ、アーロンにその手を取らせる。今からダンスが始まりそうに手を取り合うふたり。
「ほら、オレ、その...ひとりで、先に...」
「ああ───」
 アーロンはハリーの耳に囁く。「イッちゃった事か?」
 形の良い白い耳が、見る見るうちに赤くなる。小さく頷くダークブロンドを、アーロンは優しく抱き寄せた。
「そんな事、ずっと気にしてたのか、今日一日?」
「だって...」
「怒ってないよ、全然」
 頭を離すと、ハリーの顎を指先に乗せて上向かせる。未だ困ったちゃんな表情に、アーロンはクスッと笑った。
「そんな顔してたら、せっかくオシャレしたのに、台無しだろ。笑って、王子様」
 アンバーの瞳が誘うように熱くアーロンを見つめる。そのアーロンの指は、顎を摘むようにしてハリーの唇を開く。
「ん...ぅふ、ん...」
 アーロンの舌はくすぐるようにじわじわと侵入し、生き物のようにハリーの口内を動き回る。
「ふぁ...はぁ...んっ」
 ハリーの舌と絡み合い、強く、緩く、弄ぶ。必死に応えようとしていたハリーは何も考えられなくなり、甘い蹂躙に身を委ねる。
「んっ、は、あ...ろ、んふ」
 立っていられなくなり、崩れ落ちそうなハリーの腰を、アーロンが支えてくれる。
「ん...ちょっと、やり過ぎたかな」
 熱い吐息をハリーに溢しながら、アーロンは呟いた。が、ハリーは息が上がり、目の前の肩にしがみつくので精一杯。
「大丈夫か、ハリー?」
「んあっ、ソコ...だめ...」
 急に下ろしたアーロンの手が、ハリーの大きくなった中心をキュッと掴んだ。膝にも力が入らなくなり、アーロンの肩に置く手に力を込めて堪える。
 なのに、アーロンはハリーを支えながら、ハリーの手を取り、自分の下腹部に持っていく。
「オレも、おんなじだよ、ハリー」
 あまりにも確かな感触に、ハリーは身震いする。思わず戦慄する眼差しをアーロンに向けると、しかしアーロンは涼しい顔で、
「オペラから帰ってきたら、ね」
 ハリーの耳に囁いた。思わず、アーロンの肩に顔を埋めた。
───バカー! 今のオレはどうすればいんだよ!
 熱く昂ぶってしまった体は、すぐには治まりそうにない。
 その時、頭上でも深いため息が吐き出された。驚いて見上げるハリー。
「悪ノリしちゃったな...」
 苦笑いのアーロンを見て、ハリーも吹き出した。
───アーロンの方がツラいのかも。
 昨夜もその前も、おあずけだったのはアーロンの方。ちゃんと『待て』が出来ているところが可愛くて、愛おしい。
「アーロンも一緒に行けたらいいのに」
「行くよ、オレも」
「護衛としてだろ」
「ハリーの事だけ見てるから」
 そう云うと、アーロンは綺麗なウィンクをして見せた。
「デート、したいな。二人きりで」
 つい、口にしてしまう。無理だと解っているから。
 するとアーロンは急に語りだした。
「王子様の魔法が解けるのは、深夜、月の光が射す間だけ。王様が戻ってくれば、王子は自由になれるんだ。それまでは、王子様は王様の代わりを務めなければならないから」
 アーロンは両手の指の背でハリーの頬を撫でる。かすめた耳たぶを軽く弾くと、その手にハリーが頬ずりする。
「なんだかおとぎ話みたいに云ってるけど───」
 ヘーゼルの瞳を見上げるハリー。「ほとんどリアルだからなっ」
「そだねー」
 アーロンは笑ってごまかした。





 数日後の朝。
 バイタルチェックの際、アーロンはスケジュールの変更をハリーに告げた。
「空軍の勲章の授与ですが、災害救助犬の勲章授与も行う事になりました」
「救助犬...先月のか?」
「はい。山中の遭難者を発見したのは、空軍の訓練中の犬だったそうです」
「実地訓練が訓練ではなくなった、と話題になった件だな」
 ハリーはニヤリと口角を上げる。「───分かった。犬なら誰かさんで慣れてる。むしろ訓練されてる分、大人しいだろう」
 ピクリとアーロンの眉が上がる。
「それは、秋田犬並みに忠誠心の厚い者ですね」
「いや。大型犬の割には甘えん坊のグレートデーンだ」
 ハリーは頻繁に、この犬種の名前を口にしているようだ。摂政の後ろの壁際で、メイドが上がってしまう口角を見せないように、口元を押さえて横を向いた。
 アーロンは気を取り直して話題を変える。
「しばらくの間、髪のお手入れがご無沙汰でしたね。メイクの際に専門の者が参りますので、お申し付け下さい」
 確かにハリー自身でも、毛先のまとまりが気になっていた。
「お前も気になるか、アーロン?」
「私には専門外です、ハリー殿下」
 訊いても無駄だった。
───そうだろうとも、アーロン先生にはねっ。
 朝食を済ませると、ハリーはメイクルームに移動した。待ち構えていた王室の担当者数人が、揃って挨拶する。
「おはようございます、ハリー摂政殿下」
「おはよう、諸君」
 スーツなら、自分で用意したものに自室で着替えるが、勲章の授与式となると軍服になる。それはエポーレット(肩章)等と一緒に王室が管理している。一人でちゃっちゃと着替える、という訳にはいかない。
 ハリーが部屋の中央に立つと、担当者が全員でハリーに群がる。服は自分で着るが、ボタンをかけたりベルトを締めたり、といった辺りから手が伸びてきた。
 エポーレット等の装飾品は、古い物は美術館所蔵になる程高価だ。ハリーが身に着ける時以外は、厳重に保管されている。
───どいつもこいつも、堅物揃いだな。
 担当者は皆、生真面目な顔で作業をしている。ハリーは退屈して、くだらない事を考えてしまう。
───ここで冗談を云ったら笑うかな?
 表情をピクリともさせずにスルーされそうだ。
 しかし一人だけ、30代くらいの若い男がいる。まだ下っ端らしく、装飾品の箱を取っては開け、締めては箱を取り替える、を繰り返している。
───この男だったら、ツボにハマっても顔を真っ赤にして堪えるだろうな。
 そう思うとハリーの方がニヤけてきた。唇を引き結んで堪える。
 やがて担当者ごとに離れて行く。そのうちの大ボスらしき年配の男が、ハリーを眺め回すように一瞥して云った。
「済みました、ハリー殿下。動きにくいところはございませんか?」
 ハリーは重くなった肩を軽く回す。
「こんなものだろう」
「結構です。装飾品が落下するような事はございませんが、私共が常に控えておりますので、お心置きなく、式にお臨み下さい」
「分かった。ありがとう」
 担当者達は、空になった箱を持って、一旦退出した。
「とても、凛々しくていらっしゃいます、ハリー殿下」
 控えていた執事が、ドレッサーの椅子を引いて云った。
「このまま走って逃げたら、彼らも慌てるだろうな」
「滅多なことを仰らないで下さいっ」
 クスクス笑いながら、ハリーはドレッサーの正面を向く。と、そこにはある筈のメイク道具がない。
「失礼しました」
 執事は慌てる素振りで離れる。「───移しておいたメイク道具を只今、持って参ります」
「急がなくてもいいよ」
 執事はすぐに出て行ったが、時間にはかなりの余裕があった。
───にしても、どこに持って行ったんだろう?
 最近はハリーが自分でメイクをしていた。この部屋でしか使わないのに、何故別の場所へ...。
 さほど気にもせず、ハリーは鏡に映るエポーレットのバランスを見る。そこにかかる髪を指先に絡めては持て余していると、ドアの開く音がした。
 気になっていた事を、鏡から目を離さずに口にする。
「アーロンは診察室にいるのかな?」
「アーロン先生は、護衛の打ち合わせに入っているようです、ハリー殿下」
 振り返ると、声の主はドアの前で軽く膝を曲げた。
「ステファン!」
 名を呼ぶと、懐かしそうに目を細めて、深く息を吐いた。
 ハリーもまた、立ち上がって首を何度も振り、腕を広げた。
 仕方なく、ステファンは歩み寄って、しかし咎めるように首を大きく振る。
「いけません、殿下。私は使用人も同然───」
「何を堅いこと云ってるんだ」
 ステファンの手を取って引き寄せ、ハリーは抱きしめた。ぎゅっと力を込めて。
「ゔ...で、殿下...」
「あ、そうか、済まない、ステファン」
 薄い肩を掴んで離すと、整った女顔を確認する。頬骨の辺りが少し赤くなっていた。軍服の装飾品がもろに当たっていたようだ。
「大丈夫か、傷になったりしてないだろうな?」
「大袈裟です。お気遣いには及びません。それより、殿下───」
 ステファンは一歩下がって、「ご心配とご迷惑をおかけしてしまって、大変申し訳ございませんでした。お許し下さい」
 うなだれるように俯いた。
───こんな時、アーロンなら...。
 あの大きな手で、相手の髪をくしゃくしゃするだろう。立場上、ハリーにはそれは出来ない。───てゆーか、ボディタッチは愛情表現になってしまうから、控えなければならない。
 何も出来ず、仕方なくハリーは、ため息混じりに笑った。
「顔を上げなさい、ステファン」
───この立場でオレは、友人を作る事なんて、出来るのかな。
 目の前で顔を上げ、上品に微笑む青年が心を許してくれる日など、想像が出来ない。
───ベッドを共にすればあるいは...。
 その考えはすぐに否定する。過去の恋人達はみんな、短い期間でハリーの元を去った。ステファンもきっとそうするだろう。
───やめよう。オレにはアーロンがいる。開業したクリニックを辞めてまで、来てくれたんだ。
 そう思うと、無性に会いたくなる。
 ハリーの思いなど知らないステファンは、いつものように落ち着いた様子で、白い封筒を取り出した。
「ワイアット先生から、これを預かって参りました。どうぞ、殿下」
「手紙?」
 想っていた人の名前を出されて、ハリーは驚いた声を上げた。
「今、お読み下さい、と言付かっておりますので、どうぞ」
「あ、ああ...」
 ハリーは少し戸惑いながら、封を開けた。


 親愛なるハリー摂政殿下

 書面で失礼致します。
 そこに控えるステファン=ベルジュは、当時の行動とこの度の真摯な態度、謝罪、そしてハリー殿下や部長K=ボチェクの口添え等により、不起訴となった事をお知らせ致します。
 取り急ぎご報告まで。

 誠意を込めて
 アーロン=ワイアット


 署名の横の落書きは、どうやら犬の顔のつもりらしい。ステファンが見ている前で、ハリーはクスッと笑った。
「不起訴か...」
 呟いてステファンに目を向ける。「ではまた、これまでのようにメイクを頼むよ、ステファン=ベルジュ」
「かしこまりました、ハリー殿下」
 嬉しそうに微笑むステファン。椅子の後ろに素早く回り、ハリーを座らせる。相変わらず無駄のない動きだが───。
「表情が、出るようになったか、ステファン?」
「恐れ入ります。殿下の助言と今回の事で、肩の力が抜けたのかも知れません」
 絶えず微笑を浮かべながら、ステファンは答えた。
「正直なところ───」
 淡々とメイクアップを施すステファンを鏡越しに目で追いながら、ハリーは口を開く。「もし君が釈放されたとしても、ここには戻って来ないかも知れないと思っていた」
「それは...恐れ入ります」
「君はきっと『迷惑をかけた以上、復職する事など出来ません』などと云いそうだからな」
 からかうわけでもなく、ハリーは云った。鏡に映る表情はどこか、懐かしそうだった。
「大変、恐縮です、ハリー殿下」
「いいんだ。私は君が気に入った。嫌になるまではこれまで通り、メイクアップを頼むぞ、ステファン=ベルジュ」
「かしこまりました、ハリー殿下」
 鏡の中のステファンは、ハリーに向かって美しく微笑んだ。
しおりを挟む

処理中です...