悪魔と聖女

桧垣森輪

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5.月の消える夜

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 悪魔にとって、人間は家畜と同じ捕食の対象でしかない。
 人間しか食べないというわけではなく、空腹を満たすだけなら牛でも豚でも鳥でもいい。ただ、霊力の高い人間を食べると力が強くなるというのは本当で、悪魔が聖女のもとを訪れたのも、最初は興味本位だった。
 どれだけ霊力の高い人間がいるのかと思えば、塔にいたのはただの小娘だった。しかも、美しい見た目に反して、なかなか肝の据わった小娘だ。
 だが、最近の彼女は、どこかおかしい。
 いつからか、小馬鹿にした目でこちらを見ることがなくなった。強固な結界に守られているというのに、余裕ぶった様子もなくなった。
 夜になると窓辺に俯せて、小さく、小さく、震えている。
 人間は、家畜と同じ――それでも、毎日顔を合わせていれば、少しは情も湧いてくる。
 それに、俺たちは気まぐれな生きものだからと、悪魔は翼をはためかせる。
 生命力の衰えた相手を食らっても、なんの糧にもならないのだと、心の中で言い訳しながら――。

*****

「おい」
 ゆっくりと顔を上げると、そこには悪魔がいた。
「いいか、そこを動くな。だけど決して離れるなよ」
 そう言うと、徐に悪魔は結界へと手を伸ばす。
「ちょ……っ、なにをしているの!?」
 当然の如く反応した結界が、バチバチと音を立てた。普段なら触れるはずもない光を、悪魔は掴んだ。
 結界に面した手のひらがみるみるうちに焼け焦げていく。立ちこめる煙と焦げた匂いに、聖女は思わず身体を起こして叫んだ。
「は、離れて! 早く!」
「――っ、動くな……! いいから……っ、受け取れ」
 右手で結界を掴みながら、左手がなにかを差し出す。
「結界に、触れるなよ……っ」
 網目状の結界の隙間から、淡い光に包まれたものが聖女の側へと渡る。バチバチと揺れる空気に触れないようにしながら、先端を慎重に摘まむ。
 聖女の指先が触れたのが、悪魔にも伝わる。はじめてお互いの存在が触れ合った。
「――ふん、なんとか、通ったな」
「だ、大丈夫……!?」
 悪魔の両手は見るも無惨に焼け焦げている。だが、悪魔はたいして気にする様子もなく、聖女の手元を確かめて、笑った。
「結界もたいしたことねぇな? そのうち俺も、おまえに触れてみせるからな」
 そこまでして悪魔が手渡してくれたのは、故郷に咲く、小さなルピの花だった。
 ――知らないって、言ったのに……。
 いつかその花が咲いたかどうか尋ねたとき、悪魔はそんなものは知らないと答えた。
 だけど、聖女の手にあるのは、たしかに懐かしい故郷の花だ。辺境の村に咲く、なんの変哲もない小さな花を、彼はわざわざ探してきてくれたのだ。
「――ねえ、あなたの、名前は?」
 その胸に去来する感情をなんと呼べばいいのかもわからないまま、聖女は掠れた声で問いかけた。
「ちゃんと、お礼を言いたいの。あなたの名前は、なんていうの?」
「悪いが、それは教えられない」
 だが、悪魔の声色は冷たいものだった。
「俺たちにとって、名前は自分の存在を証明するものだ。名前を知られれば、それを基に呪いや契約を強いられる。それは命を差し出すことと等しい行為だ。だから……おいそれと教えるわけにはいかない」
 悪魔は淡々と事実を告げたのだが、聖女にはどこか済まなさそうにしているようにも見えた。
「そう……じゃあ、あなたは、私にとってはただの悪魔でしかないのね」
 聖女はただ、親切なこの男に礼を言いたかっただけで、困らせたかったわけではない。
 彼がこの花を届けてくれたのは、自分を励ますためだと容易に想像ができた。だから、いつものように『悪魔』と呼ぶよりも、名前を添えたかっただけで、他意はなかった。
 でも、いざ口をついて出た声はなぜか寂しげで、それがいっそう悪魔を困らせてしまったのだろう。
「じゃ、じゃあな、聖女。また来る」
 まるで逃げるように、悪魔は素早く身を翻した。
「――ハイネよ」
 飛び去ろうとする悪魔の背に、聖女が言った。
 振り返ると、聖女が身を乗り出すようにして窓辺に立っている。
「聖女じゃなくて、私はハイネっていうの。もう誰も呼ぶことのなくなった名前だけど、あなたには教えてあげる。……花を、ありがとう」
 大事そうにルピの花を抱えながら、薄暗い部屋の中で聖女は儚げに微笑んでいた。

 思えば、悪魔は聖女の笑顔などほとんど見たことがなかった。時折笑みを浮かべることはあったが、どれも自嘲めいたものばかりで、やっと見せた笑顔ものだって、幸せからはほど遠かった。
 ――せっかく、綺麗な顔をしているのに。
 海の話をしたときは、あんなにも瞳を輝かせていた。
 あのときの彼女の周囲には華が咲いたように明るくなって、ただ言葉を交わすだけの時間は、悪魔の退屈を不思議と満たした。
 興味のなかった海まで飛んだのは、馬鹿にされた悔しさからだ。でも、はじめて見る海を前にして浮かんだのは、この光景を伝えたときの聖女の顔だ。だから、なんの役にも立たない貝殻なんぞを気まぐれに持ち帰った。
 わざわざ花を探しに行ったのも、故郷の花を見れば、少しは元に戻るかと思っていた。
 彼女が心から笑えば、それはきっと美しいのに――。
 毎日顔を合わせていれば、少しは情も湧いてくる。悪魔もまた、自分の抱えた感情の名前を知らない。

 強力な結界に守られた彼女自身には、決して触れられない。
 決して触れられない相手だと思うほど、余計に手に入れたくなってくる。
 彼女は、ヒトの聖女、神の花嫁。決して、悪魔だれのものにもならない。
 それを、手に入れることができたなら――。

 そして訪れた月の消える夜、聖女の姿が塔から消えた。
「――ついに、出たか……!」
 悪魔は赤い目をギラつかせながら身を翻し、北の山を真っ直ぐに見据えた。
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