5 / 9
5.月の消える夜
しおりを挟む
悪魔にとって、人間は家畜と同じ捕食の対象でしかない。
人間しか食べないというわけではなく、空腹を満たすだけなら牛でも豚でも鳥でもいい。ただ、霊力の高い人間を食べると力が強くなるというのは本当で、悪魔が聖女のもとを訪れたのも、最初は興味本位だった。
どれだけ霊力の高い人間がいるのかと思えば、塔にいたのはただの小娘だった。しかも、美しい見た目に反して、なかなか肝の据わった小娘だ。
だが、最近の彼女は、どこかおかしい。
いつからか、小馬鹿にした目でこちらを見ることがなくなった。強固な結界に守られているというのに、余裕ぶった様子もなくなった。
夜になると窓辺に俯せて、小さく、小さく、震えている。
人間は、家畜と同じ――それでも、毎日顔を合わせていれば、少しは情も湧いてくる。
それに、俺たちは気まぐれな生きものだからと、悪魔は翼をはためかせる。
生命力の衰えた相手を食らっても、なんの糧にもならないのだと、心の中で言い訳しながら――。
*****
「おい」
ゆっくりと顔を上げると、そこには悪魔がいた。
「いいか、そこを動くな。だけど決して離れるなよ」
そう言うと、徐に悪魔は結界へと手を伸ばす。
「ちょ……っ、なにをしているの!?」
当然の如く反応した結界が、バチバチと音を立てた。普段なら触れるはずもない光を、悪魔は掴んだ。
結界に面した手のひらがみるみるうちに焼け焦げていく。立ちこめる煙と焦げた匂いに、聖女は思わず身体を起こして叫んだ。
「は、離れて! 早く!」
「――っ、動くな……! いいから……っ、受け取れ」
右手で結界を掴みながら、左手がなにかを差し出す。
「結界に、触れるなよ……っ」
網目状の結界の隙間から、淡い光に包まれたものが聖女の側へと渡る。バチバチと揺れる空気に触れないようにしながら、先端を慎重に摘まむ。
聖女の指先が触れたのが、悪魔にも伝わる。はじめてお互いの存在が触れ合った。
「――ふん、なんとか、通ったな」
「だ、大丈夫……!?」
悪魔の両手は見るも無惨に焼け焦げている。だが、悪魔はたいして気にする様子もなく、聖女の手元を確かめて、笑った。
「結界もたいしたことねぇな? そのうち俺も、おまえに触れてみせるからな」
そこまでして悪魔が手渡してくれたのは、故郷に咲く、小さなルピの花だった。
――知らないって、言ったのに……。
いつかその花が咲いたかどうか尋ねたとき、悪魔はそんなものは知らないと答えた。
だけど、聖女の手にあるのは、たしかに懐かしい故郷の花だ。辺境の村に咲く、なんの変哲もない小さな花を、彼はわざわざ探してきてくれたのだ。
「――ねえ、あなたの、名前は?」
その胸に去来する感情をなんと呼べばいいのかもわからないまま、聖女は掠れた声で問いかけた。
「ちゃんと、お礼を言いたいの。あなたの名前は、なんていうの?」
「悪いが、それは教えられない」
だが、悪魔の声色は冷たいものだった。
「俺たちにとって、名前は自分の存在を証明するものだ。名前を知られれば、それを基に呪いや契約を強いられる。それは命を差し出すことと等しい行為だ。だから……おいそれと教えるわけにはいかない」
悪魔は淡々と事実を告げたのだが、聖女にはどこか済まなさそうにしているようにも見えた。
「そう……じゃあ、あなたは、私にとってはただの悪魔でしかないのね」
聖女はただ、親切なこの男に礼を言いたかっただけで、困らせたかったわけではない。
彼がこの花を届けてくれたのは、自分を励ますためだと容易に想像ができた。だから、いつものように『悪魔』と呼ぶよりも、名前を添えたかっただけで、他意はなかった。
でも、いざ口をついて出た声はなぜか寂しげで、それがいっそう悪魔を困らせてしまったのだろう。
「じゃ、じゃあな、聖女。また来る」
まるで逃げるように、悪魔は素早く身を翻した。
「――ハイネよ」
飛び去ろうとする悪魔の背に、聖女が言った。
振り返ると、聖女が身を乗り出すようにして窓辺に立っている。
「聖女じゃなくて、私はハイネっていうの。もう誰も呼ぶことのなくなった名前だけど、あなたには教えてあげる。……花を、ありがとう」
大事そうにルピの花を抱えながら、薄暗い部屋の中で聖女は儚げに微笑んでいた。
思えば、悪魔は聖女の笑顔などほとんど見たことがなかった。時折笑みを浮かべることはあったが、どれも自嘲めいたものばかりで、やっと見せた笑顔だって、幸せからはほど遠かった。
――せっかく、綺麗な顔をしているのに。
海の話をしたときは、あんなにも瞳を輝かせていた。
あのときの彼女の周囲には華が咲いたように明るくなって、ただ言葉を交わすだけの時間は、悪魔の退屈を不思議と満たした。
興味のなかった海まで飛んだのは、馬鹿にされた悔しさからだ。でも、はじめて見る海を前にして浮かんだのは、この光景を伝えたときの聖女の顔だ。だから、なんの役にも立たない貝殻なんぞを気まぐれに持ち帰った。
わざわざ花を探しに行ったのも、故郷の花を見れば、少しは元に戻るかと思っていた。
彼女が心から笑えば、それはきっと美しいのに――。
毎日顔を合わせていれば、少しは情も湧いてくる。悪魔もまた、自分の抱えた感情の名前を知らない。
強力な結界に守られた彼女自身には、決して触れられない。
決して触れられない相手だと思うほど、余計に手に入れたくなってくる。
彼女は、ヒトの聖女、神の花嫁。決して、悪魔のものにもならない。
それを、手に入れることができたなら――。
そして訪れた月の消える夜、聖女の姿が塔から消えた。
「――ついに、出たか……!」
悪魔は赤い目をギラつかせながら身を翻し、北の山を真っ直ぐに見据えた。
人間しか食べないというわけではなく、空腹を満たすだけなら牛でも豚でも鳥でもいい。ただ、霊力の高い人間を食べると力が強くなるというのは本当で、悪魔が聖女のもとを訪れたのも、最初は興味本位だった。
どれだけ霊力の高い人間がいるのかと思えば、塔にいたのはただの小娘だった。しかも、美しい見た目に反して、なかなか肝の据わった小娘だ。
だが、最近の彼女は、どこかおかしい。
いつからか、小馬鹿にした目でこちらを見ることがなくなった。強固な結界に守られているというのに、余裕ぶった様子もなくなった。
夜になると窓辺に俯せて、小さく、小さく、震えている。
人間は、家畜と同じ――それでも、毎日顔を合わせていれば、少しは情も湧いてくる。
それに、俺たちは気まぐれな生きものだからと、悪魔は翼をはためかせる。
生命力の衰えた相手を食らっても、なんの糧にもならないのだと、心の中で言い訳しながら――。
*****
「おい」
ゆっくりと顔を上げると、そこには悪魔がいた。
「いいか、そこを動くな。だけど決して離れるなよ」
そう言うと、徐に悪魔は結界へと手を伸ばす。
「ちょ……っ、なにをしているの!?」
当然の如く反応した結界が、バチバチと音を立てた。普段なら触れるはずもない光を、悪魔は掴んだ。
結界に面した手のひらがみるみるうちに焼け焦げていく。立ちこめる煙と焦げた匂いに、聖女は思わず身体を起こして叫んだ。
「は、離れて! 早く!」
「――っ、動くな……! いいから……っ、受け取れ」
右手で結界を掴みながら、左手がなにかを差し出す。
「結界に、触れるなよ……っ」
網目状の結界の隙間から、淡い光に包まれたものが聖女の側へと渡る。バチバチと揺れる空気に触れないようにしながら、先端を慎重に摘まむ。
聖女の指先が触れたのが、悪魔にも伝わる。はじめてお互いの存在が触れ合った。
「――ふん、なんとか、通ったな」
「だ、大丈夫……!?」
悪魔の両手は見るも無惨に焼け焦げている。だが、悪魔はたいして気にする様子もなく、聖女の手元を確かめて、笑った。
「結界もたいしたことねぇな? そのうち俺も、おまえに触れてみせるからな」
そこまでして悪魔が手渡してくれたのは、故郷に咲く、小さなルピの花だった。
――知らないって、言ったのに……。
いつかその花が咲いたかどうか尋ねたとき、悪魔はそんなものは知らないと答えた。
だけど、聖女の手にあるのは、たしかに懐かしい故郷の花だ。辺境の村に咲く、なんの変哲もない小さな花を、彼はわざわざ探してきてくれたのだ。
「――ねえ、あなたの、名前は?」
その胸に去来する感情をなんと呼べばいいのかもわからないまま、聖女は掠れた声で問いかけた。
「ちゃんと、お礼を言いたいの。あなたの名前は、なんていうの?」
「悪いが、それは教えられない」
だが、悪魔の声色は冷たいものだった。
「俺たちにとって、名前は自分の存在を証明するものだ。名前を知られれば、それを基に呪いや契約を強いられる。それは命を差し出すことと等しい行為だ。だから……おいそれと教えるわけにはいかない」
悪魔は淡々と事実を告げたのだが、聖女にはどこか済まなさそうにしているようにも見えた。
「そう……じゃあ、あなたは、私にとってはただの悪魔でしかないのね」
聖女はただ、親切なこの男に礼を言いたかっただけで、困らせたかったわけではない。
彼がこの花を届けてくれたのは、自分を励ますためだと容易に想像ができた。だから、いつものように『悪魔』と呼ぶよりも、名前を添えたかっただけで、他意はなかった。
でも、いざ口をついて出た声はなぜか寂しげで、それがいっそう悪魔を困らせてしまったのだろう。
「じゃ、じゃあな、聖女。また来る」
まるで逃げるように、悪魔は素早く身を翻した。
「――ハイネよ」
飛び去ろうとする悪魔の背に、聖女が言った。
振り返ると、聖女が身を乗り出すようにして窓辺に立っている。
「聖女じゃなくて、私はハイネっていうの。もう誰も呼ぶことのなくなった名前だけど、あなたには教えてあげる。……花を、ありがとう」
大事そうにルピの花を抱えながら、薄暗い部屋の中で聖女は儚げに微笑んでいた。
思えば、悪魔は聖女の笑顔などほとんど見たことがなかった。時折笑みを浮かべることはあったが、どれも自嘲めいたものばかりで、やっと見せた笑顔だって、幸せからはほど遠かった。
――せっかく、綺麗な顔をしているのに。
海の話をしたときは、あんなにも瞳を輝かせていた。
あのときの彼女の周囲には華が咲いたように明るくなって、ただ言葉を交わすだけの時間は、悪魔の退屈を不思議と満たした。
興味のなかった海まで飛んだのは、馬鹿にされた悔しさからだ。でも、はじめて見る海を前にして浮かんだのは、この光景を伝えたときの聖女の顔だ。だから、なんの役にも立たない貝殻なんぞを気まぐれに持ち帰った。
わざわざ花を探しに行ったのも、故郷の花を見れば、少しは元に戻るかと思っていた。
彼女が心から笑えば、それはきっと美しいのに――。
毎日顔を合わせていれば、少しは情も湧いてくる。悪魔もまた、自分の抱えた感情の名前を知らない。
強力な結界に守られた彼女自身には、決して触れられない。
決して触れられない相手だと思うほど、余計に手に入れたくなってくる。
彼女は、ヒトの聖女、神の花嫁。決して、悪魔のものにもならない。
それを、手に入れることができたなら――。
そして訪れた月の消える夜、聖女の姿が塔から消えた。
「――ついに、出たか……!」
悪魔は赤い目をギラつかせながら身を翻し、北の山を真っ直ぐに見据えた。
0
あなたにおすすめの小説
放課後の保健室
一条凛子
恋愛
はじめまして。
数ある中から、この保健室を見つけてくださって、本当にありがとうございます。
わたくし、ここの主(あるじ)であり、夜間専門のカウンセラー、**一条 凛子(いちじょう りんこ)**と申します。
ここは、昼間の喧騒から逃れてきた、頑張り屋の大人たちのためだけの秘密の聖域(サンクチュアリ)。
あなたが、ようやく重たい鎧を脱いで、ありのままの姿で羽を休めることができる——夜だけ開く、特別な保健室です。
JKメイドはご主人様のオモチャ 命令ひとつで脱がされて、触られて、好きにされて――
のぞみ
恋愛
「今日から、お前は俺のメイドだ。ベッドの上でもな」
高校二年生の蒼井ひなたは、借金に追われた家族の代わりに、ある大富豪の家で住み込みメイドとして働くことに。
そこは、まるでおとぎ話に出てきそうな大きな洋館。
でも、そこで待っていたのは、同じ高校に通うちょっと有名な男の子――完璧だけど性格が超ドSな御曹司、天城 蓮だった。
昼間は生徒会長、夜は…ご主人様?
しかも、彼の命令はちょっと普通じゃない。
「掃除だけじゃダメだろ? ご主人様の癒しも、メイドの大事な仕事だろ?」
手を握られるたび、耳元で囁かれるたび、心臓がバクバクする。
なのに、ひなたの体はどんどん反応してしまって…。
怒ったり照れたりしながらも、次第に蓮に惹かれていくひなた。
だけど、彼にはまだ知られていない秘密があって――
「…ほんとは、ずっと前から、私…」
ただのメイドなんかじゃ終わりたくない。
恋と欲望が交差する、ちょっぴり危険な主従ラブストーリー。
淫紋付きランジェリーパーティーへようこそ~麗人辺境伯、婿殿の逆襲の罠にハメられる
柿崎まつる
恋愛
ローテ辺境伯領から最重要機密を盗んだ男が潜んだ先は、ある紳士社交倶楽部の夜会会場。女辺境伯とその夫は夜会に潜入するが、なんとそこはランジェリーパーティーだった!
※辺境伯は女です ムーンライトノベルズに掲載済みです。
敵に貞操を奪われて癒しの力を失うはずだった聖女ですが、なぜか前より漲っています
藤谷 要
恋愛
サルサン国の聖女たちは、隣国に征服される際に自国の王の命で殺されそうになった。ところが、侵略軍将帥のマトルヘル侯爵に助けられた。それから聖女たちは侵略国に仕えるようになったが、一か月後に筆頭聖女だったルミネラは命の恩人の侯爵へ嫁ぐように国王から命じられる。
結婚披露宴では、陛下に側妃として嫁いだ旧サルサン国王女が出席していたが、彼女は侯爵に腕を絡めて「陛下の手がつかなかったら一年後に妻にしてほしい」と頼んでいた。しかも、侯爵はその手を振り払いもしない。
聖女は愛のない交わりで神の加護を失うとされているので、当然白い結婚だと思っていたが、初夜に侯爵のメイアスから体の関係を迫られる。彼は命の恩人だったので、ルミネラはそのまま彼を受け入れた。
侯爵がかつての恋人に似ていたとはいえ、侯爵と孤児だった彼は全く別人。愛のない交わりだったので、当然力を失うと思っていたが、なぜか以前よりも力が漲っていた。
※全11話 2万字程度の話です。
淫らな蜜に狂わされ
歌龍吟伶
恋愛
普段と変わらない日々は思わぬ形で終わりを迎える…突然の出会い、そして体も心も開かれた少女の人生録。
全体的に性的表現・性行為あり。
他所で知人限定公開していましたが、こちらに移しました。
全3話完結済みです。
ユーザ登録のメリット
- 毎日¥0対象作品が毎日1話無料!
- お気に入り登録で最新話を見逃さない!
- しおり機能で小説の続きが読みやすい!
1~3分で完了!
無料でユーザ登録する
すでにユーザの方はログイン
閉じる