甘い果実

桧垣森輪

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第2話

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「妃沙実さん、大丈夫ですか?」
「大丈夫、大丈夫~、まだまだ飲めるんだからぁ~」
「……ったく、飲みすぎですよ」

 大丈夫とは言ってみても、足元はまったくおぼつかない。おまけに呂律も回っていない。もともとアルコールには強い方なので多少飲みすぎても意識はしっかりしているが、いかんせん年のせいか足にはきている。居酒屋を出ることにはすっかり千鳥足になってしまった私を、桃哉くんを含む後輩たちが家まで送ってくれた。
 会社の最寄り駅から徒歩圏内にある私の1LDKのマンションは、仕事終わりに鍋パーティをしたり残業なんかで終電を逃した同僚たちの駆け込み寺として重宝がられている。リビングと寝室は別にしてあるし、元彼は週末の深夜にしか来ることはなかったから、お泊りもOKだ。私を送ってくれた三人も、朝まで居てくれることだろう。

 部屋の前に着くと、バッグから鍵を取り出し、玄関を開けて電気のスイッチを入れる。
 灯りのともされた部屋には、当然ながらアイツの姿はない。
 早く帰ろうが遅く帰ろうが、私より先にアイツがこの部屋にいることはなかった。
 それでも私は目で追ってしまう。
 誰もいない部屋は、当然私が今朝出かけた時のままの姿でそこに在るのだけれど、それでもついこの間まで、この部屋の中にはアイツの姿があった。
「……引っ越し、しようかな」
 目の前に広がるいつもの景色を見つめながら、ポツリと呟いた。
 家具も食器も自分の趣味で選んだもので、そこにアイツの意思なんてないのだけれど、社会に出てからの五年間を過ごした部屋には、思い出が多すぎる。
「そうですか? 妃沙実さんの部屋は会社からも近いし便利がいいのにもったいないですよ」
「そりゃ、君たちには都合がいいだろうけどね……」
 感傷に浸っているのは自分だけか。能天気な彼らの言葉に顔も綻ぶ。

 誰もいない土曜日の朝を過ごすには、まだ少し、傷が痛む。



 我が家には急な来客にも対応できるようにお泊まりグッズも常備されている。順番にシャワーを浴びてもらい、後輩たちがリビングでのんびりしている間に寝室の押し入れから毛布を二枚取り出す。
 一番最後にシャワーを浴びた私が出る頃には、部屋には3人の楽しげな会話が溢れていた。

「桃哉くんは、元カレの気配のする部屋は気にならないの?」
「少しは気になるけど、そこまでは」
「そうなんだ、寛大だねぇ」
「要らないものは捨ててしまえばいいし、思い出だって塗り替えてしまえばいいんだから」
「なんじゃそれ、めっちゃかっこいいじゃん!」
「じゃあ、桃哉くんの部屋には元カノの私物とかはないわけ?」
「そんなものとっくの昔に処分したよ。彼女が来た時に失礼だろう?」
「彼女って、まだ片思いのくせに~」

 リビングの三人は紅一点の奈々ちゃんを中心にして座っていた。
 三人は四月入社の同期で、同い年。奈々ちゃんは新入社員の中でも断トツに可愛くて、彼女に憧れる男性社員も多いと聞く。小柄で背が低く、愛くるしい瞳にふわふわの髪の毛の、守ってあげたくなるような典型的な女の子だ。
 男たちも、そんな奈々ちゃんを意識していると私は思っている。特に#陽生_はるき_#くんは熱心な様子で、奈々ちゃんを見る目に熱が篭っている。一方の奈々ちゃんは、なんとなく身体が桃哉くんに寄っている、そんな気がした。
 女子のマドンナが奈々ちゃんなら、男子のナンバーワンは桃哉くんだ。凛々しい眉に黒目がちの大きな目、高く通った鼻筋と厚めの唇。偏差値の高いことで有名な大卒の経歴とスラリとした高身長ともなれば、もはや新入社員というよりは社内の男子の中でもトップクラスの人気者と言っても過言ではないだろう。一見すると派手な顔立ちではあるが、内面の真面目さが滲み出ているのか年の割には落ち着いていてクールな印象を受ける。だけど普段真面目でクールな彼が、笑うと顔をくしゃくしゃとさせてどこかあどけなさを感じるところが、年上女子としてはツボである。
 隣同士に座る奈々ちゃんと桃哉くんは、文句のつけどころのない美男美女のカップルのようだ。彼には片思いの相手がいるはずだけど、彼女持ちではないんだから目移りだって許される。奈々ちゃんのような子に言い寄られるのは、男であれば悪い気もしないだろう。

 そういえばアイツも、そんな子が好きだって言っていたな。

 私は、どちらかといえば骨格がしっかりしている安産型の体型で、か弱くて守ってあげたくなるなんてことは一度たりとも言われたことはない。仕事も、指導係になるくらいだからできる方だと思う。割と気が強くてサバサバした性格だから、小さい頃に母親からは一人でも生きていけるように手に職を付けなさいと言われていたっけ。
 もともとアイツと付き合うようになったのだって、私の押しの強さに向こうが根負けしたようなものだ。好きになった相手には妄信的に尽くすタイプだったらしい私は、アイツの好みとはかけ離れている。
 本来のアイツのタイプは、私とは全然違う、奈々ちゃんのような可愛らしい女の子。浮気相手には会ったこともないし会いたいとも思わないけれど、きっと私とは全然違う人だと思う。

 いくら仲良くしているとはいえ、彼らと私の間には5歳の年齢差がある。彼らの指導係になった時、お互いをファーストネームで呼ぶように提案したのは私。自分の新人時代の指導係の先輩は厳しくて怖い人だった。楽しいだけではやっていけない社会人生活でも、どうせ仕事をするなら仲良くやっていきたい。自分の経験を踏まえて彼らとの距離を縮めるようにしてきたつもりでも、同期と先輩。そこには埋められることのない大きな溝があるようだ。
 私にも同期はいるが、就職してから三年を過ぎた辺りから一人また一人と退職していった。もちろん残っている人もいるけれど、一番仲の良かった女の子は、昨年寿退社した。
 高校や大学の同級生とは、たまにメールをするくらいで会うことはない。それに、高校の同級生は、アイツとも同級生。高校時代の自分を知っている友達は、私たちが付き合うようになったことを知ってみんな驚き、喜んでくれた。

『よかったね。頑張った甲斐があったじゃん!!』

『随分長く続いてるね。このまま結婚するじゃない?』

『いつ結婚するの?結婚式には呼んでよね』

 ――友達には、まだしばらくは会いたくないかな。

「妃沙実さん? どうしたんですか、そんなところに突っ立って。」
 毛布を抱えたまま呆然と三人を眺めていた私は、桃哉くんの声で我に返る。
「ああ、ごめん。立ったまま寝そうになってた」
 そのまま、彼の隣へと腰を下ろした。
 仲のよさそうな後輩の様子にまで寂しさを感じるなんて、私のダメージはいつまで続くのだろうか。
 どんなに落ち込んだところで、壊れてしまったものはもう戻らない。一人に戻ったからには頑張らなくてはいけないけれど、誰かと過ごすことに慣れてしまったからには、やはり心細い。

「……彼氏、欲しいなぁ」
「そうですよ、妃沙実さん。失恋の傷を癒すのは新しい恋ですよ」
 独り言のような一言に、奈々ちゃんが身を乗り出して賛成した。
「冷静になって見てください。元カレさんより素敵な人なんて、身近にだってたくさんいるんですよ?」
 彼女の言う身近とは、ここに居る二人のことだろうか。やっぱり奈々ちゃんは、桃哉くんに気があるのかもしれない。
 うちの会社は社内恋愛にも寛容なので、後輩の恋路を邪魔する必要はない。
 だけど、どうしてか、私の頭には悪戯心がむくむくと顔を覗かせた。
「そうだよね……桃哉くん、付き合っちゃおうか?」
 奈々ちゃんが桃哉くんを狙っているのなら、我ながら意地の悪いことしてしまったと思う。でも、私とはタイプの違う彼女の応援をする気持ちが、全く浮かんでこなかった。
 それに、途端に赤くなった桃哉くんを見て、やはり嬉しくなった。というのも、彼のこの反応が私にとってツボだったりする。

 彼女と別れているのは知らなかったけど、桃哉くんの反応は初心なところがある。経験がないわけじゃないだろうに、ちょっとした悪戯にこんな風に赤くなるのが可愛くて、ついついちょっかいを出してしまうのだ。
 ひとつ間違えればセクハラになってしまうけど、幸い彼は冗談として上手に受け流してくれるので、私の罪悪感も薄れてしまう。余談だけど、私には桃哉くんたちと同い年の弟がいる。私に初めての彼氏が出来たちょうどその頃、思春期真っ只中だった弟をよくからかっては遊んでいた。桃哉くんとのじゃれあいは弟のそれを思い出して、とても和むんだ。

「そうだよ、桃哉。付き合っちゃえよ」
 陽生くんにまでも茶化されて困った顔をする桃哉くんだったけど、私の方を向くとはにかんだような笑顔を見せた。
 その素敵すぎる魅力的な笑顔に、思わず心臓がひとつ跳ねて、つい見とれてしまいそうになる。
 破壊力抜群の笑顔に緊張した私は、このまま固まってしまっては場の雰囲気を壊しかねないと、思わず持っていた毛布を頭から被った。
 これは、どうしたことだろう。桃哉くんの笑顔なんて、とっくの昔に見慣れている。今さら動揺するなんて、私、本当に枯れてしまっているんだろうか。
 それでもこのまま年下男子にときめかされたままでは先輩としての威厳が廃る。ミノムシになった私は、わざと彼の方へと身体を寄せた。
 直接寄り添うのは流石にやりすぎだろうけど、きっと桃哉くんはこれだけでも更に顔を赤らめるはずだ。
「愛してるよ、桃哉くん」
 毛布一枚隔てた先に居る彼に、わざと愛を囁く。返ってくる反応を想像してひとりでほくそ笑んでいると、ふいに肩へと手が回された。

「――知ってますよ」

 ……はて、知ってますとは?

 思っていたのと違う状況に困惑していると、耳元に低く、甘い声が響いた。

 それは、弟のように可愛らしい男の子の腕じゃない。

「じゃあ、付き合いましょうか?」

 次いで囁かれる言葉にも、何も返せない。

 いくら反応が可愛いからといって、彼は子供じゃない。
 これまでにもいくつかの恋愛をして、辛い別れも乗り越えたひとりの大人で、もしかしたら、高校生の恋愛を実らせて十年を過ごしてきた自分なんかよりも、ずっと経験値も高いのかもしれない。
 冗談にも余裕で返せる大人な対応。照れて赤くなるのだって、くだらない先輩の戯れ事に付き合ってくれているだけ、なのかもしれない。

 唐突に、気づいてしまった。

 彼は可愛い後輩で、年の離れた弟のようで、大切にするべき存在。
 だけど、本当は違う。
 ここにいるのは、間違いなく『男の人』なんだ――。

 もしここに手を出したら、どうなる?

 彼は、ダメだ。
 甘いけれど、口にしたら最後。
 この先に踏み込んだら、私はまた、何かを失う気がする。
 一緒に居たら楽しくて、居心地が良くて、落ち着く。そんな相手を選ぶのは、十年前と同じ。

 頭から毛布に包まれていることを幸いとすべきだろう。
 視界が遮られた空間には、自分の心臓の音がひどく耳に残る。
 それは、十年ぶりに動き出した、私の鼓動。
 直前に見た彼の笑顔が、瞼に焼き付いて離れない。

 毛布越しに感じる硬い胸板に、どうか伝わってしまいませんように。

 相変わらず私の肩を抱いている桃哉くんに、私はどうすることもできずにいた。
 今さらながら、調子こいていた自分の行動が恥ずかしい。そもそも、私の恋愛は十年前から止まっている。どんなに年を重ねても、高校生の恋愛しかしたことがないのだ。
 こんな時どうすればいいかなんて、私のスペックでは答えが見つかるはずもない。

 どうする、どうする、どうする――。

 焦る気持ちと煩いくらいに落ち着かない胸の鼓動で、次第に目の前が霞んでいく。息苦しさと激しい動機が相まって、しこたま飲んだアルコールが急激に回り始めたようだ。

 自分が酔っぱらいだったことを、これほど感謝する時はない。

「――ぐう。」

 ……とりあえず、寝た。
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