クロの黒歴史

小笠原慎二

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約束

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ひとりの老婆がベッドに横になっていた。その脇には黒猫が丸くなっている。
扉がノックされ、男性が入ってきた。

「母さん。具合はどう?」
「闇使? ああ、今日はだいぶいいよ」

老婆が手探りでスイッチを入れる。ベッドが動き出し、上半身が持ち上がる。それを見越したかのように黒猫も動き、足元で丸くなった。

「桃が手に入ったんだ。母さん好きだろ?」
「あらあら。蒼也達は食べたのかい?」
「とっくに。取り分けとかないとみんな食べられそうだった」
「あら、いいのに。皆で食べちゃいなさいな」
「いいから。一口くらい食べてよね」
「はいはい。いただきますよ」

力の入らない手で桃に刺さった楊枝をつまむ。恐々それを口に運び、咀嚼する。

「うん。甘いね。いい桃だ」
「美味いだろ。みんなで取り合いしてたからな」

闇使と呼ばれた男性が笑う。
一切れだけなんとか食べ終え、老婆はもういいと首を振った。

「またなんか手に入ったら持ってくるよ」
「あたしはいいから。皆を優先させてね」
「分かってるって」

男性が部屋から出て行った。扉の隙間から少しにぎやかな声が聞こえたが、扉が閉まると静かになった。

「あたしにはもったいない。いい子に育ってくれたわ」

老婆が独り言を呟いて、またベッドを横に戻した。
黒猫が動いて、老婆の頭の近くで丸くなる。

「クロ…。あなたはいつも、側にいてくれるのね…」

老婆がそっとクロと呼んだ黒猫を撫でる。黒猫がゴロゴロと喉を鳴らす。

「あなたで我が家のクロは四代目。何故かいつも黒猫なのよね」

老婆、妙子が遠い目をする。

「最初の子は、近所の野良ちゃんだったのよね。ある日現れたと思ったら、堂々と家に入ってくるようになって。でもその子はその時だいぶ年だったのか、数年で逝っちゃったのよね。子供ながらに悲しかった…」

妙子に撫でられながら、クロはゴロゴロと喉を鳴らし続けている。

「次の子は子猫の時に拾って、あの頃が一番ひどい時期だったわね…。家族を皆失って。クロがいなかったら生きてはいけなかった」

クロは気持ちよさそうに喉を鳴らし続けている。

「そのクロが年を取って死んだ後、三代目がふらりとやってきて、我が物顔で住み始めたのよね。まるでクロがそのまま帰ってきたみたいだった」

クロは喉を鳴らし続けている。

「三代目も病気で死んで、その後あなたを道端で見つけて。本当に、あたしは黒猫とご縁があるのね」

クロが薄目を開けて妙子を見つめた。喉は鳴らし続けている。

「あたしはもう長くない。クロ、あたしが死んだら、子供達をお願いね」

クロがゴロゴロ言うのをやめた。

「ひとつだけ、気になっていることがあるの。独り言だけど、聞いてくれる?」

クロが聞くよ、とでも言いたげに、金の瞳を妙子に向けた。

「あたしね、ここに入ってから、蘭子さんや美鈴さんがどうなったのか調べたことがあるの」

妙子も金の瞳を見つめた。

「そうしたら、おかしなことが分かったわ。あたしが住んでいたあの場所だけ、他の場所よりも魔物の出現率が低かった。だけど、あたしがいなくなった頃から、その出現率が他と変わらないくらいになったの。どうしてかしらね?」

クロが目を細めた。

「誰かが魔物を退治していたとしか思えない。でもそんな人は防衛隊にしかいないはずだわ。でも、あたしには心当たりがあった。あたしの家にいる、不思議な黒猫」

クロが顔をそむけた。

「闇使を産むために不思議な場所に案内してくれて、まるで人の言葉が分かっているかのようにふるまったり、普通の猫とは思えないほどに賢い子。この子だったら魔物を退治していても不思議じゃない気がしたの」

クロが目を瞑った。
それを見て、妙子が天井を仰ぐ。

「もしかしたらの話だけどね。そう考えたらいろいろ辻褄があったの。何故あの時闇使さんが現れたのか。何故突然消えて、その後姿を現してくれなくなったのか」

またクロを見る。
クロは目を瞑っている。

「クロが秘密裏に魔物を退治してくれていた。あの時闇使さんの姿になったのは、猫の姿であたしの前で魔物を退治することができなかったら。その苦肉の策だったんでしょうね。記憶を失くさなければそのままさっさと消えていたはず。でも闇使さんは魔物に殴られたショックで記憶を失くしてしまった」

クロは目を瞑ったままだ。

「自分を人間だと思い込んで、そのままあたしの側にいることになった。本当は関係を望んではいなかったけど、あたしがあんな癇癪を起してしまったから、仕方なく関係を持ってしまった。そして、記憶が戻った」

クロは身じろぎもしない。

「本当は猫だなんて、言えないわよね。だから姿を消した。二度と姿を見せなかったのはあたしを気にかけてくれたからよね? その後子供ができたのも、かなり驚いたんでしょうね」

クロは目を瞑ったままだ。

「あたしもまさかとは思ったけど、そう考えるといろいろ辻褄が合うのよね。あの家に案内されたことも、闇使を無事に産ませるため。あたしが産みたいって言ったからでしょう? おこんさんとおぬきさんも、人間じゃないわよね? というか、あそこにいた人間は、あたしだけなんでしょうね」

クロは何も言わない。

「その後もいろいろあったけど、何かある時は必ずあなたがいてくれた。あたしやっと気づいたの。あなたはずっと約束を守ってくれていた。あたしの側にずっといてくれると、あたしを守ってくれると約束してくれたこと、あなたはずっと守ってくれていた」

妙子がクロの頭を撫でる。
クロが目を開けた。

「闇使さん。あなたなんでしょう?」

妙子がクロの金の瞳を見つめる。
クロも妙子の瞳を見つめ返した。
ほんの束の間の間お互いを見つめ合っていたが、不意にクロが視線を外し、ベッドから降りた。
そして、人型、闇使の姿になったクロが立ち上がった。ベッドに腰を下ろす。

「妙子。主も心を隠すのが上手くなったの」
「知らなかったの? 女は生まれながらの女優なのよ」

妙子がクスクス笑い、闇使に手を伸ばす。闇使がその手を握った。

「変わらないのね。あたしだけおばあちゃんになっちゃったわ」
「我が輩のこれは仮の姿だからの。何年経とうが変わらぬ」
「そうなのね。それもちょっと寂しいわ」

妙子が目を細める。

「ひとつだけ、聞きたかったことがあるの」
「なんだの?」
「ヤエコって誰?」

クロが目を細めた。

「お主の、ずっと昔の名だの」
「あたしの、名前?」
「妙子として生まれるもっと前に、お主は八重子という名で生きていた。我が輩はその頃にお主と出会い、助けられた。それからずっとお主を追って来ているのだの」
「まあ、壮大なストーカーだったのね」
「うむ…。そう言われるとなんだか語弊があるような…」

妙子がクスクスと笑う。

「そう。あたしとあなたはもっとずっと昔に出会ってたのね…」
「うむ。我が輩がお主に会いたかっただけなのだの。幾度転生しようとも、ずっと追いかけてきた」
「甘えん坊さんなのはずっと変わらないのね」

妙子がクロの頬を撫でた。クロが心地よさそうに目を瞑る。

「また私が死んだら、追いかけてくるの?」
「もちろん。どこへ行こうとも」
「そう。死んだ後の楽しみができるなんて、あたしは果報者なのかしら」

妙子の手を握るクロの手に、少し力が入る。

「お主が望むなら、こことは違う空間に行って、永遠に生き続けることも、できるのだの…」
「…代償があるんでしょう?」
「…そこへ行ったら、そこから出ることは叶わなくなる故、人の世に戻ることはできなくなる。それに、人の輪廻の輪に、二度と戻れなくなる」
「あなたなら、無理やり連れて行くこともできるわよね。あたしの気持ちを考えてくれたのね。ありがとう」
「…輪廻の輪に乗れなくなれば、後は無に還るだけだの…。そんなことは…させたくないのだの…」
「そう。そうね、それは悲しいわね…」

クロが縋るような目で妙子を見つめる。

「そんなに悲しそうな顔をしないで」

妙子がクロの頬にそっと触れる。

「また会えるのでしょう? それに、待っている間、もう独りじゃないわよね」

クロが目を見開く。

「あの子達を守ってあげてね。あたしとあなたの血を引く、可愛い子供達」

クロが頷く。

「守るのだの。妙子と我が輩の子だの。この身に変えてでも守るのだの」
「無理はしないで頂戴。あたしとまた会うのでしょう?」
「う、うむ…」

妙子がまたクスクス笑う。

「クロ。最期にお願いしていいかしら?」
「なんだの?」
「あなたの手で、終わらせてもらえる?」

クロが目を見開く。

「もう長くないことはあなたも分かっているでしょう? この先、薬で痛みを緩和するくらいしか、もう方法はない。苦しみ続けるくらいなら、静かに逝きたいの。分かってもらえるかしら?」

クロが、ゆっくりと、頷いた。

「あなたならきっと、苦しまずに終わらせることができるんじゃないかって、何故かそう思えるの。だから、お願いしてもいいかしら?」

妙子の手を握るクロの手に力が入る。微かに震えている。

「我が輩なら、確実に、できる…」

妙子がもう片方の手を伸ばす。そしてクロの顔を両手で包んだ。

「辛いことをさせてしまってごめんなさい。でも、あなただから、頼むのよ」

妙子の真っ直ぐな瞳に見つめられ、クロの瞳から一筋の涙が零れた。

「妙子。また、何度生まれ変わっても、お主を探し出す…」
「ええ。待ってるわ」

クロが優しく妙子を抱きしめる。妙子もクロを抱きしめ返した。
体を離し、クロが妙子の手を握る。

「最期に、言い残すことはあるかの?」
「そうね…。全部言ってしまったし、聞きたいことも聞いたし…。ああ、あの子達によろしくと伝えておいて。おばあは苦しまずに逝ったからねって」
「分かった。伝えておくだの…」

妙子が目を閉じ、息を吐きだした。
クロが目を瞑った。

そして妙子は、妙子の人生を終えた。
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