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16 マンションのお隣さん
―――パンッ!
マンションのエレベーターから降りると同時に乾いた音がした。
「自分からは別れないって言ったじゃない!」
「そう確かに言った。でも気が変わった」
「……ひどい!」
美人な女の人が泣きながら、横を通り過ぎて行った。
梶井さんの頬が赤くなり、痕が残っていた。
まるで映画かドラマ。
こんな現場を目撃してしまうとは気まずいことこの上ない。
本屋に寄らず、さっさとスーパーに行き、夕飯の買い物を済ませるべきだったと今になって後悔した。
「あ、あの、こんばんは」
無視できずに挨拶だけでもと思いながら、挨拶をすると梶井さんが笑った。
笑うと高校生の頃の梶井さんの雰囲気が残っていて、知らない人みたいに見えていた顔がちゃんと私が知っている人に見えてホッとした。
「こんばんは。奏花ちゃん。あー、今の見られたくなかったな」
「は、はあ。すみません。タイミング悪くて。大丈夫ですか?」
「なれているから気にしなくていいよ」
なれてるって、女の人から殴られるのが?
それだけモテるってこと?
これだから、イケメンは……
へぇー、そうですかと思いながらカードキーを取り出すと隣の部屋のドアが半分開いているのが目に入った。
まさかお隣さん!?
「奏花ちゃん。深月やめて俺と付き合わない?」
「いえ、けっこうです」
断ったけど、実際のところ逢生とも付き合っているわけじゃないのよね……
でも、今はそういうことにしておこうと思った。
大人の危険な香りとはこのことよね。
「はっきり言うなぁ」
言いますとも。
女の人に殴られるのを見て『うわぁ、付き合いたい!』ってなるわけないでしょ。
しかも、簡単に『付き合わない?』なんて誘えるあたり、もう梶井さんがモテるのは確定。
遊びなれているに違いない。
私は遊びで付き合えるような女じゃないんだからねっとにらみつけた。
「全員と別れたから、今なら俺を独占できるよって言っても?」
「何人いたんですか」
「さあね。付き合いたいっていう女性と片っ端から付き合ってあげてるから。何人だろ?まあ、今ので最後なのは間違いないかな」
「もっと誠実に人と付き合いましょうよ」
「付き合っているんだけどな。いわば、ボランティア。彼女達の虚栄心を満たしてあげている。俺と付き合えて嬉しいって言うくせに最後はたいてい私一人にしてって言われる」
「当たり前ですよ。梶井さんが好きになった人に付き合っている人が何人もいたら嫌じゃないですか?」
「俺はいいけどね。相手に何人男がいようと気にならないな」
「それって本当に好きじゃないから言えるんですよ」
「かもね」
ははっと笑った梶井さんはなんでもないことのように笑った。
なれていると言ったのは嘘じゃないらしい。
夕飯の買い物をしてきた袋の中から冷たいサイダーのペットボトルを取り出した。
「梶井さん。これ、頬にあてて冷やしてください」
「奏花ちゃんは優しいなぁ。小学生のころも素直で可愛い子だったけど」
サイダーのペットボトルを受け取るのかと思ったら、差し出したペットボトルに自分の頬をあてた。
「今も可愛い」
その言葉は足を地面につなぎとめる呪文のようだった。
梶井さんは上目遣いで私を見る。
その目の色は黒。
深い闇色。
ずっと見ているとその闇の中にずるずると引きずり込まれてしまうような目をしていた。
でも、私はこの目を知っている。
梶井さんは私の知っている誰かに似ている。
「顔が赤いけど。もしかして深月以外の男に免疫ない?」
「……ま、まあ。逢生は男というよりは弟というか」
「へぇ」
「あの?」
サイダーを持っていた腕をつかむと体を抱き寄せた。
ゴトッとサイダーのペットボトルが手から落ちて重い音をたてた。
「こんな可愛いのにもったいないな」
なにが起きたかわからず、思考停止すること数秒間。
シャツからはシャネルのエゴイストプラチナムの香りにまじって煙草の匂いがした。
逢生とは全然違う―――大人の男の人。
気を抜くと流されてしまいそうで怖い。
耳にかかる息がぞわりとして肌が粟立った。
「……っ!離してください!」
「もう少しこのまま」
飄々とした態度からは想像つかないくらいの悲しい声だった。
顔は見えないから、どんな顔をしているのかわからなかったけど、子供がぬいぐるみを抱えるみたいにして抱き締めていた。
まるで不安を消すかのように。
「俺の母親は何人も男がいたけど、俺は好きだったよ。だから、奏花ちゃんに深月がいても構わない。どう?」
「お、お母さん、モテるんですね」
「もう死んでいないけどね。生きていた頃は恋人がたくさんいたよ」
「ご、ごめんなさい」
「謝らなくても。奏花ちゃんが俺を救ってくれたのに」
私が梶井さんを救った?
驚き、梶井さんを見上げるとさっきまでの表情とは違う。
初めて会った時の梶井さんと同じ顔をしていた。
辛そうな顔―――
「奏花ちゃんと初めて出会った日、俺はあれを最後の演奏にしようと思って弾いていた。邪魔が入って、最後まで弾けなかったけどね」
梶井さんの孤独が伝わり、抱きしめられているというよりは安心させるためにそのままでいた。
この孤独を私は知っている。
逢生だ―――梶井さんは逢生に似ている。
「あの頃、俺のチェロをかっこいいと言ってくれたのは母親と奏花ちゃんだけだった。母親の喜ぶ姿を見ていたくて、チェロを弾いていたんだ」
あれはレクイエムだったんだ。
きっと梶井さんのお母さんが好きだった曲。
あの演奏にそんな意味があったとは知らなかった。
「奏花ちゃんが俺をチェリストにしたんだよ」
くしゃと髪を乱されて腕の中でもがいた。
これ以上は危険―――底なし沼みたいに梶井さんに引き込まれてしまう。
「私だけじゃないです!あ、逢生もいましたよ!そ、そのー……私は何人もの人と付き合える器用なタイプじゃないんです」
ははっと梶井さんが笑った。
「深月か。あいつ、本当に邪魔な奴だな」
「邪魔なんかじゃないですよ。ちょっと迷惑な時はありますけど、逢生は逢生なりにいいとこあるんです」
「妬けるなぁ。それは深月を選ぶってことかな?」
もしかして、私と逢生が付き合っていないことを知っている?
逢生から聞いたのだろうか。
「わからないです。でも、私は一人の人しか無理です」
すっと体を離して落ちたサイダーのペットボトルを梶井さんに渡した。
「初めてフラれたなー」
「すごいこといいますね」
サイダーを受け取った梶井さんはちゃぷちゃぷとペットボトルの口をつまんで揺らした。
まるで子供が遊んでいるかのように―――
「じゃあ、俺を奏花ちゃんの彼氏候補の一人にしてくれない?」
「私の彼氏候補?」
なにい言ってるの。
こんなモテるのに!?
くすりと梶井さんは笑う。
「そういうわけで、これからよろしく。奏花ちゃん」
梶井さんは顔を近づけると、すっと頬にキスをし、ふっと耳に息をかけた。
ぞわりとした感触がはしり、鳥肌が立って身構えた。
「ひえっ!!」
私の反応がおかしかったらしく、口に手をあてて笑っていた。
な、なんなのよー!
「もっ、もう近寄らないでください!」
「奏花ちゃん。顔が真っ赤だ」
ぶるぶると震える手でカードキーを差し込んでドアを開けた。
こんなの涙目もいいところ。
逢生以外の男の人に頬とはいえ、キスされるなんて動揺しないほうがおかしい。
「サイダー、ありがとう。お隣だし、いつでも遊びにきて。深月より楽しませてあげるよ」
「ぜっっったいに行きません!」
梶井さんは笑いながら手を振った。
からかわれているのはわかっている。
わかってるけど―――あの孤独だけは本物だった。
ドアを閉めてもまだ梶井さんの香りがするような気がして、しばらく動けずにいた。
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