記憶の宮殿

夕画中

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家と日記

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 夢から覚める。
 どうにも寝付けず起きてしまった。
 昨日、大学の友人とどれだけ飲めるかの大騒ぎだったからだ。
 大学には高校を卒業し、浪人することなく入ることが出来た。友人にも恵まれ、退屈でない毎日を送っている。
 友人と酒の飲み比べをしたのはちょうど自分が二十歳を迎え、友人みなで酒を飲めるようになったからだ。しかし飲める限界を見誤り、飲みすぎてしまった。
 体を起こすと驚くことに自分の家の寝室であった。
 自分の家なのだから驚くことはないだろうと思うだろうが、彼にとっては驚きであった。何故なら彼の目の前に広がる光景は二度と見るはずのないものだから。
 彼の家は既に取り壊されている。老朽化が原因で今後住み続ければ近いうちに倒壊するといわれたのだ。ちょうど彼が大学に上がる時期であったため、家族も愛着があったが手放すことにした。
 彼はそんな光景を目の当たりにし、少々の戸惑いと喜びを感じた。
 彼にとってこの家は自分の人生を共に歩んだ記憶のようなものだった。
 子供のころ、家の柱に付けた身長を測った跡、皆が上り下りを繰り返して出来た階段の歪み。いまだ夢を見ているのかと思ったがそれでも懐かしい思い出に浸れるのは嬉しかった。
家の中を見ていると本棚の上に何やら黒い箱のようなものを見つけた。彼はそれに心当たりがなく、見てみようと右手を伸ばした。ギリギリ手の届く範囲にあり、何とか取ることが出来た。
 それは指輪ケースであった。ケースにほこりなどはなく、本棚につい最近置かれたように感じられた。
指輪ケースを見ていると自身の左手に光輝くものがあることに気づいた。それも薬指だ。
彼はアクセサリーを身に着けることはあまり無い。ましてや結婚はしていないし恋人もいないため、指輪など付けることすらない。しかし指輪ケースを見た後だからか、指輪でも光ったかなと半ば本気でそう思っていた。
 左手を見るとそこには小さなダイヤの指輪があった。
 これを見た途端、頭の中である女性の顔が駆け巡った。というよりぼんやりと浮かんできた。会った覚えは無いその顔は安心感を彼に与えた。まるで長い時間一緒だったかのような。
 彼は不思議に思いながらも、そのことに驚くことはなかった。
 彼は指輪ケースを持ったまま、家の探索を続けた。
 探索の中、彼にはずっと考えていることがあった。
 この家は本当に自分の家だろうかと。
自分の知る家と瓜二つであるが、知らない小物、指輪、果ては女性まで出てくる始末。自分の知る家は不可思議とは無縁の場所のはずだ。
 家をほとんど見終え、最後に玄関に向かった。すると靴置きの上に一冊の日記が置いてあった。
 彼はこれも初めて見るなと思い、手に取った。表紙を眺めていると小さく自分の名前が書かれていた。
 これには彼も驚きを隠せない。自分は日記など書いた覚えがないからだ。
 日記の内容が気になり、急いで日記を開く。
 最初のページは自分の生まれた日から始まっていた。病院での親の会話、看護師、病院から見える風景、その日にあった出来事が書かれていた。
 驚きつつも更にページをめくる。
 家族で行った旅行、親との喧嘩、初めての一人暮らし、今までの人生の記録がそこにあった。
 途中、酒を飲みすぎた日があった。二十歳になって初めてみんなと飲んだ日だ。
 彼は途端ページをめくる手を止めた。
 何故なら続きがあったから。自分は昨日みんなと飲んだ記憶があるのに更に先の記録があったから。
 呼吸が荒く、日記を持つ手が震える。開くだけ、ただめくるだけ。それだけなのにその一歩が踏み出せない。勇気が出ない。開いてしまったら今の自分はどうなるのかと不安になる。
 そんなとき、神のお告げと言おうか、小さな声で「大丈夫、怖くないよ」と聞こえた。聞こえた気がした。優しく、包み込むような声だった。
彼は深呼吸をし、ページをめくった。
そこには未来の自分がいた。明日や明後日なんかじゃなく、何十年もの未来の自分がいた。
 ページを開いた手は動きを止めず、一年、また一年と時を進める。日記に書かれた時の記しを目で追う。
 そうすると彼の記憶に新たな記憶が書き込まれていく。白紙の未来に、いや白紙になってしまった未来に再び自分が刻まれていく。
 彼は記憶喪失なのだ。ゆえに見たことのないものが見え、知らない人を知ることが出来た。本当は全部知っていたし、見ていた。ただ忘れただけ。
 彼の家は記憶の宮殿だ。大学に行くまでの人生で、もっとも長く濃密だった時を歩んだ場所だった。
 日記には結婚式が書かれていた。もちろん自分の結婚式だ。和式が良かったが、洋式になったらしい。
 日記は80歳の誕生日で終わりを告げた。どうやら誕生日の日に倒れ、記憶喪失になったらしい。
 日記を読み終えると彼、もとい老人は家族に会いたくなった。自分の息子、娘、孫。そして何より長らく付き添った妻に。すると玄関扉の向こうから声が聞こえてきた。
 初めは小さかった声は時間が経つごとにはっきり聞こえてくる。ページをめくるか悩んだあの時に聞こえてきた声に似た優しい声。その声が「大丈夫」と言っている。
 老人は扉をゆっくりと開けた。隙間から光が差し込む。扉を開けきった時、老人はまばゆい光に包まれ、姿を消した。過去の思い出の詰まった宮殿から。
 目を覚ます。
 光から抜けた先はまたもや自分の家であった。だが二度と見られない光景ではなく、いつも見ている光景、いつも見られるがゆえに見られない以上に大切な光景だった。
 老人は自身の左手を見た。そこには指輪が小さく輝いている。
 老人は右手を見た。そこには老人の手を握り続け、「大丈夫」と声を掛ける一人の妻がいた。
 妻に向かって考える間もなく、老人は言った。
 「ただいま、婆さん」
 いつものように老婆は言った
 「おかえり、爺さん」
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