欠陥研究者は愛を解明したい

天霧 ロウ

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恋人は名前を呼ぶもの

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 デートの翌日、いつも通り中央管理局の自室にて水っぽいコーヒーを片手に、地下へ隔離されている魔人たちに行われた実験結果の報告書を目に通す。
 しかし頭の中は報告書よりも昨日のデートのことが大半を占めていた。
 デートの結果は、はじめてにしては及第点だった。デートしたその日の晩、初日に受け取らなかった端末を貸してほしいと頭を下げてきた。理由はきかなかったが、メルギスクからなにかを求めてきたのはいい傾向だ。
 恋人がする狭い空間での密着やデート中の手つなぎに一緒の食事と会話。どれも家でできることだ。それでも、外でのデート――特別な時間と空間の意義を理解できた。

「そういえば、彼には二人の弟がいたな」

 メルギスクが二人の弟に甘いことは監視カメラの映像から容易にわかる。
 最初彼らも含めた同居を頼まれた時は拒否したが、うまく取り入ればメルギスクの警戒心もさらに薄れるだろう。だが、理由もなしに迎え入れれば、むしろ悪化する。
 次に恋人らしいことを考えながら冷たく風味のないコーヒーを一口飲む。目を通し終えた報告書にサインし、部下につながっている転送端末へ放り込んだ。



 ひととおり業務を終えて帰宅する頃には、夏が近いのか重そうな雲があちこちに重なっているものの空は青くまだ明るい。
 エレベーターに乗って上昇していく数字を眺めていると最上階へついた。
 いつもどおり靴を脱いでそのままリビングへ行こうとしたが、玄関にメルギスクがいた。
 恋人となってから一度もなかったメルギスクの恋人らしい行動に、柄になくちょっと間思考が止まるものの、とりあえず微笑んだ。

「きみが玄関にいるなんて珍しいね。荷物でも届くのかい?」

 それであれば、納得もいく。
 かすかに眉を寄せて口を開いては閉じるメルギスクを横目で見つつ、靴を脱いでそのまま通ろうとすると、メルギスクの手がぎゅっと拳を握りしめ絞り出すよう呟いた。

「おかえり、なさい」

 声となって届いた言葉に、ホルツは肩越しに振り返って淡い青緑の瞳をかすかに見開いてしばたく。
 メルギスクの耳やうなじが熟しかけのトマトのごとく柔らかな赤みを帯びていた。
 その光景は帰宅したホルツへ言葉をかけるためだけに玄関にいたという事実がジワジワと脳へと染みこんでくる。言うなれば、ホルツが帰ってきたことを歓迎した現れでもある。ホルツの住居だから帰ってくるのは当たり前のことだ。けれど、自分が帰宅したことを同居人が受け入れた。
 普通の家庭であれば、特段珍しいことではない。しかし、ホルツにとってはじめてのことだった。
 またもや柄にもなく胸がドクドクと鼓動を打ち、全身の血液が急速に巡る。顔がかすかに熱を持つのを覚えながらホルツはようやくメルギスクに言った。

「ただいま」

 はじめての返し言葉は覚え立ての言語を口にした時のような違和感だ。
 ホルツの返答にメルギスクが振り返って少しだけ目を見開いたが、数度瞬きをした後、思い出したように口を開いた。

「あの、今更ですが靴や服を買ってくださりありがとうございました」
「礼を言われることはしてないよ。必要だからしただけだからね」

 改まって礼を述べてくるメルギスクをおかしく思いながら返す。
 メルギスクはホルツの返答に少し黙った後、気を取り直すように続けた。

「えっと、せっかく広いキッチンがあるので夕飯作ってみたんです。口に合うといいんですけど」
「それは楽しみだ」

 早足でホルツの横を通り過ぎたメルギスクがリビングに入っていく。洗面台で手を洗った後、ホルツもリビングへと進んだ。
 リビングに入れば、マーガリンや卵の香ばしい残り香がかすかにした。はじめて自宅に香る料理の匂いは再びホルツを新鮮な気分にさせる。
 キッチンの傍にある四人がけのダイニングテーブルには、小皿に分けたサラダとオムライスが並んでいた。湯気を立てるふわふわとした鮮やかな黄色は綺麗な紡錘型だ。

「見事なオムライスだね、おいしそうだ。先に食べても?」
「どうぞ」

 イスに座り、おいてあったスプーンを手に取って一口分とる。そうすれば、中からオレンジ色のケチャップライスが湯気をたてながら顔を出した。口に運べば、マーガリンの香りがする卵とケチャップ以外にもマッシュルームやウインナーの味が伝わってくる。
 コトッと水が入ったガラスコップを目の前に置かれ、向かいのイスにメルギスクが腰をかけた。

「どうですか?」
「とてもおいしいよ」
「よかった……。あ、ケチャップいります?」

 メルギスクが自身のオムライスにケチャップをかけた後おもむろに尋ねてくる。
 なにもかけなくてもじゅうぶんおいしいが、せっかくなら何か書いてほしい。

「じゃあ、きみが書きたいものを書いて」
「え……」

 眉を寄せて困惑するメルギスクへとオムライスが乗った皿を向ける。
 メルギスクは少し考えた末、ぎこちないながらも自身の名を書いてホルツの方へ押し返した。

「俺は『きみ』じゃなくて、メルギスクって名前があります。長くて呼びづらいならメルでいいですから」
「なら今度からそう呼ばせてもらおうかな」

 オムライスの皿を手元に引き寄せてケチャップで書かれたメルギスクの名前と一緒に少しずつ口に運んでいく。
 お互い食事を終えると、メルギスクがカップと皿を洗い終えるなり「先にシャワー借ります」と一言告げて風呂場へ消えていった。
 シンと静かなリビングはいつも通りだ。いつもならホルツもさっさと部屋に戻るが、今日はリビングに残ってテレビをつけた。
 ドラマのチャンネルなのか、男女が向き合っており、告白するシーンなのだと察しがつく。お互いが思いをぶつけ合い一瞬の沈黙の末、男が女に思いの丈を半ば叫ぶように告げる。きっと盛り上がる場面なのだろう。ソファの背もたれにもたれて腕を組むと自然と言葉が漏れた。

「くだらないな」

 演出だとしても、それ以外の言葉が見当たらなかった。
 テレビを消し、ソファの背もたれへ頭を預けて目をつぶる。どのくらいそうしていたのか、ガチャッと浴室の扉が開く。スリッパの音が近づいてきて、目蓋の裏が少しだけ暗くなった。鼻先に届くシャンプーの匂いと水気をまとった空気が頬を撫でていく。

「あっ」

 小さな声が漏れると同時にポタッと頬へ水滴が垂れ落ちた。かすかな衣擦れとともにためらいがちに少しざらついた硬い指先がそおっと拭いとる。
 自分以外の感触にパチッと目を開けば、メルギスクがホルツの顔をのぞき込むように見ていた。
 まだ水分を含んでいるまだらの髪はメルギスクの首筋や額にまとわりついて、黒い寝間着の首回りをほんの少し濡らしていた。

「きちんと拭かないと寝る時、枕が濡れるよ」
「えっと、すみません……」

 カフェオレ色の目を伏せたメルギスクは上体をあげると首にかけていたタオルで乱暴に頭を拭く。そうすれば、寝間着の合間から薄く割れた腹筋が見えた。
 ソファから立ち上がってメルギスクの背後へ回れば、あらわになっている腰を両手で掴んだ。

「うわっ! な、なにするんですかっ?!」

 頭を拭く手を止めて肩越しに振り返ったメルギスクは肩をぎゅっと縮めた。
 手に伝わる感触は摂取した魔物の遺伝子の影響でかすかにざらついて硬いが、シャワーから上がったばかりなのか潤っていて温かい。
 肉体という境界線が体温を通じてわかりにくくなっていく奇妙な感覚に浸っていられたのもほんの数分だ。
 熱を孕んだメルギスクの手がやや乱暴にホルツの手を掴んできた。

「あの、そろそろ離してくださいっ」
「ふむ……」

 手に伝わる腰はホルツの手を掴んでいるメルギスクの手と同じぐらいの熱がじんわりと伝わってくる。再び引かれた明確な境界線にすっきりしない気持ちを覚えつつも、言われたとおりに手を離す。
 無自覚で強く掴んでいたのか、メルギスクの腰にはうっすらと手形が残ったものの、メルギスクが腕を下ろしたことで寝間着に隠れた。
 ホッと息をついたメルギスクが頭にかぶっていたタオルを首にかけ直して振り向いた。

「そういえば、明日何時に出社するんですか?」
「九時頃かな。どうしてだい?」

 今まで何時に家を出ていようとメルギスクは気にしていなかった。
 疑問を感じて首をかしげれば、メルギスクがぎゅっとタオルの端を握りしめてうつむいた。

「朝食をとらずに出社するのは体によくないと思うので、その」
「ああ、私に朝食を作るという話か」

 実に恋人らしい行動だ。
 合点して納得していると、メルギスクが目を見開き、カアッと赤くなっていく。ゆでだこみたいな面白さに顔をのぞき込めばきつく結ばれている唇が目につく。
 小さく震えている唇に好奇心をかき立てられ、唇を押し当てるついで舌先でなぞってみる。途端にメルギスクが後ろへ飛びのき、これでもかと目を見開いてわなわなと震えた。
 たいしてホルツは姿勢を正すとメルギスクに微笑んだ。

「はじめてキスした時よりも唇が熱かったね」
「――っ!」

 ぎゅっと唇を引き結んだメルギスクはホルツの横を早足に通り過ぎ、バタンッと大きな音を立てて自室に戻ってしまった。

「怒らせてしまったかな?」

 疑問を口にしつつも、悪いことをした気はない。
 それどころかまるでいい酒を口にした時のような浮遊感に近いものを感じた。足取りが軽いのを感じながらホルツは風呂場へ向かった。

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