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第一部
第10話 昔と今
しおりを挟む「……坊っちゃん?!」
「おい、賀茂? おい!」
坊っちゃんが眠りについてすぐ、坊っちゃんの纏う空気が変わる。
むわ、と漂うのは『今の彼』からは感じたことのない果実の甘い匂い。
バッ、と胸元から取り出した扇を坊っちゃんの身体の上で横一文字に切れば、漂っていた匂いがぴたりと止んだ。
「鵺殿、今の甘い匂いは…」
包帯の巻いていないほうの目を不安な色に染めた一つ目が、あたりを見回し恐る恐る問いかけてくる。
そこいらの弱小妖怪と比べれば、この一つ目も力のあるほうではあるものの、坊っちゃんや自分、白澤や大天狗どのに比べれば、一つ目は力の弱い部類に入る。
そして、坊っちゃんについたこの『匂い』は、我々と同じ、もしくは我々以上の強い力を持ったものが仕向けたものだ。
強きものは、弱きものをはっきりと見てとれるが、弱きものは強きものの気配はぼんやりとしたものでしか感じとれない。
言わば得体の知れぬ何か、として漠然と身体に迫ってくる。
そういったものに恐怖を感じるのは、人も妖怪も同じだ。
不安そうな表情の一つ目をそのまま放っておいても自分には特に支障はないが、あとでそのことが坊っちゃんに知れたら少し面倒くさい。
それに、ここには、我々以外にももう一人の生き物が存在している。
「匂いは、呪を籠めることもできますからね」
「坊っちゃん…!」
「心配いりませんよ」
慌てた声をあげた一つ目にそう告げれば、彼は大きく安堵の息を吐き胸をなでおろす。
その様子を坊っちゃんの真横で見ていた金色の瞳の青年が、自分を真っ直ぐに見ながら口を開く。
「……鵺、あんたは」
聞きたいことが山ほどある、という顔をしているが、こちらもまた同様だ。
だが、ここは、坊っちゃんの通う学校。遮蔽の術を使えるものはこの場にはいない。
それに、あの匂い。
忘れはしない。
千年という時を超えようと、忘れることなどない。
ざわり、と音を立てた心臓に、チッ、と小さく舌打ちをし、金色の瞳の青年を見やる。
「話があるのでしたら、我々の家まで来なさい。桂岐綾人」
「…フルネームで呼ぶな」
「家の説明は不要ですね?」
「…人の話を聞かないのところも変わらないのか。鵺」
「さて。なんのことやら」
くつくつ、と小さく嗤えば、金色の瞳の青年は心底嫌そうな表情を浮かべる。
「では、桂岐綾人。坊っちゃんは、体調が優れないので帰宅することにします。あとをよろしく。一つ目」
「はいでやんす!」
「坊っちゃんの鞄をお願いします」
「了解!」
ダッ、と走りだした一つ目を横目に見やり、未だ顔色の優れないままベッドで眠る坊っちゃんを抱き抱え、扇で宙を一撫でした。
「おお、戻ったか。鵺」
「ただいま戻りました。十二代目」
「苦労をかけるのう」
「いえ」
トス、と庭先に降り立てば、軒先で我々の帰りを待っていた坊っちゃんの祖父、十二代目が目尻に皺を寄せ、坊っちゃんの顔を見て困ったように笑う。
「それにしても、貴方なら式神など遣わずに視れるでしょうに」
ブスッと坊っちゃんのお腹のあたりに手を突っ込み、制服の下に忍んでいた一枚の人型の紙切れを取り出して十二代目へ向けて放れば、「最近は視野を拡げると疲れるんじゃよ」と悪びれる様子など微塵も見せずに式神を受け取った十二代目は笑う。
以前よりも力の強くなった坊っちゃんには劣るものの、歳を重ねてもなお未だ現役の陰陽師である十二代目の力もなかなかなものだ。
式神の一つや二つの使役で、この男が倒れるわけがない。
「貴方が言いますか?それ」
学校に飛んでいった自分についてはこなかったものの、代わり式神を飛ばした十二代目に呆れたように答えれば、「儂も歳かのう」と坊っちゃんの頭を優しく撫でながら彼は呟く。
「貴方にはまだ長生きしてもらわねば」
「おいおい、儂を扱き使うつもりか?」
「もはや人にも該当しないのでは?」
「相変わらず辛辣なやつやのう」
まったく、と溜め息をつきながら、ほんの少し治癒の呪を籠め、坊っちゃんを撫でる手は、昔よりも小さくもなったし、皺も増えた。
「鵺よ」
「…なんです?」
「人の一生は短いものだろう?」
ぼんやりと彼の手を眺めていた自分に、十二代目は寂しそうな表情を浮かべ笑う。
「……人とは、厄介なものです」
人間とはそういうものだ、と遥か昔、妖怪である自分に人の有り様を教えた彼の子孫の二人を見ながら、短く息を吐いた自分に、十二代目は柔らかな笑みで答えた。
「鵺さま!早く真備様を連れてきなさい!!と白澤さまが」
穏やかな時間が流れた、と思ったのも束の間で、確かな名を持たぬ小さきものたちが、母屋の一角で、眠る坊っちゃんを迎える支度をする白澤からの伝言を伝えに足元へと駆けてくる。
「あやつの心配性も相変わらずだのう」
自分に触れぬ位置でわらわらと集まりだす小さきものをひと掬いした十二代目が愉快そうに笑う。
「貴方からも少し言ってくれませんかね?最近あれは毎日ピリピリしていて、こちらが疲れるんですよね」
「ははは。例の日が近づいているんだ。無理もないさ」
「……まあ、そうっちゃあ、そうですけど」
ここ数日、白澤の坊っちゃんに対する過保護の度合いが急激に上昇していて、正直、少し面倒くさい。
流石に我々が坊っちゃんの学校に行くわけにもいかない、と説得した結果が、数名の妖怪を学校内に忍ばせる、ではあったものの、なにげにそれ、必要か?と思ってはいた。
結果的には、白澤の過保護さが正解ではあったのだが。
「でも面倒はめんどうなのですよね」
はぁ、と溜め息をつきながら言えば、十二代目が瞬きを繰り返したあと、くつくつと笑い声を零す。
「なんです? ヤブから棒に笑いだして」
「いや、なあ」
クック、と少し続く笑いを呑み込みながら口を開く十二代目は自分を見たあと坊っちゃんを見て目元を緩める。
「鵺!部屋にくるのにいつまでっ!おや?」
「五月蝿い男ですね。本当に」
ガラッ、と勢いよく開いた前方にある部屋から飛び出ながらこちらを見る白澤に溜め息まじりで答えれば、十二代目を見て少し驚いた顔をしたものの、私の言葉に白澤は「五月蝿いとはなんです!だいたいあなたが」とクドクドと文句を言いながら近づいてくる。
「あー、もー本当どうにかしてくれませんかね?」
ちらり、と隣を見ながら言えば、彼は愉快そうに笑うだけで、なにかをする気配は微塵もない。
「クックッ。どうにか、か。昔なら自分から抑え込んでいたお前がなあ。鵺も、丸くなったものだなあ」
自分と白澤を見て言った十二代目の言葉に、私はまたもう一度、はあ、と大きな溜め息をついた、
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