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偽りの謳姫

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 頭が憤怒に沸き立ち、どうにかなってしまいそうだ――混乱を極める民衆へ背を向けると同時に、メレーサは唇を噛みしめた。流れ落ちた前髪の奥で、紫水晶が昏い色を宿してぎらついている。
 あんなことが許されていいはずがなかった。自分の手の届かぬところで何か良からぬことが起きているのだ。
 都市の中心に建立された、異教の古代神殿へと舞い戻る。魔族は結界に覆われた敷地内に入ることが出来ない。神は魔物を隷属させ、魔物は民を害し、民は神から力を奪い去ることが出来る――天地創造の折に、天はそう定めた。

 広々とした庭園は急ごしらえの避難所として神官を含む人々が駆けずり回っている。怪我人も多いが、些事に過ぎない。

 護衛が開いた門扉をくぐり、案内役に導かれるまま身廊を進んで、講壇の裏手へ向かう。そこが最も神の庇護の厚い場所だ。老齢の神官長が呪文を唱えると、石積みの壁面がスライドして小ぢんまりとした石室が姿を現す。本来は祈祷部屋だったが、今はメレーサの居室として家具が整えられている。

 不安げな神官長らに激励の言葉を述べ、メレーサがその個室との境界を跨いだ途端、ぐにゃりと一瞬だけ視界が歪んだ。ありとあらゆる音が遠ざかる。何事かと見回せば、最上級の寝具をそなえた簡易ベッドに腰かける人影がある。

 目深にかぶられたフードから零れた深い緑色の頭髪に、メレーサは視線を険しくした。

「人の世に干渉するだなんて、禁忌ではなかったのですか?」
「……へえ。なるほど、驚いたな……君、やはりただの人間じゃないわけだ」

 据わったままこちらを見上げた彼の視線が、軽く瞠られているのがわかる。

「だったとしてもおかしい。君のような人間が、どうやってアレを地上に引きずり出したんだ?」
「アレ……? 何のことか……わたくしにはさっぱり……」

 メレーサは腕を組み、こてん、と小首を傾げてみせた。まだ、追い詰められたわけではない。この男は自分には手を出せないのだから。

「全て貴方様の思い違いで、何か誤解なさっておいででは? 私は無関係です」
「どの件のことを指して言っている?」
「もちろん、あの魔獣の襲撃です」
「そうか。……まだすべてが繋がっているわけではないけれど、おれは無知というわけでもないんだよ、謳姫」
「あら、それはわたくしも同じです」

 にっこり微笑みかけると同時に、彼――ハシュアが一点を凝視したまま立ち上がった。

「……くそ、まずい!」

 間に合ってくれ、と何者かを小さく呼ばうとともに、ハシュアの身体が溶けて消えた。空間移動の呪文を行使したのだろう。メレーサはひとつ嘆息して、闖入者の消えたベッドへどさりと身を投げ出した。
呼んだのはマリー、だったかジスラン、だったか。どちらでもいい、よその女などどうなろうが知ったことではないし、ジスランは死なない。死ぬわけがない。

 神と人に追従し、軍勢を相手にたった一人で魔族を地の果てへと追いやったあの英雄が――否。
 同族殺しが、易々と打倒されていいはずがないのだから。

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