石長比売の鏡

花野屋いろは

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 樹里は、ホッと短くため息をつくと、スマホのアドレス帳を呼び出した。そして、アドレス帳から、孝彦のデータをためらいなく削除した。樹里はスマホの設定で、アドレス帳にないメール、着信は拒否するように設定している。
 それだけではなく、SNSの登録から孝彦の登録を削除した。もちろん、こちらも登録のないアカウントからのメッセージ、アクセスは拒否するようにしている。

ーーわかっていたことだ。こうなることは、覚悟していたはずだ。

 孝彦が、誰かを忘れるために自分と付き合い始めたということはわかっていたことだ。それでも、いいと思ったのだ。樹里は、孝彦が好きだったから。しかし、交際が進むにつれて、孝彦が自分への興味を失っていくのを認めるのは辛かった。それに、わかっていて何の手も打たなかったのも事実だ。

 何より行動を起こして嫌われるのがいやだった。孝彦は、前カノを忘れられなかった。そして、彼女こそ理想の女だった。正確には、”釣り逃した魚は大きい”効果で別れたことにより、理想の彼女になってしまったのだ。樹里は、ずっと前カノと比較されてきた。孝彦は、そんなつもりはなかったのだろうが、無意識というのはたちが悪い。
 はじめのうち樹里は、なんとか孝彦の気に入るように振る舞おうと努力はしてみた。でも、孝彦は、自分の意に添わない選択を樹里がした場合、「前カノだったらこんなことはしない」と考えるのだ。つまり、樹里は、勝てない相手に延々と勝負を挑まされているのだ。

 だから、できることといえば、何も気がつかないふりをすることだけだった。孝彦が、前カノと樹里を比べていつも苛ついていることも、そっけない態度を取る樹里を可愛げがないと思っていることも気がつかないふりをした。そんな樹里を孝彦は、鈍感な女と決めつけますます苛立った。とんだ悪循環だ。

 もっと悪いことに苛立つ孝彦に、樹里はビクビクするようになっていた。他愛のない会話を交わしていても、行き着く先は、否定と拒否。いつ地雷を踏んでしまうかわからない状態。樹里は、どちらかといえば話し下手であり、デートの時は黙って寄り添っているだけでもうれしいタイプなので、『下手なこといって苛つかせるぐらいなら』と会話をしないようにしていた。
 そのせため、とうとう前回のデートの時、「なんか、俺といても楽しくなさそうだな。つまらないんじゃない?」
と言われてしまった。
 流石にこの時は、もう次のデートは無いと思い覚悟を決めた。しかし、木曜日の夜遅く、孝彦からいつもどおりのデートのお誘いメールが来た。機嫌が直ったのかと一瞬ほっとしたがすぐにこれは、直接の別れ話になるかと思い直し心が塞いだ。
 それならそれで、ちゃんと話をして、終わりにしようと思った。でも、よりにもよってこんな振られ方をするとは思わなかった。
--人を呼び出して、待ちぼうけ食らわしたあげくに電話で、別れ話って…どういうことよ。
怒りのもって行き場がないが、このままここにいるのは、来ない孝彦を待つことになる。そんな馬鹿馬鹿しいことはごめんだ。
 せっかくの週末、自分のために使おうと樹里は待ち合わせ場所を後にした。
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