石長比売の鏡

花野屋いろは

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18.

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 樹里は、引越業者の責任者と作業前の簡単な打ち合わせを行い、
この後の段取りを確認した。総務部のフロアに一旦戻ることにした。その時、
「僕は、このフロアにいない方がいいかな?」
といきなり、一条の声が頭上から降ってきた。
 吃驚して見上げると背後にいつの間にか一条が立っていた。
「じっ次長の席は、ここからは離れていますから大丈夫ですが、
かなり五月蠅くなりますし、埃が舞いますけど…。」
「そう、先ほど山下さんから連絡が来て、こちらに戻るのが
19時過ぎになるみたいなんだ。彼、
契約書を持ってくるから、受け取る必要があるんで、
業者さんの邪魔にならないなら
このまま、ここで仕事続けさせてもらっていいかな?」
「はい、大丈夫です。今、エレベーターの3号、4号が搬出用になって
いますので、山下課長が戻られたらエレベーターは、
1号、2号を使用していただくように連絡を入れていただけますか?」
「わかった、連絡するよ。ありがとう。」
それだけいうと、一条は席に戻っていった。
 その後ろ姿を見送り、樹里は、総務部のフロアに戻った。

「長濱さん、どうしたんですか?」
フロアにもどり自席に着いた途端、樹里は田中から声を掛けられた。
「えっ? 私、何か変?」
「顔、赤いですよ。具合悪いですか?」
「えっ?顔…? 赤い…の?」
言われてみれば、頬が熱い、多分顔も赤くなっているだろう。
「階段使ったからかな。エレベーターいま搬出で使っているんで、
なかなか来なかったから…」
と咄嗟に誤魔化したが、赤くなった原因はわかっている。
一条だ。恋愛経験値が低い自分にあのイケメンの破壊力は半端ない。

ーー私、一条次長と話をしている間もこんな顔をしていたんだろうか。
みっともない。いい年して…。

樹里は、頭をブルブルと振ると、息をついて手元の書類に目を向けた。
 樹里の前に座っている田中は、パーティションと液晶ディスプレイ越しに
樹里を見ていたが、何も言わずに自身の仕事に意識を向けた。
 19時半を過ぎた頃、そろそろ企画部の荷物の搬出が終わったころと
検討をつけて樹里は、営業部のフロアに様子を見に行った。
 丁度、最後の荷物をエレベーターに積んでいるところで、
フロアは、異動先に持って行かないものだけが残っていた。
 樹里は、搬出後の旧企画部のエリアをまわり、荷物の積み残しがないかを
チェックしながら、未使用の段ボールを集めて回った。
「一条次長、すみません、遅くなりまして。」
と声を掛けながら、山下がフロアに戻ってきた。一条も立ち上がり
「ご苦労さん。急なことで悪かったね。」
と労った。山下はビジネスバッグから書類を取り出し、説明を始めた。
一条も、頷きながら話を聞いている。樹里は二人の様子を横目で見ながら、
フロアを回って作業を続けていた。
 未使用の段ボールを集めている樹里の頭上からまた声がした。
「手伝おうか?」
一条だ。いつのまにか山下は帰ってしまっていたらしい。
「いえ、大丈夫です。もう、終わりましたから。山下課長はご帰宅されたんですか?」
「ああ、飲み会に合流すればといったけど疲れたから帰るといっていた。」
「そうですか。夏休み前に契約が締結してよかったですね。山下課長も
安心して夏期休暇が取れますね。」
と段ボールをまとめながら樹里がいうと、
「ああ、頑張ってくれて助かるよ。君もね。」
段ボールに手を添えて押さえながら一条がいった。
「いえ、私はたいしたことしていません。それより次長、フロアから荷物は
全部でましたので、立ち会いとしてはこれ以上は必要がないんですが、
どうされます?」
「その場合、フロアの照明を落として、施錠をしてってこと?」
「はい、今日は、これ以上このフロアでの作業はありませんので。」
「そうか、君はどうするの?業務が終わったんなら、晩飯でもどう?」
「えっ?」
一条の突然の申し出に樹里は一瞬頭の中が白くなったが、
「いえ、私は、まだ業務は続きますので」
「そう、終わるまで待ってもいいんだけど?」
「えっ、あの、その…、駄目です。」
「駄目?」
「いや、その、駄目っていうか、予定では、21時で一旦終了ですが、
進捗状況がみえませんし、結構、埃被ってしまっているんで、
正直、外食は辛いです。」
それを聞いた一条は、あぁと頷き、
「わかった、じゃあ、ここの戸締まりは俺がしておくから、
長濱さんは、業務に戻ってください。急に無理言って悪かったね。」
とあっさり引いてくれた。それを聞いた樹里は、ほっとした。
「では、お言葉に甘えて、戸締まりお願いします。お疲れ様でした。」
「お疲れ様。明日もよろしく。」
「ありがとうございます。失礼いたします。」
樹里は、逃げ出すように、営業部フロアを後にした。
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