来し方の子

はのこ

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 二度目の歯科医院の予約時間が迫った夕刻、豚肉入りのカレーを作り終えて家を出た。五時を半刻も過ぎると遠くの山の稜線が黒く際立ち、町は灰色を帯びてくる。ボストンバッグを肩に提げた学校帰りの中学生の横を歩き過ぎながら、彼女はいるだろうか、私が来ることに気づいているだろうか、そればかりが気になった。緊張を悟られないよう平静を装って歯科医院のドアを潜り、使い古されたベージュのスリッパに足を滑り込ませながらそっと診察室に目を走らせると、すぐに彼女を見つけた。白とピンクの縞模様のエプロンをした彼女は、一番奥の患者の横で背を丸めてバキュームを操り、垂れた髪が一束、目の辺りで揺れていた。
 受付の女性が、棚に並んだクリアファイルから手早くカルテを取り出し、私の名前を呼ぶ。口を開けた無防備な姿を彼女に見下ろされるのは気恥ずかしくもあったから、私はほっとしたような残念なような気持ちで、彼女から一番離れた診察台に体を横たえた。うがい用のコップに水が自動的に溜まる様子を眺め、「お座席倒しますね」という声に頷いて目を瞑った。
 次回の予約を済ませて帰り支度をしていると、マスクをしたままの彼女が顔を覗かせた。
「小西さん、この後時間ある?」
 彼女を振り返った受付の女性が、今度は興味深そうな目で私を見る。
「よかったらこれからご飯に行かない? 少しだけ、十分くらい待ってもらえたら、着替えるから」
 私が頷くのを確認して、彼女は急ぎ足で行ってしまった。最後の患者が帰って少しすると、待合室と診察室を除いた院内の照明が消え、窓にブラインドが下り、歯科助手たちは手慣れた様子で閉院準備を進める。きっちり十分で戻ってきた彼女はシンプルなジーンズに襟のつまったモヘア編みのセーターを着ていた。特別際立ったところのないシンプルなデザインが、体の線の細い彼女によく似合っていた。お先に失礼します、と彼女が声を張ると、裏から愛想のよい返事が聞こえ、私たちはドアに下りたプラスチックのブラインドカーテンの横をすり抜けた。
「そう、今もこの町内に住んでいるんだ」
 料理が運ばれてくるまでの間、少し緊張しながら近況を告げた私に彼女が言った。
「うん。大学を卒業して戻ってきたの。国広さんは?」
「私はずっと東京にいて、こっちには一ヶ月前に帰ってきたばっかり」
 彼女は言ってから、何か思案するように目を伏せた。
「私、小西さんはどうしているだろうって、ずっと気になってたんだ。だって、あれきりだったじゃない、私たち」
 彼女が唐突にあのことに触れ、私はどぎまぎした。彼女から目を逸らして、やっと頷く。
「ありがとう。私も気になってた。でももう会えないと思ってたよ。国広さんが戻ってくるなんて思わなかったから」
「私が家を嫌ってるから?」
 私が肯定しかねて困っているのを見て、彼女は、
「いいの、実際そうだし。戻ってきた理由はね、母親の看病だよ。兄嫁が、自分ばかり負担するのはずるいって。実の娘である私が何もしないのはおかしいって。まあ、気持ちもわかるよ。でも不思議だなあ、無視することだってできたのに、あれだけ嫌っていた親のために仕事をやめて戻ってきちゃうんだから。自分でもよくわからない」
 自嘲するように笑った。印象の薄い彼女の母親の顔は思い出せないけれど、私の母親より随分年上だった記憶がある。
「お母さん、具合悪いんだね」
「小西さんは、お母さんとは?」
「うん。時々会ってるよ」
「やっぱり、親子は死ぬまで親子だね」
 私が頷くより早く料理が彼女の前に置かれる。おいしそう、と静かな歓声を上げる彼女の顔を、魚介のクリームパスタから上る湯気越しに見る。私たちが最後に会ったのは高校一年生の冬。母と別れた父親に連れられて、あの四号棟を出る時だった。
 家に戻ると、修一が帰宅していた。
「お前、なんでカレー作っといて帰りがこんなに遅いの」修一は機嫌が悪いようで、こたつに寝転んでテレビを見上げたままこちらを見ようともしない。
「急に外で食べることになったの。別に、明日食べればいいし」
 私はいつになく強い口調で言って、カレーの鍋を冷蔵庫に入れた。いつもなら笑って聞き流す修一の文句が妙に私を苛つかせた。彼女に会って、昔のことを思い出したせいかもしれない。シンクには修一がカレーを食べた後の皿が水を溜めて置いてある。「あ、カレーもらったよ」機嫌をとるような明るい修一の声に返事はせず、カレーのこびり付いたお玉を水で流し、液体洗剤を垂らしたスポンジを握る。
「誰とだったの?」修一はこたつに横たえた体を捻って私を見た。
「昔、近所に住んでいた友達」
「男?」
「女だよ」
 安心したように修一は黙り、また元通りこたつに頭を埋める。私との婚約を解消した彼がいまだに私のことを気にするような振る舞いをすることが、私の気持ちを乱し、苛立たせる。
「今日、家見てきたんだけどさあ」修一が紙を捲る音が聞こえる。「どれも一長一短で。なかなか百点の物件ってないね」
「そうだね。いつ引っ越すの」
「いい物件が見つかり次第だな。それまでは家賃も半分ですむし、そんなに急ぐこともないだろ」
 修一は物件情報のコピーに目を落とし、あくびをしながら頭を掻く。修一がまだ何か呟く声が聞こえたが、皿を流れた水がシンクに落ちる音で掻き消えてしまった。私は聞き返すこともせずタオルで手を拭い、修一もそれを気にするでもない。
 近いうち修一がこの家から出て行くことは、まだ実感に乏しい。修一が私と別れることを決めてひと月以上が経って、けれど私たちは互いに現状からの変化を先延ばしにして、いつまでも区切りがつかないまま以前とそう変わらない毎日を過ごしている。
 修一とは本当に結婚するつもりだった。だから私は修一の求めるままに退職したし、これから過ごす長い年月を見据えていた。小さなことでも、隠し事はできないと思った。ウエディングドレスの試着を目前に控えたある日、「言わないといけないことがあるの」と私は修一に切り出した。数ヶ月の間、告げるべきか悩んでいたことだった。私は二の腕に自分で付けた、白く盛り上がった数本の傷跡を彼に見せた。それまでずっと、恥ずかしいからと理由をつけて、服の下を彼に見せないようにしていたから、彼は少しも気づいていなかったようだった。私は驚いて眉を寄せた彼に、昔のことだから、と弁解した。修一は少し考え込んで、受け入れられないと言った。食い下がろうとした私を遮り、裏切られたとなじった。
 風呂から上がって髪を乾かし、リビングに戻ると修一はもう寝室に入っていた。オレンジジュースの入ったグラスとチョコレートを手にこたつに入り、何気なく開いた手帳の明日の欄に、美容外科の院名と時間が記されていることに気づく。
 そういえば、ドレスを着るために脱毛の予約をしていたのだった。今更必要ないのに、契約時に支払った小さなお金が惜しくて、私はバスの時間を調べた。

 待合室で呼ばれ、顔を上げると立っていた看護師と目が合った。よほどぼんやりしているように見えたのか、もう一度名前を呼ばれ、慌てて立ち上がる。看護師の後について、廊下を曲がった先の大きな部屋は、一人分の幅の一本道の両側に茶色のカーテンが連綿と続いていた。カーテンの奥からは心臓の鼓動のような音がばらばらに聞こえ、赤ん坊のエコーの画面を見上げる妊婦が、カーテンの向こうで髪を乱して寝転んでいる妄想が頭を掠めた。きょろきょろと視線を彷徨わせている私を、看護師が不審そうに振り向く。私は足を早めてカーテンの波の間を抜け、肩掛けの鞄の端を引き寄せた。
 カーテンの向こうには小さな診察台がひとつと、見慣れない機械があった。看護師は私の脇を摘んで剃毛の状態を確認する。簡易なアイマスクを付けて目を閉じ、看護師が準備をしている気配に耳を澄ましている間も、心臓の鼓動のような音は絶えず四方から聞こえる。レーザーを当てていきます、と看護師が言って、瞼の向こうに閃光が見えた。同時に無数の針で刺されるような痛みが左脇に走り、顔が歪む。看護師は手慣れた様子でレーザーを続けざまに照射し、耳元で響く音とともに痛みの場所が規則的に移動する。
「こんなに痛いのに、全身脱毛する人はすごいですね」呻きながら言うと、看護師が笑った。
「全部がこの痛さってわけじゃないんですよ。濃いところほど痛いから、脇はかなり痛い部類に入るかと。全身脱毛とか興味ありますか」
「いえ、そこまでは」
「一応、帰りに値段表をお渡ししますね」
 両脇の照射を終えて、保冷剤で冷やすとようやく緊張が解けた。
 脱毛したら、と私は考える。幼いころのように袖のない服を着て外を歩けるだろうか。修一が顔を歪め、その行為までは受け入れられないと言った、二の腕の凸凹とした傷も晒して。
「どうしました?」
 我に返って顔を上げると、看護師が心配げに首を傾げていた。「痛みますか?」
「すみません、ぼうっとしてました」
「大丈夫ですか。今、ひりひりします?」
「いえ、大丈夫です」差し出された手に保冷剤を渡す。看護師は私の脇に指を添え、丁寧にクリームを塗った。
「じゃあ、お着替えが終わったころにまた来ますね」
 私はカーテンの中にひとり残される。四方からは鼓動のような音が絶えず聞こえている。ラップタオルを頭から抜いて服を着直し、カーテンから顔を覗かせる。閉まったまま微動だにしないカーテンの波が、ドアまでまっすぐ続いていた。
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