恋の実、たべた?

午後野つばな

文字の大きさ
上 下
10 / 37

10

しおりを挟む
 夕食後、日下が風呂から上がると、リビングで徹がパソコンの無料通話をしていた。電話の相手はここから一万キロも離れたトロント、母親の再婚相手のジェフだ。ジェフはカナダ系のアメリカ人で、徹とは話が合うのか、ときどきこうやってパソコン上でやり取りをしている。
 母親の再婚が決まったとき、徹はそのままひとりで日本に残ることを選んだ。日下はてっきり徹が母親の再婚相手とうまくいっていないのかと心配したが、どうやらそういうわけでもないらしい。話をしたことがあるが、シニカルな日下から見ても、ジェフは善良な人間だ。
 徹が日下に気がつき、リビングを占領していることに申し訳なさそうな顔をした。日下は気にするなと合図を送ると、冷蔵庫から缶ビールを取り出した。台所のスツールに腰掛け、仕事の資料をめくりながら、ビールを口に運ぶ。資料は今度開催される企画展のものだ。
 そのとき、徹の笑い声が聞こえた。盗み聞きをするつもりはないのに、何となく意識が徹とジェフの会話に向いてしまう。
 先日緒方に言われたことを思い出し、途端に気分が重くなる。
 日下はモラルが低く、はっきり言えばセックスが好きで淫乱だ。過去の苦い経験から、日下は二度と誰かと恋愛する気はなかった。
 緒方がどういうつもりで徹に会いたいと言ったのかはわからない。これまで緒方とはいい関係を築けていると思ったが、そろそろ潮時かもしれない。
「眉間に皺が寄ってる」
 いつの間にか通話を終えたらしい徹が日下の横に立っていた。
「終わったのか」
「うん。向こうはこれから仕事だから。何か悩み事? 仕事のこと?」
 徹は冷蔵庫を開けると、取り出した緑茶をグラスに注いだ。立ったままグラスを口に運ぶ。
「そんなところだ」
 適当に答えると、ガラスのピッチャーを冷蔵庫に戻した徹がじっと日下を見た。
「何だ?」
 何となく居心地の悪さを感じながら、次に何を言われるかわずかに警戒する。徹が持っていたグラスを台の上に置いた。
「きて」
 徹は眉を顰める日下を促し、リビングのソファに移動した。徹の手が日下の肩に触れ、思わずびくっとした。無意識のうちに身体に力が入り、逃げようとする。
「なんだ、何をしている」
「痛かったら言って」
 徹は日下の背後に回り込むと、ゆっくりと肩のあたりに圧をかけていった。
「目を閉じて。何も考えないで」
 徹の指が、日下の生え際からつむじに向かって、円を描くようにマッサージしていく。トップのあたりを手のひらで挟み込むようにぐうっと引き上げられて、日下はあまりの気持ちよさに、おかしな声が出そうになった。
「……お前、こんなことどこで覚えたの?」
「頭皮が硬くなってる。これじゃあつらいでしょう。そうだ、ちょっと待ってて」
 徹はそう言うと、どこかへ消えた。何をしているのだろうと日下が不審に思ったとき、徹が戻ってきた。手にしたタオルをキッチンで濡らして、レンジで温める。
「どう、熱くない?」
 目の上にほどよく温められた蒸しタオルを乗せられて、全身の力が抜ける。同時に、ここ最近何となく苛立っていた気持ちもほぐれる気がした。
しおりを挟む

処理中です...