恋の実、たべた?

午後野つばな

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 明かりをトーンダウンしたホテルの室内は、ラグジュアリーな雰囲気に包まれている。たったいままで身体を重ねていた相手の男はベッドから下りると、冷蔵庫から水入りのペットボトルを二本取り出した。
 日下は身動きすると、ベッドサイドテーブルに置いておいたタバコに手を伸ばした。シーツがずれて、滑らかな背中がライトに浮かび上がる。日下はタバコを口に含むと、ライターに火を点け、ゆっくりと煙を吐き出した。
「何かあった?」
 男は、日下がここ一年ほど身体の関係を重ねている緒方だ。三十代後半、ハンサムで大人の余裕があり、自分の魅力を理解しているタイプ。日下が知っている中でも極上の部類に入る男だ。
 緒方とは以前雑誌の取材がきっかけで知り合った。現代のアート作家に焦点を当てたムック本の出版で、普段美術とは縁がない人の興味も引き、話題になった。マスコミ関係に不信感を抱き、本人はいっさいの取材を拒否する日高の代理人として、日下が引き受けた仕事だ。
 緒方は名前が売れたいまもSNSでイラストをアップするというスタイルで、フォロワー数は百六十万人を超える。普段日下が仕事で扱う作品とはタイプが異なるが、毒があって尚且つ温かみも感じさせる独特の世界観は、確かに魅力があると日下も認める。互いに割り切った関係で、いまのところ何の問題もない。
「何かって、何もないですよ」
 受け取ったペットボトルに日下が口をつけると、緒方はその顔に魅力的な笑みを浮かべ、ふうん、何もないね、と思わせぶりに呟いた。
「突然会いたいと連絡があったと思えば、いつもより熱心で、どこか不安そうだ。おまけに普段は吸わないタバコを吸っているときている。きみ、タバコを吸うくせに、実はその匂いは嫌いでしょう?」
 日下はストレスがたまると無性にタバコが吸いたくなる悪い癖がある。うまく隠せていると思ったのに、緒方にずばり言い当てられて、日下は嫌そうに顔をしかめた。
「嫌ならこなければいい話でしょう。無理強いはしていません」
 自分でも大人げないと思うような、拗ねた声が出た。
「誰も嫌だなんて一言も言ってはいない。きみから誘われるのはいつでも大歓迎だ。ただ、普段は何事にも動じないきみの胸を騒がす原因に興味がある」
「胸なんて騒いでいません。ただ、家で少しあっただけで……」
 これ以上この話は続けたくないという日下の意思表示には構わず、緒方はますます興味を惹かれたようすだった。
「家でって例の甥ごさん? 確かまだ大学生の。きみにしては珍しく、前に漏らしたことがあったよね」
 緒方の前で徹のことを話したのは、完全な日下のミスだった。気分を変えたくて緒方を呼び出したのに、この場で一番耳にしたくない名前を出されて、日下は小さく舌打ちした。
「何事にも動じないきみが、その甥ごさんのことでは途端に冷静さを失う。まるで思春期の子どものようだ。きみはそのことに気づいているのかな? それとも気づいていて、気づかない振りをしているだけかな?」
 日下は携帯灰皿にタバコを押しつけると、ベッドからするりと抜け出した。緒方の首に腕をまわすように、キスをする。
「その話、まだ続けますか? それとも別のことをしますか?」
 耳元で誘うように囁く日下に、緒方は苦笑した。
「……果たして、その誘いを断れる男がどれだけいるだろうね」
「いいからもう黙って」
 緒方の唇に手を当て、じっと見つめる。緒方の瞳から先ほどまであった余裕が消えた。
 緒方の手からペットボトルが転がり落ちる。零れた水が絨毯に染み込むのも構わず、きつく抱きしめられた。熱い口づけを交わしながら、ベッドへ倒れ込む。
 セックスは好きだ。自分が自分のままでいられる気がする。そこには偽りの言葉で互いを気遣うふりをする煩わしさもない、ただの純粋な欲望がある。
 緒方のキスは、日下を全身で甘やかすかのようだ。セックスの相性も悪くはない。それなのに、いまごろ徹は何をしているのだろうか、不自然な態度を取った自分を不審には思っていないだろうかなどと、余計なことを考えてしまう。
「……きみは残酷だ」
 耳元で囁かれた言葉を、日下は聞こえない振りをする。自分にとって、それは聞こえたら都合の悪い言葉だからだ。
「いつかその甥ごさんに会ってみたいね」
 別れ際、緒方に言われた言葉に、日下は眉を顰めた。
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