恋の実、たべた?

午後野つばな

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「俺は衛さんのことが好きだ。衛さんだって、それはわかっているはずだ」
 心の奥まで見透かされそうなまっすぐな瞳に、目をそらしたのは日下のほうだった。
「緒方さん」
「何だい」
 徹の呼びかけに、緒方はいつもと変わらないようすで穏やかに応じた。
「俺はあなたのことを知りません。だけど、衛さんの言葉の通りなら、きょうのあなたは普段とは違うのでしょう」
「徹?」
 いったい徹がどういうつもりなのかわからず、日下は眉を顰めた。
「……そうだとしたら、何か意味はあるのかい?」
 緒方の顔に、きょう初めて徹を認識したような色が浮かんだ。
「確かに叔父は品行方正な人物ではありません。完璧なように見えて、実際はそんなことはないし、いいかげんで問題が多い人だ。この人、家では朝ひとりで起きることもできないし、気がついたら部屋が洗濯物に埋もれていても平気なんですよ」
「徹!」
 この場にきてのまさかの徹の暴露に、日下は羞恥を感じながらも苛立ちを募らせる。
「お前、いい加減にしろ。緒方先生もこいつの話を本気にしないでください」
 焦る日下とは反対に、緒方は徹の話に興味を引かれたような表情を浮かべている。
「だけど、あなたがおっしゃっていたように、衛さんは信用できる人だ。本当はわかっているんじゃないですか? そしてそれは衛さんにとっても同じだと思います。その信頼を、どうか裏切らないであげてほしい」
「徹……」 
 まっすぐに緒方の目を見て話す徹に、日下は言葉を失う。つかまれた手が熱かった。さっきまでの激情が消え、頭が冷静になるにつれ、じわりと頬に熱が戻ってくる。
 緒方はため息を吐くと、降参するように両手を万歳のかたちに上げた。
「――悪かった。言い過ぎたよ。ついむきになってしまった。衛もすまなかった。どうか許してほしい」
「緒方先生……」
 日下を見る緒方の眼差しは、これまで目にしたことのない静かな色が浮かんでいた。緒方が本心から言っていることがわかり、日下はそれ以上怒れなくなる。
「そ、それはもちろんですけど……」
「せっかくの時間を台無しにしたお詫びに、ここは俺が払おう」
 思いがけない成り行きに日下がへどもどしている間に、戻ってきたウェイターに緒方が会計をすませてしまう。
 店の前で緒方と別れ、日下たちは海沿いの国道を駅に向かって歩く。真っ暗な海の向こうに、小さな街の明かりが見えた。打ち寄せる波の音に、高ぶっていた神経が少しずつ冷静になっていく。街灯に徹の横顔が照らされている。意識して見ていたつもりはないのに、振り向いた徹と目が合ってどきりとする。
「……お前、さっきのは何だよ」
「さっきのって?」
「だからその……」
 自分から言い出しておいて、お前が僕を好きだと言ったことだよとは、言葉にしづらい。言い淀む日下に徹が気づいたように、
「ああ、俺が衛さんを好きだって言ったこと? それとも衛さんが俺の気持ちに気づいていて、知らん顔をしていると言ったこと?」
 と聞かれ、ぎょっとなった。
「知らん顔なんて人聞きが悪い。……ただ、あり得ないと言っているだけだ」
 自分でも歯切れが悪い答えになった自覚はあった。案の定、日下の答えに納得できなかったように、徹が首をかしげる。
「それは衛さんが俺のことを恋愛対象としては見られないって意味? 叔父と甥という関係だから? 俺が衛さんから見たら、まだ子どもだから?」
 ひとつでも十分な理由をいくつも挙げられて、日下は言葉に詰まる。お前の言う通りだと言えばすむ話なのに、口にできないのはどうしてだろう。
「それとも、何か別の理由があるの?」
 海風が日下の髪をなぶる。手を伸ばせば溶けて消えてしまいそうな暗闇の中で、こちらを見つめる徹の視線を感じた。 
 ――俺は衛さんのことが好きだ。衛さんだって、それはわかっているはずだ。
 徹の言葉が甦り、じわりと熱が上がる。そうだ、徹が本気なことくらいとっくに気がついている。日下が思うよりも、徹は子どもじゃない。徹の問いに答えられないのは、日下のほうに不都合があるからだ。日下が気づきたくない何かが――。
 潮風で身体が冷える。小さく身震いした日下に、先に徹が気がついた。
「冷えてきたね。うちに帰ろう」
 迷いのないようすで先を歩き出した徹に、日下も遅れてついていく。波の音が聞こえた。月明かりに白波が立っている。
「さっきのイタリアン、なんだか緊張して味がよくわからなかった。もったいなかったな。衛さんもあまり食べていなかったね。好みじゃなかった?」
 徹におかしなところはどこにもなかった。彼はいつも通りで、むしろ緊張していたのは日下のほうだ。内心でどこがだよと苦々しく思いながら、
「あの空気の中でおいしくて食べていたら神経を疑う」
 と日下が返すと、
「それもそうか」
 と納得したような答えが返ってきて、日下は人知れずほっと息を吐いた。
 さっきまでの張りつめた空気はどこにもなかった。この時間がいつまで続くかはわからない。でもあと少し、タイムリミットまでにはまだ間がある。
「気が抜けたらお腹が空いてきた。帰ったらお茶漬けでも作ろうかな。衛さんも食べる?」
「筧さんからもらった上等な塩昆布を隠してある」
「ああ、いいね」
 徹が振り向き、日下を見て笑う。日下は波音に気を取られた振りをして、そっと視線を外した。
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