零れる

午後野つばな

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19話

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 雪解け水がちょろちょろと小川を流れ、少しずつ日差しに温もりが混じると、草木が芽吹いてくる。土の合間から虫たちはむっくりと起き出し、いっせいに花開いた。
 土の泥臭さと、甘い花の匂い。
 風に揺れている白い小さな花は、何て名前だろう。
 雲が霞む春の空を眺めながら、アオは庭を歩く。
 これまで草花を眺めるような、気持ちに余裕がある生活は送っていなかったが、シオンの屋敷に滞在するようになって、アオはたびたび庭を訪れていた。自然の中にいると、自分の中にあるどろどろとした感情や不安、そして焦りがすっと溶けて消える気がした。
 シオンと寝た翌朝、アオは彼が自分と関係を持ったことを後悔していることに気がついた。わざとはすっぱな態度を取ったアオに対し、シオンは怒りを隠そうともしなかった。
 自分はひどく思われることなど慣れている。いまさら軽蔑されることなどなんてことない。
 そう思っていたはずなのに、好きだと自覚した相手から冷たい眼差しで見られることは、思いのほか堪えた。
 きっと、シオンはアオに話しかけてくることはないだろう。
 てっきり以前のように無視されるだろうと覚悟していたアオを待っていたものは、まるでアオとの諍いなど何もなかったように自然に接してくるシオンの態度だった。以前とは違うシオンの態度は、周りの人たちもすぐに気がついたようだった。最初は戸惑いを見せていた人の中には、それをきっかけにアオに話しかけてくれる者も出てきた。
 結局アオたちのゲストルームに忍び込んだ犯人は見つからなかった。最初アオからの話を聞いたシオンは憤り、犯人を見つけようとしたのだが、アオ自身がそれを望まなかった。もちろんアオだって、シオンの切り抜きを勝手に抜き取った犯人には腹が立つ。けれど、シオンの近くに自分のような不審な存在がうろついていることをよく思わない人間の気持ちも、正直わかるのだ。
 穏やかに自分を見つめるシオンの瞳。そのたびにアオはうれしくて落ち着かないような、そわそわした気持ちになってしまう。
「あいつ、何考えてるか全然わかんねえ……」
 話しかけられれば期待をしてしまう。ひょっとしたらとバカな夢を抱いてしまう。もっともっとと、強欲にねだってしまう。
「あー、くっそ……!」
 アオはくしゃくしゃと髪をかき混ぜた。
 分相応な望みは持つな。期待はするな。だって、シオンにはマリアがいる。
 ふっと冷静さが戻ってきて、アオは口元を歪めた。
 そうだ。シオンにはマリアという少女がいる。
 そのときだった。じっと見られているような視線を感じて、振り向くと、いま頭に浮かべた少女がアオと同じように目を丸くさせていて、びっくりした。
「マリア……?」
 思わず少女の名前を呼び、慣れ慣れしかったかと、アオは慌てて口を閉じた。けれど、少女は嫌がるどころか、まるでアオに話しかけてもらったことがうれしいことのように、パッと瞳を輝かせた。
「シオンのお客さん?」
「アオでいい」
 アオは急にバツが悪くなった。少女には何の恨みはないが、シオンの”つがいの相手”だと思うだけで、喜んで話したい相手でもなかった。すぐにでもその場から立ち去りたかったが、少女はアオの意思に反して近づいてきてしまう。
 きょうの少女は、デニムに長靴、それから青いウィンドブレーカーといった普段着だった。飾らない格好をしていても充分美しい少女に、アオは軽い嫉妬を覚えた。
 この少女が、シオンが大事にしている相手だ。
 アオは唇を引き締めると、小さくうなずいた。こんなところで何をしているの? とマリアに聞かれ、ただ散歩をしていたのだとアオは答える。
「おにいちゃんが言ってた! 弟もいるんだって。いいな、わたしも弟がほしかったの。こんど一緒に遊ぶの、わたしもまぜてくれる?」
 年齢にそぐわない幼い口調。にこにこと笑う少女に、アオは再び強い違和感を覚えた。
 ……なんだ?
「……マリアはここで何をしてるんだ?」
 アオは慎重に訊ねる。マリアは小さく首をかしげた。
「バラに肥料をあげようと思って」
 アオは驚いた。
「この庭はマリアが手入れをしているのか?」
「そうよ? 前は庭師のアンリの手伝いしかできなかったけど、最近ではだいぶまかされるようになったの」
 マリアが自慢するように胸を張ったそのときだった。
「マリア!」
 庭の入り口から、シオンが現れた。シオンはマリアと一緒にいるアオを見てわずかに眉を顰めると、すぐにアオなんてまるでこの場にいないみたいに素通りし、少女の腕をとった。
「今朝、熱が下がったばかりだろう。部屋にいないって、カイルが探してたぞ。手入れはアンリに任せればいい。さ、部屋に戻るぞ」
「でもシオン! アンリはもうずっと腰の調子が悪いって……。わたしならもう元気なのに!」
 少女はシオンの手を振り払おうとするが、シオンはそれを許さなかった。
「ほら。いいから戻るぞ」
「やー……!」
「あ、あのさ……」
 いきなり口を挟んだアオに、シオンと少女が振り向く。いかにも部外者がいったい何だという視線に、アオは頬が熱くなった。
「お、俺で何かできることがあるなら、手伝うけど……」
「おまえには関係な……」
「ほんとに!?」
 アオの言葉を退けようとしたシオンの言葉を、マリアが遮った。期待のこもった瞳を向けるマリアと、反対に渋面をつくったシオンに見つめられて、アオはすでに前言を撤回したくなっていた。
「俺にできるかわからないけど、やることさえ指示してくれれば……」
「それで充分! ……シオン?」
 アリアがシオンを振り向く。シオンはため息を吐くと、アオを見た。自分を見つめるシオンの瞳は何か言いたいことでもありそうで、アオは気になった。
「本当にいいのか?」
「あ、ああ。別に構わないよ」
「きゃ~!」
 マリアは、うれしくて堪らないといったようすで歓声を上げると、アオの手をぎゅっと握りしめた。
「ありがとう!」
 それからシオンを振り向き、
「シオンもありがとう!」
 と言った。
「ちょっと待ってて。アンリを紹介する。アンリはもうずっと前からこの庭をかんりしてくれているの」
 ほんのわずかな時間も待ちきれないといったようすで駆けていくマリアの後ろ姿に、シオンが「駆けるな!」と声をかける。マリアは振り向くと、いたずらが見つかった子どものように、ぺろっ、と舌を出した。
 その場には、アオとシオンのふたりが残された。アオは落ち着かなくなった。肩を並べるシオンとの距離が近すぎて、急にどうしていいかわからなくなる。普通にしていなきゃと思うのに、普通がどんなだったか思い出せない。シオンへの気持ちを自覚してからというもの、これまでアオの知らないことばかり起こる。
「あんたが嫌ならいい」
 緊張のあまり、アオはぶっきらぼうな言い方になってしまった。思わず舌打ちしたアオに、シオンが何をだという顔をした。
「あ、あんたは俺がマリアと会っているのが嫌なんだろ。マリアには手伝うと言ったけど、何かてきとうな理由をつけて断ってもいい」
 シオンは、大事な少女と自分が会っているのが嫌なのだろう。もちろんアオはマリアに対して嫉妬を感じることこそあれ、危害を加えるつもりはまったくない。しかし、これまでのアオの生き方を知っているシオンが、大切な少女のそばに自分を近づけたくないと思うのは、考えてみれば当然のことだった。実際、そう思われても仕方がない人生をアオは歩んできた。
「ああ……」
 シオンは、ようやくアオが言った意味に気がついたようだった。
「いや。それはいい」
「え?」
 シオンから返ってきた言葉に、アオは驚いた。
「……いいって、俺がマリアに会って構わないってこと?」
「ああ。別に構わない」
「俺が、マリアに何かするとは思わないの……?」
「お前はそんなことしないだろう?」
 なぜそんなことを訊くんだとばかりに、少しの躊躇も見せずに堂々と言い切られる。アオはうつむいた。じわじわっと頬が熱を持つ。信じてもらえてるんだ、と思ったらどうしていいかわからないぐらいにうれしくなって、胸が苦しくなった。
 シオンは何かを言いかけてから、ためらうように口を閉じた。
「シオン?」
 マリアのことを話すときのシオンは明らかに歯切れが悪く、普段の彼らしくない。何か口にはしづらいことでもあるのだろうか。
 シオンは小さく呼吸を吐いた。顔を上げ、まっすぐな視線でアオを見る。アオはどきっとした。
「お前は、マリアについて何か思うことはないか?」
「え? マリア?」
 マリアについて思うこととは何だろう? シオンは何を気にしているのか?
 少女と接した短い時間を頭に思い浮かべ、アオはあっと気がついた。
 マリアは、見た目はごく普通のーーというよりは、めったに見ることができない美しい少女だ。素直で、頭がよく、欠点など何もないように思える。けれど、一言でも口を開いたら、生まれる微かな違和感。それは、大人の女性の身体の中に、幼い女の子が同居しているみたいなのだ。
「……マリアはいまいくつ?」
 いったい何て訊いたらいいかわからなくて、慎重に言葉を選んだアオに、シオンは「二十二だ」と答えた。
「えっ!」
 思わず声を上げ、アオは慌てて口を手で押さえる。いや、確かに実年齢はそれぐらいに見える。見えるのだが……。
「マリアは、解離性障害だ。ある事件のショックで、ここ十数年の記憶がない」
「そんな……」
 アオは、これまでマリアのことを、何の苦労もしたことがない幸せなお嬢さんだと思っていた。同じオメガなのに、生まれた場所が違うだけで、どうしてこんなにも違うのだろうと、羨んでいた。でもそうじゃなかったとしたら? それは、これまでアオがオメガだというだけで一方的に決めつけ、差別をしてきた人間たちと一緒じゃないか?
 恥ずかしい……。
 アオはぎゅっとこぶしを握りしめた。うつむき、その場から消えてしまいたくなる。そのとき、アオはあることに気がついた。マリアの中身が見た目以上に幼いというのならば、彼女がシオンのつがいの相手だというのは、何かの間違いじゃないだろうか。
 アオの中に、わずかな希望が生まれる。どきどきと、鼓動が早鐘を打った。こんな話を聞いたばかりで、喜んでいる自分は卑しいと思う。でも……。
「俺、マリアはあんたのつがいの相手だって聞いた……」
 どうか、どうか間違いだと言ってくれ。何かの勘違いだと。
 けれど、アオの期待はすぐに裏切られた。
「ああ。そうだ」
「え、でも……」
 アオの顔に浮かんだ戸惑いを、シオンの冷静な目が見つめ返す。
「マリアは妹みたいなものだ。普通の恋愛とは違うが、世の中にそんな関係はいくらでもある。マリアの状態が落ち着いたら、一緒になるつもりだ」
「そ、うなんだ……」
 それ以上シオンの顔が見ていられずに、アオは視線をそらした。えぐられるような深い絶望が胸に広がる。
「そうだよな。あんたたち、どっから見てもお似合いだもんな」
 そっかそっかと笑いながら、アオは後頭部をかく。シオンの瞳に、すべてを見透かされそうで怖かった。
「で、でもさ、だったらよけいに俺なんかと一緒にいたらまずいんじゃないのか? だってさ、俺、男娼上がりだし、何も褒められることなんてないから。世間的にもさ、まずいんじゃねえの? ラング一族のリーダーの相手が、俺なんかとさ、一緒にいることがわかったら」
 口にしながら、自分の言葉が矢のように胸に刺さる。
 アオにとって、身体を売ることは唯一の生きる手段だった。そうでもしなければ、きっとアオたち兄弟は今頃どこかで野垂れ死んでいた。だから、決して誇れはしないけれど、後悔はしていない。でも本当に? 本当に身体を売らなければ生きられなかったのか? もっと別の方法はなかったのか?
 考えているうちに、アオは気分がどんどん沈んでいった。
「言いたいやつは勝手に言わせておけばいい」
「え?」
 顔を上げると、じっとこちらを見るシオンと目が合って、どきっとした。
「お前がしてきたことは確かに褒められたことじゃないが、お前はひとりで立派に弟を育ててきたんだろ? リコを見てれば、お前がどれだけ愛情深く接してきたことがわかる。好き勝手なことを言うやつはどこにだっている。そんなのは放っておけばいい。お前はよくやった」
 くしゃりと髪をかき混ぜるように撫でられる。
「マリアがお前と接することは、決して悪いことじゃない。マリアが望むなら、悪いがつき合ってやってくれないか?」
 ふいに、胸が詰まるような衝撃を感じた。そのとき抱いた思いを、なんて言葉にすればよいだろう。冷静なシオンの瞳からは、彼が本気でそう思っていることが伝わってきた。胸が苦しくなる。ちょっとでも口を開けば、子どものように大声で泣いてしまいそうだった。
 これまで、誰もそんなふうに言ってくれる人はいなかったーー。
「……なんて顔してる」
 シオンから乱暴に髪をぐしゃっとされ、アオはぎゅっと目をつむった。そのとき、マリアがアンリという小柄な老人を連れて戻ってきた。
 マリアから紹介されたアンリは、気難しい老人だった。先代のころからガーデナーとして屋敷の庭を管理している彼は、幼いころのシオンやマリアのこともよく知っていて、自分の孫のようにかわいがっていた。そんなアンリにとって、突然ひょっこりと現れたアオは、不審者以外の何者でもなかった。
 アオが手伝いを申し出ても、必要ないとにべも無く断られる。歳を理由に、身体の自由が昔ほど利かなくなったことをマリアに指摘され、頼むから無理をしないよう説得され、ようやくアオの手伝いを受け入れが、渋々なのは明らかだった。アオへの不信を隠そうともせず、いつ音を上げてもおかしくないと言わんばかりの態度で遠慮なくこき使われる。
 それでも、意外なことにアオはこの気難しい老人が嫌いではなかった。アンリが自分を信用していないのは、アオがオメガだからではない。会ったばかりの、どこの馬の骨ともわからない相手だからだ。そして何より、植物を相手の仕事は、きついけれど楽しかった。
 いまの時期は、新芽をナメクジにやられないようナメクジ対策に始まって、雑草を抜き、バラの施肥、多年草の株分けなど、やらなければならない仕事はたくさんある。
 無心に手を動かし、へとへとになるまで身体を動かす。
 いつまでもこの屋敷にいられないことはわかっていた。一刻も早くこれからの身の振り方を考えなければいけないと思いはするものの、気がつけば日々はあっという間に過ぎてゆく。
「アオー。アンリが少しは休憩を入れろって」
 マリアの呼びかけに、アオは作業の手を止めた。きょうのマリアの服装は、アオと似たように汚れてもいい格好だ。長袖のシャツにデニムとスニーカー、長い髪は邪魔にならないようポニーテールに結わいている。
 シオンからマリアの話を聞いたとき、最初は正直どんなふうに接していいのかわからなかった。けれど屈託なく話しかけてくる少女を前に、アオはごちゃごちゃと難しいことを考えるのは止めた。マリアの中にいるのが実際の年齢よりも幼い少女なら、そう接すればいい。太陽の下、身体中泥だらけになりながら、アオたちと一緒に庭仕事をするマリアは、肩から力が抜けて楽しそうに見えた。
 朝からずっとしゃがんで草むしりをしていたので、肩から腰にかけてがちがちに固まっていた。アオは軍手を脱ぐと、うーん、と伸びをした。うっすらと汗ばんだ額を撫でる風が心地よい。
「はい。スコーンをどうぞ」
 保温ポットから注いだ熱い紅茶とともに、マリアからスコーンを手渡される。最近では庭仕事の合間に、こうやって休憩を挟むのが習慣になっていた。飲み物はたいてい温かい紅茶で、お菓子はそのときどきで違う。
 ティータイムになると、リコとカイルもやってくる。外見からは想像できないマリアの幼い言動に、初めて会ったときばかりはリコも戸惑っていたようだが、やがてすぐに慣れた。
 焼きたてのスコーンに、こってりとしたクロテッドクリームとイチゴジャムがたっぷりとのっている。控えめな甘さとほどよい酸味が口の中に広がっておいしかった。木陰の下、アオたちからは少し離れた場所に座って、アンリも同じくスコーンを頬張っている。
「ねえね、アオはシオンのことが好きなんでしょ?」
 マリアに訊ねられて、アオは飲んでいた紅茶を勢いよく噴き出した。
「うわ……っ! あちち……っ、な、な、なんで……っ!?」
 マリアから手渡されたハンカチで口を拭いながら、アオは内心でパニックを起こしそうになった。
「あ、それ俺も聞きたかった」
「えっ! ば……っ、リコ何言って……っ!」
 ね~、とうなずき合うリコとマリアに、アオは口をぱくぱくとさせる。マリアはそんなアオを見て、くふふと笑った。
「だってアオ、シオンと話しているとき、顔はふつうなんだけど、よく見ると耳たぶがちょっとだけ赤くなってるの」
「えっ!」
 アオは思わず自分の耳に手を当てた。まさかとは思うが、話をしているとき、自分の耳たぶは見えない。まさか本当に?
 カイルが気の毒そうな顔をしている後ろで、アンリが何を考えているかわからない瞳でじっとアオを見ている。
 マリアの隣で、リコまでがうんうんとうなずいた。
「そうそ。なんかこれまでのアオとは違うんだよね。そこらの変なやつにアオをとられるのはいやだけど、あのひとならまあ、仕方ないかなって。前に助けてもらったとき、あのひとアオのこと、本当に心配そうだったし。アオが大事にしてもらえるなら……」
「それはないよ」
「えっ」
 アオは服に落ちたスコーンの残りかすを手で払った。さっきまでの弾んだ心が嘘のように消えている。立ち上がろうとしたときに、マリアのきょとんとした顔がちらっと視界に入った。
 そう、そんなことはあり得ない。だってシオンにはマリアがいる。つがいになることを少女が知らされているかはわからないが、シオンが俺のことを選ぶなんて万が一にもあり得ないのだ。
「ア、アオ……っ!?」
 作業に戻ろうとしたアオの背後から、焦ったようなリコの声が聞こえてきた。振り返ると、リコが縋りつくような真剣な眼差しでアオを見ていた。
「だ、だって、だって、俺聞いたんだ。アオとシオンは運命のつが……」
「やめろ!」
 マリアに聞こえたらと、アオはリコの言葉をぴしゃりと撥ねつけた。これまでアオに怒鳴られたことなどないリコは、びくっと身体を竦ませた。
「それ以上は言うな」
「アオ……」
 アオを見つめるリコの瞳が、一瞬傷ついた色を浮かべた。うつむいたリコを慰めるように、カイルがその肩を抱く。
 リコを傷つけてしまったことに胸を痛めながらも、マリアのほうを見たアオは、はっとした。大きく見開いた少女の瞳から零れ落ちる涙が頬を濡らしているからだ。
「マリア……?」
 アオの言葉に、カイルたちもハッとしたようだった。さっきまでショックを受けていたリコも、心配そうにマリアを見ている。
「マリア? どうした? 大丈夫か?」
 リコから離れたカイルは、そっと妹の髪に触れた。マリアは弾かれたようにカイルの腕の中に飛び込んだ。
「おにいちゃん! おにいちゃん! おにいちゃん!」
「どうした? 何があった? ……マリア?」
 いつの間にかひとり離れた場所にいたアンリも、カイルたちの側にいる。
「わからない。わからないけど、胸がぎゅっと痛むの……。とても悲しいの」
 マリアが頭を振るたびに、ポニーテールの先が揺れる。
「わたし、何か大事なことを忘れている気がする……。でも何を? ……わからない。おにいちゃん、わたし何を忘れてるの?」
 ぞっとするほど絶望を含んだ少女の声の響きに、アオたちは言葉を失う。
「マリア……。取りあえず部屋へ戻ろう」
 ちらっと物言いたげに視線を寄越したカイルに、アオはこくりとうなずいてみせた。カイルとマリアの後を、アンリがついていく。その場にはアオたち兄弟が残された。
「アオ……。マリア、大丈夫かな? 俺、何か言っちゃいけないこと言った……?」
「大丈夫だよ」
 アオは不安を滲ませるリコを抱き寄せると、弟の髪をくしゃっとかき混ぜた。
 その後、部屋に戻ったマリアは落ち着いたとカイルから聞いていたが、アオは少女の悲鳴がいつまでも頭から消えなかった。
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