毒花の姫

麻戸槊來

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毒花が勝ち取った自由

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『毒花の姫』と聞けば、貴族のみならず庶民まで思い浮かべる対象はたった一人だろう。

そんな有名な二つ名を持つ方のそばに侍ることになるとは、十年前の自分では思いつきもしなかった。



私は一人、宵闇に紛れて目的の部屋を目指していた。
幾ら慣れ親しんだ伯爵家とは言え、警備が手薄すぎる。ここまで簡単に主の部屋まで侵入できてしまうと、逆に心配になってくる。わざと警備の穴をついて侵入したとはいえ、これは早急に改善させなければならないだろう。

そんな使命感に駆られていると、ふっといつもと異なる物の配置に気付かず物音を立ててしまった。寝室から顔をのぞかせたこの部屋の主と目が合ってしまい、もう逃れられそうにないと腹をくくる。

「あら。こんな夜分に知らせもなしに、どうなさったの?」

「……こんばんは、お嬢さん。良い夜ですね」

見つかってしまったと、内心苦々しく思いながらもにこやかに返す。

ここで変に口ごもったり、動揺して見せれば、何か身に暗いことがあると白状するようなものだ。こういうのははったりも大切なのだと、他でもない彼女から教わった。ちらりと視線をやった扉付近には、つい先日まではなかった一人掛けの椅子が一脚置かれている。

「良い夜……なのかしら?今日は星も囁くような、新月ですよ?」

「えぇ、そのお陰で、眩しすぎる光に追いかけられることもありません」

「まぁ。月明かりから逃げなければならないようなことを、なさろうとしているの?」

口調は問いかけているのに、その瞳は大人しく白状しろと訴えてくる。
どんな優秀な外交官ですら敵わなそうな瞳に、目まぐるしいほど頭を回転させる。どうすればこの場をうまく乗り切れるのか。考えている内にも、ドアの外が騒がしくなって、警備の者が声をかけた。

「ちょっと話をつけてくるから、貴方はここに居らして」

ただ椅子を倒しただけだとか、もう寝るところだから入ってくるなとか。
まるで用意していたかのように、するする言葉を発する姿に感心すら覚える。自らが巻き起こした出来事とは言え、さすがこの家をずっと動かしてきただけのことはある。
下手なことは言わない方が賢明だろうと、にこりと笑うだけで出迎える。

「―――何が目的で月明かりから逃れてきたのか分からないけれど、邪魔者は追い返してきたわよ」

そもそも彼女はどこまで知っているのかと、探りつつも言葉を発する。

「いやいや。先ほどのは、単なる言葉の綾ですよ」

「言葉の綾にしては、ずいぶんおあつらえ向きの格好をなさっているのね」

ゆっくりと、傾けられたグラスから香るにおいにクラリとする。
芳醇なブドウの香りは、どうやら寝酒にするにはだいぶ上等なものを選んだようだ。どうやら、慣れない新米バトラーをうまく言いくるめて、高い銘柄のワインを出させたらしい。この家でワインセラーの鍵を持っているのは家主である伯爵と家令ハウス・スチュワード、それから担当を任せられた執事バトラーだけだ。その三人の中で彼女の口車に乗ってワインを差し出すとしたら、一人しかいない。

「いくら新米とはいえ、バトラーともあろうものが、フットマンのような事をして……」

「言っておくけど、これを出してくれたのは貴方も文句を言えない人だし。こんな夜更けに、人の屋敷へ忍び込んでくるような人に注意されるいわれはないわよ」

「いい加減に、そちらの椅子に腰掛けてはいかが?」と勧められた椅子は、先ほど音を立てるきっかけになった物だった。これまで屋敷のどこでも見たことがないから、新調したものだろう。伯爵が好む趣味の悪いごてごてしたデザインではなく、背もたれや腕置きの縁は丸みを帯びて、足は繊細な彫刻と曲線が見事なのに、座面と背もたれは落ち着いた色合いでセンスの良さがうかがえるものだった。一目でわかる質の良さに、彼女が選んだものであろうことがうかがえる。間違っても、派手好きでセンスのない伯爵が選んだものではないだろう。

「あのハウス・スチュワードが、許可を出したというのですか?」

それはどんな冗談だと思いつつも、彼女がくすりと笑って見せたことで嘘ではないのだと確信した。彼女がこの手の嘘をつくとしたら、もっと計算されつくした笑みを浮かべるはずだ。今の様に、思わずはにかんだというような笑い方をするはずがない。これ見よがしに揺らされたグラスからは、距離があっても分かるほど上等な香りがした。

「貴方も一杯いかが?」

「そんなに上等なワインを一滴でも口につけたら、ハウス・スチュワードが飛んできますよ」

「いやね。祝い酒を取り上げるほど、野暮じゃないわよ」

「野暮ではないかもしれませんが、我々には厳しい方で……」

唐突に浮かんだ違和感に、首をかしげる。

どこか機嫌よさげな彼女は、不法侵入を咎めるどころか、元より訪れる予定だった客人の様に迎えて見せた。こんな夜分に訪れれば、たとえ仕事の業務連絡でもお叱りの言葉が止まなかったのに、今日は嫌みの一つも出てこない。いつも以上に、沈黙が部屋を広く感じさせる。飾られた花も蕾を閉じて、煩わせるものが少ない空間は自らの思考を研ぎ澄まさせる。
第一、彼女はさっき何と言ったか。聞き間違いでなければ、彼女は先ほど……。

「祝い酒?」

「あら、ようやく気付いたの」

「もしや……」

「えぇ。これで晴れて私は、自由の身よ」

「おめでとうございます、アイリス様」

かねてからの希望であった『自由』を手に入れたとあっては、確かにこの栓を開けるのにふさわしい。そういう祝いならば、風味が落ちる前にご相伴にあずかろうと、ボトルを傾ける。伯爵家の様子がおかしいと聞いて、わざわざ深夜に忍び込んできたかいもあったというものだ。この屋敷を出る時に、さんざん元同僚にうまい物を食わせ、金を握らせた。少しでもお嬢様の味方が増えるように、アイリス様が不利な状況に立たされたら、手助けできるように。

これまで伯爵家で貯めた給金をだいぶ減らすことになったが、彼女の吉日に立ち会えたのだから安いものだ。



アイリス様も普段なら一杯で遠慮するが、「あら、ありがとう」と、機嫌よくグラスを受け入れる。
ルージュの惹かれていない唇に、紅い雫が艶なまめかしい。今更ながら、ネグリジェにバスローブを羽織っただけの姿は、眼に毒だと視線を逸らす。


いつまでも執事のままではいられないからと、一度この家を出た。
本当は子爵家のコネと、自らが築いた人脈を最大限利用して彼女の力になりたいと思ったのだが、予定よりずっと早く彼女の夢は叶ったらしい。自らが貢献できなかったことは悔やまれるが、今後彼女の成功を誰よりも近くで見られるのだと思えば悪くない。

それに、ずっとネックとなっていた存在をこの家から追い出してしまえば、彼女の理想に一気に近づくだろう。それは彼女も同じ気持ちなのだろう。グラスを傾けながら、笑ってみせる。

「家を継ぐことを考えれば本当の自由とは言えないかもしれないけれど、少なくともあの男にずっと利用され続けるくらいなら、面倒なしがらみに捕らわれるほうがよっぽどましね」

「かねてからの念願が、叶ったのですね」

彼女は前々から女性が爵位を継げるようにと尽力しており、この度公爵夫人が未亡人となったことで、公爵家を継ぐ人間が途絶えた。そこで以前より交流のあったアイリス様が、おばあ様のコネを最大限使い女性の爵位を授与を認めさせたのだ。自らの代で、当主となることをあきらめかけた時もあったようだ。「もしも私が当主になれなかったら、貴方が私の代わりにこの家を建て直しなさい」なんて弱気になりかけていた彼女がつかんだ結果に、不思議と気分が高揚してくる。

「元々、突然当主が亡くなってその妻が一時的にその代わりを果たすこともあったのだから、子どもの頃はここまで時間がかかるとは思ってもみなかったわ」

「まだまだ、視野が狭く考えの古い人間は幾らでもおりますから」

「あら、貴方は違うのね?」

「そんなことを聞かれるとは心外です。誰よりもアイリス様の力になりたいと尽力してきましたのに、私の忠誠心をお疑いですか?」

思わずむっとしてしまう。
彼女の力に慣れなかったことを惜しみはしても、自らが当主となれなかったと嘆くはずがない。本心からの言葉だと分かったのだろう。どこか呆けたようにアイリス様は言葉を発した。

「爵位を継げなくて、残念だとは思わないの?」

「まさか私が?」

想いもがけない言葉に、目を見開く。
驚かされたのはこちらだというのに、アイリス様はその大きな瞳をパチパチと瞬かせた。しばらくそうやって見つめ合ったのちに、あまりにお互い驚きを隠そうとしないので笑えて来てしまう。

「そこまで驚く話?本当に貴方は変わり者ね」

「お褒め頂き、光栄です」

褒めてはいないわという言葉に、にこりと笑って返す。
心配してくれる彼女には悪いが、爵位を継ぎたいなんて考えてもいない。これまでは彼女と結婚できるのなら、爵位も甘んじて受け入れようと思っていた。だが、所詮彼女の傀儡として動く程度で、伯爵家を牛耳ろうなんて野心もない。

「正直な話、私はずっと子爵家の次男とはいえ、父親がよそで作った子どもですしね。正妻の子である兄は健康ですし、三男、四男といる中で、私の出る幕などありませんよ」

「……それでも、当主の座に魅力を感じないといわれると、複雑なものがあるわね」

自分の父親を思い浮かべたのだろう。苦々しく顔をゆがめた。あまりに素直な表情が可愛らしく、くすりと笑う。

「私はお嬢様に出逢い、婚約できた時点でほとんどの運を使いつくしてしまったので。あと望むのは、少しでもアイリス様と長くともに居ることだけです」

「ふふっ。もしもうちの父親に聞かれたら、後継者問題はどうしたのかと言われそうね」

いたずらっぽく細められた瞳に、再三彼女の父親に言われていた言葉を思い出す。

「嗚呼、あの方は私を優秀な種馬だと言って憚りませんでしたからね」

実を言うと、うちの父親が手を出したのは実母だけではない。
半分しか血のつながらない兄弟姉妹が、それこそ数えきれないほどいる。中には、使用人や娼婦のみならず、貴族の未亡人や既婚者までいるというのだから我が父親ながら嫌になる。あんな人間と血がつながっているだけでも耐えがたいのに、同じ種類の人間だと思われるのは不愉快以外の何物でもない。しかし、今回そこを買われてアイリス様の婚約者に選ばれたのだから、人生とは分からないものだ。

「うちの父親は最低な人間だったけれど、不幸な兄弟が増えなかった点だけは褒めてもいいわ」

「私もまさか、本人を目の前にして『ほかに種を撒いていない優秀な種馬が欲しい』と言われるとは想像もしませんでした。あの時は本当に、どうしてくれようかと思いましたよ」

「そんなこと私が言われたら、ひっぱたいてやるのに」

「私にしてみれば、ある意味幸運でしたから」

私の兄弟は、父親には劣るが女性関係が派手だった。
こんなに身近に悪い例がいるというのに、どうして同じような道を選択するのか分からない。その点、アイリス様の父親は子どもができにくい体質だったのか、彼女に兄弟姉妹はいらっしゃらない。

「アイリス様が受け入れてくださるなら、喜んで務めさせていただきますよ」

気障たらしくウィンクしてみせると、予想外に頬を赤らめられて面食らう。

「……冗談のつもりだったのですが、本気にしてもよろしいのでしょうか?」

グラスを持っているのとは、反対の手へそっと唇を寄せる。
手袋に包まれていない手は少し冷たく、自らの熱を分け与えるようにキュッと握った。

「か、考えておくわ……」

じわじわと、真っ赤に染まっていく顔を至近距離で見ていた私は、掴んだ手を放すのにとんでもない忍耐を強いられることになった。


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