万華鏡商店街

一条 しいな

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 洋吉はうなだれた。お虎は洋吉を気にしないでいるようだった。彼女は洋吉の落胆した様子をみて「三津堂、あんた、どこか当てでもあるんだろう」と適当に言った。三津堂はちょっとばかり考えていたが、ありませんと答えた。
「あんた、面倒だからって」
「いやあ。私は」
「三津堂。おまえ、いろんなところに顔が利くだろう。それでなんとかしろ。あたしに頼るのはよしておくれ」
 冷酷なお虎の言葉に三津堂はやれやれと思ったのか、一応頼んでみますと言った。洋吉は三津堂を救われたような気持ちになった。
 三津堂に連れられ、洋吉は古本屋朝霧に戻った。洋吉は救いを求めるように三津堂を見た。ささやかな晩飯を作る三津堂は「まあ、頼んでみます。その代わり」と言った。
「……紹介料だろう」
 さすがに洋吉にもわかった。少ない駄賃がさらに少なくなるのだ。痛ましい気持ちになるが背に腹は変えられない。むしろ、今回だけの支払いならばよしとする。
 三津堂は手のひらを差し出す。金を払う。
「また収めてもらいます」
「なんだって」
「いや、こんなはした金では困りますと言っています」
「君。それが目的なのか」
「いやあ。三津堂は違います。紹介料はちゃんともらう主義なんです」
「か弱い書生から金をむしり取るのが本心か」
「違います。三津堂はちゃんと紹介をします」
 ふふっと笑いながら三津堂は金勘定をしていた。そんな様子を洋吉は胡散臭いものを見るような目で見ていた。
「明日、ここに来ればいいんだな」
 金を取られて不機嫌な様子を隠さない洋吉に三津堂は気安く「はいはい」と言い出していた。三津堂が酒を買えたのはこういう側面を持っているからだと洋吉は理解した。洋吉は「じゃあ、帰るぞ」と言って外に出た。
 洋吉の夜空は見上げた。星が一つ、また一つときらめいている。輝きは銀色や金色に変わっている。
 そうして紺碧というべき夜空に広がっている。洋吉にはなにかをしたという達成感があった。強いて言えばなにか一歩を進んだ。恋い焦がれているだけの自分から脱出したような気持ちになった。慌てた様子で後ろからスタスタと駆け寄る音がする。振り返ると提灯を持った神川である。
「やあ。元気だったかい」
「今からお帰りで」
 おどけた洋吉をみて神川は静かに笑みを浮かべた。
「はしゃいでいるようだね。なにかいいことがあったのかな」
 男にしては優しい言い方をする神川に洋吉はこういうところを真似した方がいいかもしれないと考えていた。洋吉はまじまじと神川を見つめた。
 優しげな眼差しに洋吉には長い髪を揺らしているように見える。
 長いといっても、肩にかかるくらいに長い訳ではない。普通の坊主頭や短髪より長いのだ。ゆらゆらと髪を揺らすくらいに。
 洋吉は自分が始めるアルバイトについて、神川に話していた。
「それにしても君、割に合わないバイトを始めたね」
「なんだい。藪から棒に」
「家庭教師の方がまだ楽だよ」
 あっと洋吉は叫んだ。そうして頭を抱えてしまった。洋吉の様子をみて「担がれてしまったのかい」と神川は問いかけていた。神川の言葉に洋吉はうなずいた。三津堂にしてやられたのだ。
 三津堂を信頼したためにこんなことが起きたのか、それとも洋吉は呆けたせいかは考えてみると、後者だろう。 
「あの」
「狸」
 愉快そうに神川が言った。洋吉は、はあとため息をついた。言いたいのはそれだったようだが、これからどうしようかと悩ましい問題があった。子供に混じって靴磨きをするのはちょっとばかしばかばかしい気持ちになるが、紹介料を取られる身としてはきちんと真面目に働く以外にないだろう。
「君はお人好しだね」
「まったくだ」
 洋吉は自分でそう思うようだ。大の男が靴磨き、書生の身分でなにができると言っているようなものだ。
「洋吉君、あまり三津堂さんを信用しない方がいいよ」
「君こそ、大滝さんを過信するなよ」
 そう言うが、やはり洋吉には三津堂がなにか考えがあってこんなことをするのではないかと思う。多分自分は一番愚かなのかもしれない。洋吉はそんなことを考えていた。
 また神川はそんな洋吉を不安げに見つめていた。


 朝が来た。秋晴れと言いたいが、しとしと雨だった。洋吉は雨が屋根に当たる音を聞いていた。あの女、喜久子はどうしているのだろうか。そんなことばかり考えていた。くさくさと考えてしまうのはいけないことだと洋吉は考え、雨の中をコウモリ傘一つで歩いていた。傘は重く、空も重く曇って、洋吉の気持ちもじめじめして薄ら寒い。
 洋吉は灰色一色に染まったような雲を見ていた。洋吉の重い気持ちを代弁するかのように雲が盛り上がり、暗く地を染めるようだった。雨の落ちる音もまた悲しい気持ちにさせるようだった。
「あら、あんた」
 それとは反対、真反対の性質ものが洋吉を呼び止めた。喜久子である。彼女は笑いながら軽やかな足取りで水たまりをまたいでこちらに来る。スカートが少しだけ濡れている。洋吉の心は一瞬で太陽が昇ったような心地よさを感じた。洋吉は笑って会釈した。
「おはようございます」
「おはよう」
 喜久子の目がキラキラと輝いている。それがまた洋吉を魅了するなど喜久子には想像できまい。はちきれんばかりの若さが洋吉にはまぶしかった。洋吉も若いのだが、喜久子はえもいわれぬ溌剌としたものがあったからだ。雨の日にも負けない。なんとも言えない健康的な明るさだった。
「かしこまらなくてもよろしいのよ。私、気にしていないから」
「いや。喜久子さん。そうは言っても。あなたはいくつ」
「あら、女性にすごいことを訊くのね」
「あっ。ごめんなさい。そんなつもりでは」
「いいわ。教えても。二十歳よ。あなたは。なんてね。意外と私大年増よ」
「そんなこはありませんよ」
 ふふっと喜久子は笑った。三津堂は魔性の女と言ったが、なにも知らない三津堂が言いそうなことだ。神川も喜久子を知らない。だから魔性の女というのだ。
「結局、教えてはくれませんね」
「そうね。でも女性の年齢を訊くのって大変失礼じゃなくって」
「そうかな」
「そうね。あなたは若いもの、わからないわね」
 くすぐったいと言わんばかりに洋吉の腕は軽く喜久子にたたかれた。そこだけが妙に熱いような気が洋吉にはした。
「あら、気分を悪くしたかしら」
「あなたはまっすぐだ」
 喜久子の顔が一瞬だけ暗くなったような、そんな表情をした。それは洋吉の見間違いかもしれない。そう洋吉は言い聞かせていた。
「昨日も会ったわね」
「ええ会いました」
 そうと喜久子は言った。喜久子は洋吉を傘の中から見上げた。彼女は大振りの傘だった。独り身のくせに男が持つような重たそうな傘だ。彼女は杖を握りしめ、肩に傘が食い込んでいた。洋吉はそれを痛ましく思っていた。
「あら、雨っていやものね」
「とある女性作家は雨が好きだそうです」
「雨が好き。変な人ね」
「雨が世界を洗い流すようだと」
 ふうんと喜久子は言った。喜久子は落ちてくる雨粒を見ていたが、ため息をついた。
「あなた、変よ。雨で洗い流しても世界は変わらない。理不尽な世の中よ」
「喜久子さん?」
「私の目にはいつも悲しく映るわ。雨は」
「そうですか」
 洋吉は暗い目をした。洋吉にも思うところがあるのか黙っている。洋吉が考えていると気がついて喜久子は笑いかけた。
「ごめんなさい。あなたには関係のないことよ。だってあなたは未来が明るい若者じゃない」
「いえ。若いだけです。私はなにもできずにいる。少しだけ前に進めただけ」
「そう。じゃあこれからよ。なにごとも生きているうちよ」
 パンパンと肩をたたかれた。喜久子は笑うのだ。美しい顔(かんばせ)がさらに美しいものになるように洋吉は思えてならなかった。それは洋吉自身不思議だった。
 姉のようであり、母親のような包容力にあふれているからか。
 洋吉は母が恋しいわけではない。珍しくそんなことを考えていた。言葉にするには難しく、体感してしまえば簡単である。洋吉の胸にあるときめき、喜び、幸せ、不安、怯えが一緒になって彼の心を刺激していた。
「喜久子さん、また会えませんか。私、アルバイトを始めたんです」
「アルバイト。バーとか」
「いいえ。あの」
 恥ずかしくなった洋吉は靴磨きとは言えなくなった。そんな洋吉に「なにかほしいものがあるのね」と楽しげに言われた洋吉はあなたですとはさすがに気障であると気がついた。
「ええ。まあ」
 曖昧に濁す洋吉に喜久子は言った。
「あまり無理にせず」
 そう言ってじゃあねと立ち去ってしまった。喜久子に会えたことの喜びでまた会える約束の返事は聞くことすらできずにいた。洋吉は一人になって幸せなため息をついた。
 雨が美しいと洋吉は思った。雨こそ至上の音楽だと彼は思っていた。雨の調べに乗せながら彼は下宿先に向かうのだ。

「タラタラしているんじゃありませんよ」
 いきなり女将さんに怒鳴られ、洋吉は目が覚めたようなまばたきを繰り返した。また薄ぼんやりとした洋吉に戻ってしまったのだ。茶碗を持ったまま、まるで話を聞いていない洋吉に女将さんがじれたのだ。
「洋吉さん。朝ご飯を片付けないとこちらも困りますがね。今度は自分で用意してもらいますよ」
「すみません」
「謝るくらいなら、ご飯を食べてくださいね」
 まったくもうと言いながら女将さんは自分が食べたものを片付けていた。
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