万華鏡商店街

一条 しいな

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 ぼんやりした頭では仕事はできまいと言って洋吉は洗面所で顔を洗う。彼の頭には喜久子がいた。頭の中の喜久子は笑いかける。それだけで洋吉の胸が高鳴った。少しだけまともになった頭で洋吉は三津堂の待つ古本屋に行く。雨は相変わらずよく降った。
 黒い雲が頭上に際限なく広がっている。町も人もそれから逃れる術はないかのようだ。洋吉は浮き足立っていた。まさかこんな日に靴磨きはしないだろうと。
 古本屋朝霧は住居の襖を開けると、部屋の中で火鉢を手であぶっている三津堂がいた。その隣には老婆がいた。腰は曲がっているが、頭の働きがしっかりしたような顔つきをしている。この雨のせいで気温が一気に下がっていた。洋吉は背中に冷えた空気を感じ、くしゃみをした。
「おはようございます。お世話さまです」
 小さくなって洋吉がいうと三津堂と老婆は顔を上げた。二人の目が一瞬キラリと光った。そのように洋吉には思えた。彼らは二人ともまじまじと洋吉を見ていた。老婆はわかるが、なぜか三津堂も見つめてくるのは不思議だった。
「かわいそうに」
「ええ」
 三津堂達がいう。なにがかわいそうなのか説明してほしいと洋吉は思った。二人ともそれ以上はなにも言わなかった。
「あの」
「ああ、わかっている。うちの市で働きたいんだね。三津堂の紹介じゃあわしも断れない」
「はあ」
「ああ、それとあんた、気をつけた方がいいよ」
「なにを」
「うちの市でもどこの市でもそうだけど掏摸や強盗がはやっているから」
 なるほどと洋吉は考えていた。あの老婆と三津堂の会話などすっかり忘れていた。
「場所代もらうからね」
 釘を刺されてしまった。洋吉は、はいと返事をして力なくうなずいていた。三津堂を見つめると三津堂は平然としていた。
「紹介料もお願いしますよ」
 実にがめついところを見せていた。洋吉は喜久子の顔を浮かべた。喜久子のためならなんとしても働いて、喜久子に楽をさせなければいけない。
「それであんた、金をためてどうするんだい」
 老婆は不思議そうに言っていた。二人は雨の中を歩いていた。洋吉はまた考えていた。まるで白紙に文をしたためるような心地がした。
「そりゃあ喜久子さんにおいしいものを」
「ふーん」
 ありきたりである洋吉は考えていると「喜久子さんって、そんなにいい女なのかい」と意地悪そうな顔をして老婆が言った。洋吉は内心面白くなかったが、はいと答えた。
「へえ」
 バカにするように老婆が言った。
「三津堂も大変だあ」
 そう老婆が言った。洋吉はへそを曲げたくなる自分を必死に抑えていた。洋吉は歩いていく。
 道は歩きにくい。ぬかるんでいる。着物を端折っている人もいた。女も男も同様だった。洋服の洋吉は服を汚していた。
「いやになるね。雨は」
「はい」
「でもがんばるんだよ」
 改まって老婆がいう。市の人ごみを見ながら、洋吉は狭い一角。お世辞にもきれいとは言えない子供達が集まる場所に来た。子供達は黙々とカビ臭いパンをかじっている。目玉だけ光らせている。
「新入りだよ」
「洋吉です。よろしくお願いします」
「よろしく」
 友好的とは言えないが、ちゃんと返事をしてくれた。洋吉はほっとした。子供達はまるで大人がするような目つきで洋吉を上から下まで見つめていた。
「あんた、学生さん」
「ええ」
「まあ、珍しい」
 そう言われた。女の子もいるようだと洋吉はようやく気がついた。洋吉はしばらく黙っていたが、キョロキョロと辺りを見回していた。彼はどこが持ち場になるかわからなかったからだ。
「あんた達、いじめちゃだめだよ」
 そう言うと老婆が歩いていく。傘を閉じて中というか、屋根に入る。子供達は洋吉を迎え入れた。
「兄ちゃん。なんでこんなところに」
「いやあの」
「女か」
 無遠慮な言葉に洋吉が戸惑っていた。彼らにはデリカシーがないのかと思うが、子供だから仕方のあるまいと洋吉は考え直した。そんな洋吉を少年は哀れんだような目つきをみていた。
「いい身分だな」
 まるで大人がいうような口振りだった。兄ちゃんと言った少年は顎で指図する。あそこにすわれというようだった。大人が子供に混じって靴磨きをする。現代では大人の靴磨きが多かったが、洋吉のいた時代にはたくさん子供が稼ぎに出ていた。
「洋吉さんって女の人とどういった仲なの」
 女の子が言った。こんな雨の日では商売あがったりだ。子供達は不平や不満を言わず、彼らが声を上げて客を寄せようとしても客はなかなか集まらなかった。
「今日はやめだ。帰ろう」
 夕方頃少年はヤケクソに言った。舌打ちした彼は寒そうな顔でいた。洋吉も寒かった。洋吉の顔を見つめていた少女はニコッと笑った。
「洋吉さんって宿無しなの」
「いや。下宿先がある」
「まだ追い出されていなかったのね」
 良かったと少女は言った。少しだけませているが、心の優しい少女なのだろうということに洋吉は気がついた。今日の稼ぎは少しばかり、場所代を払うのが精一杯だった。
「あら、洋吉さん」
 喜久子がいた。コウモリ傘をかぶっている。とたん洋吉は顔を赤らめた。喜久子は洋吉と子供達に気がついた。子供達は喜久子に見とれている。
 雨の中を喜久子は嫣然とした。洋吉は雨が嫌いと言った喜久子の知らない一面を見たような気がした。喜久子は笑って「キャラメルがあるわよ。はい。みんなで食べてね」と子供達にキャラメルの黄色い箱を一つずつ渡す。子供達は目をきらきらさせた。
「ありがとうございます」
 うわずった声で少年は言った。少年に目線に合わせた喜久子はまた笑った。それは人好きをしそうで媚びたような笑い方だった。それが鼻につくのは少女くらいだろう。
「いいのよ。寒いでしょ。これであったまって」
 喜久子に言われた子供達は嬉しそうな顔をして駆け出した。少女はちょっとだけ怯えたような顔をした。
 喜久子が少女に笑いかけると少女は逃げるように走って行った。
「洋吉さん。びっくりしたわ」
「えっ」
「靴磨きなんて」
「いえ」
 恥ずかしそうにする洋吉に対して喜久子は別になんとも思っていないそぶりである。洋吉には意外だった。喜久子は楽しげな声で言った。
「洋吉さんって、とっぴよしもないことをするのね」
 洋吉は笑った。冷や汗が出てくる。洋吉はしばらく黙っていた。
 傘をさした二人は肩を並べ歩いていく。傘が雨粒をはじく音がよく聞こえた。
「それにしてもなんでアルバイトを」
「いえ。それは」
「私のため?」
 自信がたっぷりと喜久子が言った。
 また洋吉の顔は赤くなった。彼の様子で満足したのか喜久子はうなずいた。そうと言ってそれ以上なにも言わない。洋吉にとってはつらい時間だった。彼にとって相手がなにを考えているのかさっぱりわからなかったからだ。しかし、喜久子はそんな洋吉に知らん顔をして歩いていた。
「洋吉さん。私になにをくれる」
「なにって」
 喜久子が挑発的に笑いかけていた。洋吉はなにも考えていないことに気がついた。金を稼いで、それからそれからと洋吉は考えていたのだが、頭の中が真っ白になっていた。洋吉の様子に、喜久子は笑った。鮮やかな、朱色を見たような気がした。それは襦袢のような気がした。
 はっと気がつくと朱色のハンカチで喜久子は洋吉の体を拭っていた。冷たいはずの体は熱く、洋吉はハンカチを奪って、裸のまま喜久子に口づけた。


 ぼんやりとした顔である。洋吉は朝帰りをした。洋吉の顔を見るなり、神川は眉間のしわを寄せていた。
「いいご身分だね」
 珍しく神川が皮肉めいた口調で彼をなじるように言っていた。神川の言葉を聞いているのか聞いていないのか、洋吉はぼんやりとしたまま、自分の部屋に入った。そのまま襖を閉めた。
 洋吉の目には神川の顔など浮かんでいなかった。若い肉体は肉欲に支配された。喜久子の体を思い浮かべる。それに対して誰もとがめるものはいない。喜久子は仕方なしに返してくれた。
「また遊びにいらっしゃい」
 そう彼女は洋吉に言った。洋吉の目に映るのは喜久子だけだった。喜久子の笑みを見つめているだけで彼は幸せだったが、今は違う。触りたい、触れ合いたい。そうして結ばれたいのだ。
 洋吉は横になり、目をつぶる。そうすれば喜久子に会えると思っているかもしれない。彼の柔らかい心は喜久子によって、激しい嵐となって気持ちがぐるぐると駆け巡っていた。肉欲が彼をそうするのかは、彼にはわからない。
 目覚めた洋吉はふらふらと食事もせず街に繰り出していた。女将さんは気がついたが、気がつかないふりをした。女将さんをはため息をついた。
 女将さんは知っていたのかもしれない。ああなった男の正気はなかなか戻らないと。
 洋吉はそんな女将さんの視線に気がつかずにふらふらと歩いていた。彼は市に向かった。ぬかるんだ道も気にもせず。洋吉は汚れた。混雑とした道である。人ごみで押したり押されたりした。掏摸もいた。そんな中を洋吉は歩いていた。
 洋吉の目は虚ろである。洋吉にはそんな意識はなかった。自分は平常であると思っていた。
 洋吉はなんとか道を歩いた。市のあの場所、靴磨きに行くと少女がペソをかいていた顔で洋吉を迎えた。
「おはよう」
「洋吉さんもあの魔女にやられたのね」
「なにを言っているんだい。私はそんな魔女なんて会ったことはないよ」
 少女の泣いた声でようやく洋吉は顔を上げた。
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