羅針盤の向こう

一条 しいな

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 ラーメン屋に入る前に店の前で喜一さんが店をやめること、新しくお店に職人が来ることを鈴さんは話をした。おばちゃん達は驚いていなかった。表面上は驚いているが、実際には知っていたのだろう。
 喜一さんに話しかけている。花束を用意しなきゃねという話になっている。いつ辞めるのとか鈴さんと話している。僕は喜一さんの隣にいた。喜一はあくびをしている。
「新しい職人が来て、新しいものができるようになる」
「えっ」
「姉貴の知り合い。またできるんじゃないか」
「?」
「まあ、わからないか。男と女の関係になるんじゃないか」
「そんな訳ないですよ」
「わからないぞ? おまえだって、成長すれば」
 僕の心の中にトゲが刺さる。それは自分が意識しているトゲなんだと気がついた。自分自身から放たれるトゲ。
「僕はそんなことしません」
 おっと、言われた。店に入るらしい。おばちゃん達に鈴さんが「醤油ラーメンだからね」と言っている。そうして、僕は鈴さんの隣、喜一さんの隣に座っていた。つまり、僕を真ん中にして、二人が座っている。
「緊張する?」
 鈴さんがいたずらめいた口調で聞いてくる。赤いテーブル、カウンター席に座って、僕らは店員さんの湯切りを見ていた。
「いえ」
 おばちゃんもカウンター席に座っている。三人いれば、かしましいのは確かだ。夕方過ぎの、店の中は夜になる前に来たせいか、サラリーマンくらいしかいない。
「さっさっと食べて帰るぞ」
 そんな会話をしている。ラーメンの食べていると鼻水をすする。鈴さんはおばちゃんと話している。喜一さんはちらりと僕を見ていた。僕の目の顔をまじまじと見た。
「なんですか?」
「意外と整っているな」
「失礼ですよ」
「まあ、彼女に言われないか。かわいいって」
「言われます」
「だろうな」
 訳がわからないと僕が思っている。そんな気持ちが伝わったのか、喜一さんは苦笑していた。
「悪い。かっこいいよな。普通」
「喜一さんはワイルドですね」
「ああ、そう」
 あまり言われて慣れていないのか、喜一さんはちょっとだけはにかんだ笑顔を見せていた。喜一さんと僕はラーメンを食べていく。
「鈴さんの顔に似ていませんね」
「ああ、似ていない。よく言われるが、血は繋がっているぞ」
 そんなことを話していた。しばらく、黙っていた。怒っているのかな、と僕は考えていた。僕はなんとなく、そんなことを感じ取っていた。そんな僕を喜一さんが変わりない態度だったことに、ほっと安心した。
 外に出ると、温かい風、生ぬるい風がジャケットから入り込んでくる。
「春ですね」
 春眠暁を覚えずという言葉が頭に巡っていく。
「眠くなるんだよな」
 ブラックのガムを食べる喜一さんがいた。今日も車らしい。そんなことがわかる。春の騒がしさが体に伝わるのか、僕はソワソワした気持ちになっていた。
「なにか、お祝いをしたいですね」
「いらない」
「別に、な。いいんだよ。そんなもん」
「そうですか」
「俺はおまえになにもしていない」
「そんなことないです」
 僕の言葉に喜一さんは笑いかけていた。それがたまらず、喜一さんらしくないと感じていた。そう、いつもだったら苦笑なりなんなりしてくれるというのに、今日は優しいと感じた。別れが近いからか。そんなことを意識させる。
「僕は、いっぱい」
 視線を感じたおばちゃんたちの目と目が合う。僕は恥ずかしくなり、顔を赤くしたのが自分でもわかる。おばちゃんは笑っている。それがなんとなく恥ずかしい。 
「まあ、いいじゃない。私達もプレゼントあげる余裕はないのよ」
 残念ねーと言われた。なにが残念なのか、僕にはわからない。ただ喜一さんが、仕方がないと言われた。
「拓磨は学生なんだろう。仕方がないよ。そういうの、慣れていないんだよ」
 鈴さんのフォローが優しく聞こえる。本当になにをやっているんだろうと僕は思う。僕の気持ちが空回りしているのがわかる。
「ありがとうございます。ただ、お世話になったので、寂しくて。同じ男だし」
「あー、なるほど」
 納得されてしまった。多分寂しい気持ちが想像できるのだろう。どんな人が来るのかわからない不安がそうさせるのだ。そんな話、それだけじゃないということはわかってほしいけど、それは言葉にするのはちょっと難しい。
「あと、お世話になったからです。本当に。本当に」
 そういう僕を喜一さんはキョトンとした顔をした。鈴さんはちょっと笑っている。そんな僕はちっとも伝わらない気持ちに戸惑っていた。
「ありがとう。気持ちだけで十分だから」
 僕は気持ちが落ち着かない。おばちゃんはなぜか、まぶしそうに僕をみていた。


 学校が始まる。それで、パソコンを起動させていた。パソコンの画面に授業内容が書かれている。結構詳細な内容。予約する。そうして、時間割を作る。応用的な内容の授業も増えてきた。
「疲れた」
 夜に会いたいと思った。恋する乙女かと思うのだが、ライブに行けば話せるわけではない。楽屋に気軽に行けるわけではない。そう、僕は男だから。そんなことを考えると胸が張り裂けそうになる。迫害を受けているような気持ちになる。
 まだ女と男が当たり前なのかよと思う。カミングアウトが正しいとは限らない。知りたくないことも人もある。カミングアウトで変わるならばその程度、もっと人を見なかったおまえが悪いと言われる。それが当たり前だ。
 実際に受け入れている人は少ない。僕は僕である、そう思っても受け入れてくれる人がいない。言っていないから当たり前だ。
 スマホのメッセージが来た。真澄ちゃんからと書かれている。
『授業決めた?』
「決めた」
『あんた、共通の授業のクラスは?』
「えっと」
 パソコンを操作すると、出てきた。
『あら、私と一緒ね』
「また小説のモデルにしたいなんて言わないよね」
『言わないわよ。なかなかいい感じだったけど』
 なにがいい感じなのか、僕はあえて問わないことにすることにしていた。不吉な予感がする。
『あんたさ。成績どうだった?』
「まあまあ」
 そんな会話を僕らはしていた。
「真澄ちゃん。やっぱりプレゼントは食べるものがいい?」
『なによ、いきなり。私にプレゼント?』
「違う。プレゼントをあげたい人がいるんだ」
『ふーん、なに、男?』
「バイトの上司」
『なに、なに。気になる人』
「違うよ」
 そう書いた僕に、ふーん、と気のないような返事を真澄ちゃんがいた。戸井田に聞けばいいのだろうかと考えていた僕に真澄ちゃんは『お菓子とかでいいじゃない。手作りの』と冗談なのか、意地悪なのか、わからないことを言い出す。僕はスマホを持ったまま、がっくりと肩を落とした。
「そういうの、重い」
『やっぱり』
「もう、真澄ちゃんに聞いたのが間違いだとわかった」
『そうね。自分で考えて』
 最初からそのつもりなのか、真澄ちゃんはそんなことをあっさり書いている。なにか、プレゼントはお菓子になった。別に安いやつでもいいかもしれないけど、なぜか味気ないと思う。ちょっと奮発したところにしようと思う。
「疲れた」
 真澄ちゃんのパワーに圧倒されたのだとわかる。真澄ちゃんは元気だな、新たなターゲットを探しているのかなと僕は考えていた。
 夜だったらなにが欲しいのか、考えていた。夜のメッセージを確認する。僕はメッセージを送る。たいしたものではない。今日あったことを書いただけ。夜は既読されたままだった。今更気にしない。寂しさはあるのだ。
「まあ、いいか」
 ラジカセのラジオをつける。イヤホンをつける。明るい曲が流れる。春に近いから懐かしい曲も流れる。知らない曲も流れる。ちょっと新鮮だった。
「メッセージが届いた」
 スマホを見ると、夜からだ。前期の授業の勉強をしていたら、それにようやく気がついた。
『あげなくていい』
 それだけしか書いていない。
「なにを?」
 それ以上返事は来なかった。そんな夜が僕は考えていた。まさか、嫉妬しているのか。
「ただ、お世話になっただけ。相手は彼女がいる人だよ」
『じゃあ、俺になにかプレゼントを送れ』
「そんな予算はない」
 そんなことを書いていた。知らんと書いていた。夜との喧嘩ではないが、しばらくしてから『やるな。勘違いする。おまえはかわいいから、勘違いされる』と書かれていた。
「そんなことはない」
『オサッンだろう。よくない』
「だから、違う」
『違わない』
「俺は夜しか見ていない」
『うん。ならいいけど。捕まるなよ』
 フラフラしているから心配なんだよと書かれていた。玉部先輩にも同じことを言われた。そう書きたかったが、我慢した。また、なにを言い出すのかわからない。
「気をつけます」
『気をつけろよ、おまえ、無駄にかわいいから』
 無駄って、失礼だなと僕は考えていた。そんな僕に夜は『なにをあげるんだ?』と問いかけていた。
「えっと、お菓子」
『手作りか』
「女子か。違う。デパ地下で売っているような、ものを」
『気合い入っているんじゃん』
「いや、そういうわけでは」
『ちょっとしたものでいいんだよ』
 相手も萎縮すると書かれるとそうかもしれないという気持ちが大きくなる。そうかなと思う。
『差し入れ程度でいいんだよ』
 そういうものかなと僕は考えていた。

 
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