スープの冷めない距離

柿本梨緒音

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スープの冷めない距離

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スープの冷めない距離

――佐渡島・一家殺害未解決事件

三月の佐渡島に、季節外れの雪が降った。
朝になっても気温は上がらず、森に囲まれた私有地は、白く湿った沈黙に包まれていた。
枝に残った雪は、溶けきらないまま、重く垂れ下がっている。


島の北部、道路から外れた場所に、二軒の家が並んで建っている。
一軒は、夫婦と子ども二人が暮らす住宅。
もう一軒は、その隣に建つ、母親の家だった。
いわゆる「スープの冷めない距離」。
鍋に火をかければ、湯気が消える前に、隣へ運べる距離である。

午前七時。
第一発見者は、隣家に住む六十歳の女性だった。
事件当日の朝も、彼女はいつもどおり台所に立ち、鍋を温め、器に朝食をよそったという。
湯気の立つ皿を両手で抱え、慣れた足取りで、娘の家の勝手口へ向かった。

呼びかけても返事がなく、家の中は異様なほど静まり返っていた。
生活の途中で途切れたような気配だけが残り、人の気配はなかった。

通報を受けた警察が現場に到着したとき、家族四人はすでに死亡していた。
争った形跡は少なく、家屋の外に荒らされた様子もない。
近隣に住民はおらず、森と雪が、音も足跡も吸い込んでいた。

検視の結果、死亡推定時刻には大きな幅が生じた。
低温と降雪の影響により、正確な時刻は特定できなかった。
深夜だった可能性も、未明だった可能性も否定できない。
雪は足跡だけでなく、時間そのものを覆い隠していた。

第一発見者は、事件当夜、医師から処方された睡眠導入剤を服用して就寝していたと説明している。
その医師は島外の病院に勤務しており、診療は月に一度だった。
服用量も、就寝時刻も、記録上は適切とされている。
夜間に物音や異変があったとしても、気づかなかった可能性がある――
そう説明することを、否定する証拠はなかった。
同時に、それを裏付ける決定的な証拠も存在しなかった。

彼女は被害者の母であり、高齢の女性でもあった。
明確な犯行を示す物証がない以上、捜査は彼女を被疑者として扱うことができなかった。
合鍵の有無や、鍵交換の経緯についても確認は行われたが、
それらはいずれも、参考事項として記録されるにとどまった。

捜査は外部犯行の可能性を中心に進められた。
だが、第三者の侵入を示す決定的な痕跡は見つからない。
時間が経つにつれ、再検証できる事実は少しずつ失われていった。

そして――
彼女について、警察が辿れなかった時間がある。

過去の記録は断片的で、生活歴にはいくつかの空白があった。
その理由が問われることはなく、問われなかった理由も、記録には残っていない。
捜査は、彼女を疑わなかったのではない。
疑い続けることが、できなかったのだ。

記録は、ここで終わっている。

事件は未解決のまま、年月だけが過ぎていった。

第一の問い。
その朝は、本当にいつもと同じだったのか。
決まった時刻、決まった動線、決まった行動。
それは変わらなかったのか、
それとも、変えなかっただけなのか。

第二の問い。
合鍵は、本当に問題ではなかったのか。
確認できなかったことと、存在しなかったことは、同じではない。
だが、それを区別する術は、もはや残されていない。

第三の問い。
この距離は、近すぎたのか。
守るための距離だったのか。
支配するための距離だったのか。
あるいは、逃げ場のない距離だったのか。

事件は、解決されていない。
ただ、誰もが、
手の届く場所にいた。
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