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廃車
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一年と三ヶ月が経った。
アルファードの革シートは新車の匂いを失い、埃が薄く積もり始めている。
私は毎朝バックミラーで自分の顔を見る。
穏やかだ。
いつもの井口正和の顔。
会社は細々と続いている。
部下は減った。
残った者たちは俯いて「はい」とだけ答える。
私は優しく言う。
「もっと笑顔を増やしていこうか」
夜、地元の居酒屋に歩いて行く。
店主が笑う。
「奥さん亡くなってから、随分と車もお立場も立派になりましたね」
私はグラスを傾けながら答える。
「ええ、少しずつ立ち直ってますよ」
右手はグラスを握ったまま、静かに震えていた。
あれから、一年は経っている。
警察は逮捕しない。
アリバイは完璧。
逮捕出来るはずがない。
事件後は、新車に乗り換えた。
ナビの履歴を確認できないように。
古い車はすぐに廃車にした。
あの日のナビ設定も、ドラレコのデータも、すべて処分した。
廃車場で解体されるのを見届けたから、もうどこにも残っていない。
私はそう思い、安心した。
命日の朝、会社で引き継ぎノートを開く。
妻が最後に書いたページ。
几帳面な字で借金の残高が並ぶ。
最後の行に赤ペンで丸く囲まれた8000万。
ノートを閉じる。
棚に戻す。
鍵をかける。
その日の夕方、アルファードで高速道路を走る。
百キロ先のあの旅館へ。
フロントの女性が微笑む。
「またいらっしゃいましたね」
部屋でベッドに座る。
革の手袋をはめた右手が、自分の喉元に伸びる。
硬い。
脆くない。
鏡の中の顔は穏やかだ。
翌朝、チェックアウトを済ませ、駐車場に向かう。
アルファードの前に、黒いセダンが二台停まっていた。
スーツ姿の男が二人、私の車に寄りかかるように立っている。
私はゆっくり近づいた。
右手が震える。
一人が静かに言った。
「井口正和さんですね」
私は頷く。
もう一人が名刺を差し出す。
刑事課。
「任意ですが、署まで同行していただけますか」
私は微笑んだ。いつものように。
「わかりました」
車に乗り込み、警察のセダンの後ろについて走る。
県警本部に向かう道を進む。
右手はハンドルを握ったまま、静かに震え続けている。
署に着き、取調室に通された。
机の上には、ファイルが置かれている。
顔馴染みの担当刑事は、穏やかに言う。
「廃車にした車両からカーナビ本体を回収しました。
解体前に業者から押収し、フォレンジック解析で、削除された走行履歴が復元されました。
自宅から百キロ離れた旅館から自宅までの、地元道経由のルート。
峠を三つ越える道。
自宅近くを通った時刻。」
井口:……廃車の車から?
それは、解体前に押収したってことですか。
でも、廃車場で解体されるのを見届けたんですよ。
データは全部消したはずです。私は知りません。
そんな古いデータが復元されるなんて、ちょっと信じられないですね。
業者側が勝手にデータを改竄したとか、誤解じゃないですか?
刑事:ドラレコにナンバーなしの車両が映っていました。
井口:ナンバーなし……映像が不鮮明で、ナンバーが読めないだけじゃないですか?
同型車は全国に何万台もあります。
私の当時の車はシルバーですし、夜道で似た車が映っただけですよ。
「ナンバーを外した」と決めつけるのは、映像の解像度を無視した推測ですよね。
証拠として成立するレベルじゃないと思います。
刑事:往路は地元道でナンバーなし、復路は高速でナンバーあり。
同じ特徴の車が同日深夜0時~午前5時までの間、往復二百キロ区間で確認されている。
井口:往復二百キロ……それが私だという証拠を提示してください。
ナンバーを外す方法は知りません。そんな面倒で危険なことは誓ってしません。
映像のタイミングがずれていたり、別の車が混ざって映っていたりする可能性の方が高いんじゃないですか?
映像元の信憑性を確認した方がいいと思いますよ。
刑事:自宅の指紋が一部だけ不自然に拭き取られていました。
井口:指紋が拭き取られていた?
妻は本当に几帳面で、金庫やドアノブは毎日アルコールで拭いてました。
私が拭くことは、人生で一度も、誓ってありません。
物盗りが入ったなら、犯人が自分の指紋を拭いたのでしょう。
妻の掃除癖を知ってる人間なら、誰も不自然とは思いませんよ。
むしろ「犯人が拭いた」と考えるのが自然じゃないですか?
刑事:保険金が入り、借金を返済し、高額のミニバンをキャッシュで買ったことは?女遊びも相変わらずらしいな。
井口:保険金は妻が命をかけて残してくれたものです。
借金は妻の実家からのもので、彼女も「早く返したい」と言っていました。
返済できたのは結果的に助かりました。
車は……残された家族で使うために必要だったんです。
古い車で我慢してきましたが、妻がいなくなってから、二人の子供と過ごす時間を作ろうとしました。チャイルドシートが必要な年齢なので、ミニバンにしたんです。
キャッシュで買ったのは、ローンを組むより金利を節約しただけです。
「贅沢」なんて、そんなつもりは誓ってありません。
女遊びではなく、あれは秘書です。妻が亡くなってから、女房役として雇いました。
普通に家族を守ろうとしただけですよ。
これを「動機」って言うのは、因果関係を無理にこじつけているだけだと思います。
刑事:すべてが偶然で説明できるんですか?
井口:はい。
すべて、誓って偶然の積み重ねです。
私はただ、普通に、穏やかに生きてきただけです。
周囲の人間に聞いてみてください。私は真面目で穏やかで、家族思いと評判です。
これ以上、何を言われても……本当に困りますね。
誤解を解いていただきたいです。
(右手が、机の下で静かに震えている)
刑事は微笑む、穏やかに。
「わかりました。では、引き続きお話を伺います」
私は頷いた。
これでいいはずだ。
夜明けは、まだ来ていない。
アルファードの革シートは新車の匂いを失い、埃が薄く積もり始めている。
私は毎朝バックミラーで自分の顔を見る。
穏やかだ。
いつもの井口正和の顔。
会社は細々と続いている。
部下は減った。
残った者たちは俯いて「はい」とだけ答える。
私は優しく言う。
「もっと笑顔を増やしていこうか」
夜、地元の居酒屋に歩いて行く。
店主が笑う。
「奥さん亡くなってから、随分と車もお立場も立派になりましたね」
私はグラスを傾けながら答える。
「ええ、少しずつ立ち直ってますよ」
右手はグラスを握ったまま、静かに震えていた。
あれから、一年は経っている。
警察は逮捕しない。
アリバイは完璧。
逮捕出来るはずがない。
事件後は、新車に乗り換えた。
ナビの履歴を確認できないように。
古い車はすぐに廃車にした。
あの日のナビ設定も、ドラレコのデータも、すべて処分した。
廃車場で解体されるのを見届けたから、もうどこにも残っていない。
私はそう思い、安心した。
命日の朝、会社で引き継ぎノートを開く。
妻が最後に書いたページ。
几帳面な字で借金の残高が並ぶ。
最後の行に赤ペンで丸く囲まれた8000万。
ノートを閉じる。
棚に戻す。
鍵をかける。
その日の夕方、アルファードで高速道路を走る。
百キロ先のあの旅館へ。
フロントの女性が微笑む。
「またいらっしゃいましたね」
部屋でベッドに座る。
革の手袋をはめた右手が、自分の喉元に伸びる。
硬い。
脆くない。
鏡の中の顔は穏やかだ。
翌朝、チェックアウトを済ませ、駐車場に向かう。
アルファードの前に、黒いセダンが二台停まっていた。
スーツ姿の男が二人、私の車に寄りかかるように立っている。
私はゆっくり近づいた。
右手が震える。
一人が静かに言った。
「井口正和さんですね」
私は頷く。
もう一人が名刺を差し出す。
刑事課。
「任意ですが、署まで同行していただけますか」
私は微笑んだ。いつものように。
「わかりました」
車に乗り込み、警察のセダンの後ろについて走る。
県警本部に向かう道を進む。
右手はハンドルを握ったまま、静かに震え続けている。
署に着き、取調室に通された。
机の上には、ファイルが置かれている。
顔馴染みの担当刑事は、穏やかに言う。
「廃車にした車両からカーナビ本体を回収しました。
解体前に業者から押収し、フォレンジック解析で、削除された走行履歴が復元されました。
自宅から百キロ離れた旅館から自宅までの、地元道経由のルート。
峠を三つ越える道。
自宅近くを通った時刻。」
井口:……廃車の車から?
それは、解体前に押収したってことですか。
でも、廃車場で解体されるのを見届けたんですよ。
データは全部消したはずです。私は知りません。
そんな古いデータが復元されるなんて、ちょっと信じられないですね。
業者側が勝手にデータを改竄したとか、誤解じゃないですか?
刑事:ドラレコにナンバーなしの車両が映っていました。
井口:ナンバーなし……映像が不鮮明で、ナンバーが読めないだけじゃないですか?
同型車は全国に何万台もあります。
私の当時の車はシルバーですし、夜道で似た車が映っただけですよ。
「ナンバーを外した」と決めつけるのは、映像の解像度を無視した推測ですよね。
証拠として成立するレベルじゃないと思います。
刑事:往路は地元道でナンバーなし、復路は高速でナンバーあり。
同じ特徴の車が同日深夜0時~午前5時までの間、往復二百キロ区間で確認されている。
井口:往復二百キロ……それが私だという証拠を提示してください。
ナンバーを外す方法は知りません。そんな面倒で危険なことは誓ってしません。
映像のタイミングがずれていたり、別の車が混ざって映っていたりする可能性の方が高いんじゃないですか?
映像元の信憑性を確認した方がいいと思いますよ。
刑事:自宅の指紋が一部だけ不自然に拭き取られていました。
井口:指紋が拭き取られていた?
妻は本当に几帳面で、金庫やドアノブは毎日アルコールで拭いてました。
私が拭くことは、人生で一度も、誓ってありません。
物盗りが入ったなら、犯人が自分の指紋を拭いたのでしょう。
妻の掃除癖を知ってる人間なら、誰も不自然とは思いませんよ。
むしろ「犯人が拭いた」と考えるのが自然じゃないですか?
刑事:保険金が入り、借金を返済し、高額のミニバンをキャッシュで買ったことは?女遊びも相変わらずらしいな。
井口:保険金は妻が命をかけて残してくれたものです。
借金は妻の実家からのもので、彼女も「早く返したい」と言っていました。
返済できたのは結果的に助かりました。
車は……残された家族で使うために必要だったんです。
古い車で我慢してきましたが、妻がいなくなってから、二人の子供と過ごす時間を作ろうとしました。チャイルドシートが必要な年齢なので、ミニバンにしたんです。
キャッシュで買ったのは、ローンを組むより金利を節約しただけです。
「贅沢」なんて、そんなつもりは誓ってありません。
女遊びではなく、あれは秘書です。妻が亡くなってから、女房役として雇いました。
普通に家族を守ろうとしただけですよ。
これを「動機」って言うのは、因果関係を無理にこじつけているだけだと思います。
刑事:すべてが偶然で説明できるんですか?
井口:はい。
すべて、誓って偶然の積み重ねです。
私はただ、普通に、穏やかに生きてきただけです。
周囲の人間に聞いてみてください。私は真面目で穏やかで、家族思いと評判です。
これ以上、何を言われても……本当に困りますね。
誤解を解いていただきたいです。
(右手が、机の下で静かに震えている)
刑事は微笑む、穏やかに。
「わかりました。では、引き続きお話を伺います」
私は頷いた。
これでいいはずだ。
夜明けは、まだ来ていない。
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