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忘却の河のほとりには

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 以前だったら、ムッとしたその態度も今は気にならない。なぜなら、自分のこの身には――ラシュレスタが下腹部に手を置き、ひっそりと口角を上げた。

 「結構です。ご用が特にないと言うことでしたら、これで・・・」

 魔鏡にかけてある紐を引こうとする。

 「こ、こらぁ・・・待ったぬか。な~にをいっておるのだぁ~ そなたは~ だから、いつ戻ってくるのだ。魔界司令官の職務をなんだと思っておる」

 「その職務もヴィクトシェンダ殿に譲ったつもりですが・・・」

 「アレがそんな面倒くさい肩書きを背負うか。いいから戻ってきて、我の愛妾になれぇ~ そろそろ我に抱かれぬか~」

 「ご容赦を。では・・・」

 ラシュレスタが紐を引っ張った。その合図とともに、バケツを手に上部で待機していた分身たちが一斉に、シャッ・・・と聖水を上から流す。

 途端に、透明なベールが一気に遮断した。漏れ出ていた邪気をラシュレスタが霊気にくるんで、取り入れる。

 魔界公爵の変化を保つには、そして、ややすれば聖に偏りすぎてしまう、この地のバランスを保つためには、多少の魔気が必要なのだ。

 「ルーカ、ルリシュラのところに行って、ラ・シャルス・シュレスタ・ティーヤの部品を取ってきてくれないか。あと、香草ももらってきて欲しい」

 邪気の影響を受けないよう、薔薇園に避難させていた従者をラシュレスタが呼び寄せた。

 「はい、かしこまりました」

 生前と変わらない、幼さを残す人なつっこい笑顔で。出会った頃の容貌のままのルーカが笑みを浮かべながら、走り寄ってくる。

 享年四十八才で天寿を全うしたルーカは、ある事情から忘却の河を渡らないままでいる。

 ほとりの傍らに苦行の岩山がある。生前の行いを悔やむあまりに、聖水の流れに入ることすら拒み、嘆き続ける者のための場所だ。

 罪の意識が強い魂が自らの想いと向き合いながら、大きな岩石を手で転がして、山頂まで押し上げる。本人が懺悔に納得すると、岩は頂きに収り、その心境に至ってない場合はまた転がり落ちる。

 ルーカは、その岩を転がし続ける愛しい相手をここで見守り、待っているのだ。人間界で皇帝まで登りつめた男、ルーキウス・ウァリアウス・シュタインティヌスの魂が救済される時を。

 「アブラハムのバッジを忘れずに持って行ってくれ。なにかあったら、すぐに連絡を」
 
 「はい、ありがとうございます。ですが、護衛の方々がついてきてくれますので、大丈夫です」

 魔界と妖精界のはざまに面した扉は。その後ほどなくして、渓谷の崖は聖なる力がみなぎる聖地として、妖精王が見張りの戦士を立たせた。

 「ん、そうだな。だが、魂を狙う魔物もいる。くれぐれも気をつけて」

 「はい。ところで、ラシュレスタさま、あの・・・先日、伺った際に、ルリシュラさまが『花開くは愛の調べ』の弾き方でわからないところがあるとおっしゃっていて。今度ゆっくり教えて欲しいと・・・ですので、少し長居をしてきてもよろしいでしょうか?」

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