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前編

第二章 行き着いた世界-1

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 同日夕刻、徐々に暗がりが広がる中、街灯が一つ、また一つと点灯していく。
 中心部には摩天楼のごとき高いビルがいくつか建ち並ぶ、そこは大きな街だった。
 夕刻とはいえ、まだまだ喧騒は続いている。会社員と思しき人々がちらほらと急ぎ帰路へついていく。

 そんな中心街を離れ、落ち着いた住宅街の中に、その診療所はあった。
 規模で言えば小さめだが、もう随分昔からそこに建ち、平日の昼はそれなりに患者が訪れる。
 中年の男が、いつものように診察終了の札を入り口にかけ、伸びなどしながら建物の中へ入って行った。
 そして誰もいない自室で机に向かい、これまたいつものように、その日の仕事の記録をつらつらと書き留めていく。

「おじさん、おじさん!!」

 聞き慣れた声と共に、ノックもせず一人の女性が駆け込んで来た。
 栗色の僅かにパーマのかかった髪に緑の瞳。今年大学に入学したばかりの姪であり、その慕ってくる様に、多少の無礼など物ともしない尊さがある。
 男は自分の甘さに苦笑しつつ、彼女の名前を呼んだ。

「こらこら、マリエル、入ってくるときにはノックをしなさいとあれほど……」
「すぐそこで倒れてたのよ、この子!」

 叔父の言葉を遮り、抱えていたその子供を診察台に乗せる。
 診察時間外であったが、診察台に乗せられたその傷だらけの子供の姿に、男はすぐさま優しい叔父の表情を解き、医者のそれへと変えた。

 子供の状態は芳しくなかった。
 息はあるが意識は完全に失っている。無数の切り傷に打撲、右手左足の骨折。車にでも轢かれたのだろうか。
 職員は全員帰宅してしまったが、昔から出入りしており勝手をよく知る姪を助手に、男は丁寧に処置をしていく。傷を縫い、折れた手足を固定し、薬を塗る。
 その晩子供は高い熱を出し、意識は戻らなかった。


 ーーーーディルク

 仄かに顔を赤らめ、憧れの女性が上目遣いに少年を見上げる。

(あれ、ナリィの顔が下にある……そうだ、俺はとうとうナリィより背が高くなったんだ)

 ずっと見上げて追いかけてきた彼女。でもようやくこれで彼女の隣に立つことが出来る。
 ナリィはそんなディルクを嬉しそうに見上げ、その柔らかそうな唇を動かした。

 ーーーーあのね、ディルク、私あなたのことがーーーー


「お、俺もーーーーっ!!」

 ガバッと勢いよく、子供はベッドで体を起こした。

「いっ、たった……たたた」

 次の瞬間痛みにうずくまる。
 じっと動きを止め、息を吐き、痛みが治まるのを待つと、その子供ーーディルクは顔だけ上げて周りを見回した。
 白い壁に天井、部屋の向こうには机、棚、見たこともない道具が整えられている。そして他に輪郭がぼやけてよく見えないが、椅子に布ーー。

「ここは……?」
『あっ、気がついたみたい! おじさん、おじさーーん!』

 変わった格好をした女の人が入ってきたかと思うと、扉の外へ大声をあげた。

(!?)

 ディルクは愕然とした。女性の格好もそうだが、何より彼女が放ったその言葉に。

(今の……言葉? 何だ今の言葉は!)

 全く意味がわからなかったのだ。



『動かない方がいい、腕も足も折れているし、昨夜はすごい熱だったんだよ』

 中年の男性が一緒に来たかと思うと、その人はもわもわした輪郭のはっきりしない椅子に座り、よくわからない言葉を話し始めた。
 ブルッとディルクの身体が僅かに震える。
 見知らぬ場所、話している言葉がわからないーー不安、恐怖。
 どうしてしまったんだろうと考えた。言葉なら地方の方言や、精霊の言葉まで習ったはずだと。
 でも彼らの言葉はそのどれでもない。そもそも発音から何から初めて聞くものだ。

 自ずと悟る。ここは、自分の知る世界ではないーーと。

(なら、何処なんだ!?)

 ディルクは怪我の痛みも忘れ、頭をフルに回転させた。


『君、大丈夫かね? 何処から来た? 名前を聞いてもいいかい?』
「あ、の……」

 ディルクは咄嗟に自分の言葉を話そうとし、本能的にそれをやめた。
 自分が相手の言葉を理解しないーーそのことを伝えても良いのだろうかと。

(もしかしなくても、俺の言葉も通じないんじゃ……)

 ーーそうしたら、何が起きる? どう思われる? 考えろ、考えろ考えろーー!

 今彼自身が感じているように、警戒心、恐怖心を抱かせるのではないだろうか。下手したら拘束されたり調べられたり、殺されることもあるかもしれない。
 彼は今怪我で思うように動けない。
 魔法だけで切り抜けられるか。相手の魔力はどのくらいか。逃れられたとしても何処へ向かえばいいのか。
 
(……っていうか違う、そうじゃない、喧嘩したいわけじゃなくて! 俺はただ、ここがいつ何処でどうしてここにいるのか知りたいだけで……!)

 ーーなら穏便にことを済ますには? 警戒心を持たせず済ませるには? 考えろ、考えろーー!

 ディルクは口を閉ざし、一言も発せないまま、困ったようにただ首を横に振り続けた。


 
「記憶喪失? あの子が?」
「うん、かもしれないねって。何を聞いても首をふるだけだろう?」

 ディルクの病室の隣の休憩室で、医師の男は困ったように姪に伝えた。

「でも普通、記憶喪失といっても、言葉まで忘れるわけじゃないと思うんだけどな」

 ぼそっと付け足したが、姪のマリエルは聞いていなかったようだ。
 覚えていないなら覚えていないで、そう答えてくれればよい話なのだ。
 しかし、少年は何も言葉を発しない。そして検査で脳の損傷がないのはわかっている。
 とすると、これは警戒心ーー極度のコミュニケーション障害か、話せない事情でもあるのか、はたまた言葉自体通じていない可能性も否定できないと。

「さて、ショックによる一時的な言語中枢の麻痺ならまだよいのだが」

 ずっと話が出来ないと困ったぞーー首を捻る男の傍から、姪は既にいなくなっていた。



「私、わたし、マリエル。マ・リ・エ・ル」

 怪我のためか、見知らぬ所なためか動揺している少年に、マリエルは即席ではあるが温かいカップスープを与え、落ち着いた頃を見計らう。
 そして身振り手振りをしながら、少年に一生懸命自分の名前を伝えた。

「マリ……エル?」
「そうそう、私。で、貴方は?」

 ディルクは、ボディランゲージというのは、最強の言語だなと思った。
 ほっと少しだけ気を緩め、彼女と同じように自分も指をさす。

「ディルク。ディ・ル・ク」
「そっか、ディルク君って言うんだ!」

 大学で文系ーーしかも他文化に関し学ぶマリエルは、叔父とは全く異なった方向から少年に接触を試みた。
 この世界にもいろいろな地方とそれに準ずる文化があり、王都や都市部から離れるほど言葉がなまって通じなくなっていく。

「なんだ、コミュニケーションが苦手とかじゃなくて、単に言葉が通じていなかっただけなのね」

 とすると、記憶喪失というわけでもないのかもしれないと、彼女はふんふん考える。
 しかし意思疎通が難しすぎる。
 それにどうして彼は自分の言葉を話さないのだろうと思った。話してさえくれれば、どこの地方の言葉かわかりそうなのにと。
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