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前編
第二章 行き着いた世界-3
しおりを挟むぐっぐっ、とディルクは自分の手をグーパーして調子を確認した。
この診療所に来てもう一週間。体力も魔法も問題ない。怪我が治れば動けるだろう。
マリエルが、いつものように食事を運んできてくれた。ディルクは丁寧にお礼を述べていただく。
「本当にありがとう。何かお礼ができたらいいんだけど」
「子供は余計なこと考えなくていいのよ。全快するまで遠慮しなくていいからね」
ディルクの良心が僅かに痛む。
彼は両親に連絡はとれないと伝えていた。実際両親は他界しているので嘘ではないのだが、保護者がいないわけではない。
だが連絡する先がないと言うと、なんだか妙に気を使われるようになってしまった。
現在彼の引き取り先を、しかるべきところに問い合わせている最中らしい。
しかしディルクは今いるここに興味があった。この科学を使う診療所に。
何もかもが珍しく、少しずつ動いてみては、いろいろな設備や道具を見て、触って確かめてみる。
「この棚の本が読めたらよかったんだけどなぁ」
ディルクのつぶやきに、マリエルの叔父は苦笑して言った。
「君の年でそれが理解できれば、宮廷博士にだってなれるさ」
「宮廷……博士?」
「この国の最高峰の科学博士の称号だよ。今現在は二人かな。もう何年も称号取得者はでていない」
「へぇ」
今手に持っている難解な医学書が読めないのは、単純にこちらの文字が読めないからなのだが、ディルクは初めて聞く宮廷博士という存在に、心を僅かに躍らせた。
それから数日後、ようやくドクターから外出許可が出た。リハビリを兼ねて外に出ていいと言うのだ。
とはいえ、この街に不案内かつ大怪我の後なので、念のため姪のマリエルが付きそうことになる。
彼女が大学から帰って来ると、ディルクは待ってましたと言わんばかりに靴を履いた。
「もう動いて大丈夫そう?」
心配する彼女に少年は苦笑する。
「とっくにだよ。マリエルもドクターも心配性なんだから。早く行こう、マリエル! もう走ったりだってできるよ!」
たんっと玄関の段差を飛び降り、彼女を急かす。
実際魔力が戻ってきてから自己治療も少しずつしていたので、ほぼ万全の状態だ。
ドクターは若者は回復が早いなぁと言いながら二人を見送った。
日の光にディルクは目を細める。
何もかもが目新しい世界だった。
「高っけぇ建物!」
クアラル・シティ中央部に建つ百階建セントラルビルに、ディルクは感嘆の声をあげた。
「あら? 王都はこのくらいのビルがいくつも建ってなかった?」
「え……あ、えーと、近くで見るのは初めてだからさ」
「そっかー間近で見るのは迫力よねぇ」
言いながら二人は、セントラルビルのショッピングエリアに向かう。
ディルクの服がドクターのお古なので、新しいものを買いに来たのだ。
「でも俺、お金、持ってないんだけど……」
遠慮がちに言うと、マリエルは苦笑した。
「もう……だから、子供は余計なこと考えなくていいのよ。叔父さんは孤児院に寄付だってしてるし。あ、そうだ、ディルクこの間叔父さんの書類の仕事手伝っていたでしょう? お小遣いよ!」
外に出られず暇を持て余していたディルクは、リハビリを兼ねて診療所のスタッフやドクターを見様見真似で手伝い始めていた。
見ているだけよりも、実際やってみると見えてくることも多く、皆少しずつだが教えてくれたりする。
何気なく始めたことだったが、少しでもお礼になるなら嬉しい。
(そうか、掃除でも仕事でも手伝えることがあったらなるべくやろう)
レジを通り、商品を持つ手に力を込めると、ディルクはうん、と頷いた。
買ってもらった新しい服を身に纏い、ディルクは何となく上を見上げる。
そこには久しぶりに見る自分の龍のオーラがあった。
この世界に来るのに無防備に結界を通った彼は、大怪我をし服もボロボロで、額にしていたサークレットの宝石は壊れてしまっていた。
昨年見た時よりも大きく力強いオーラ。
しかし彼のそれに、振り向いたり見上げたりする者など一人もいない。
誰もこれが見えていない。サークレットもいらない。
それが堪らなく不思議で、なんだか楽しくて、ディルクの心は踊っていた。
「マリエルこっち、早く早く!」
ビルを出て繁華街を走るディルクに、マリエルは苦笑した。本当にもう元気になったみたいだとホッとする。
見つけたときには満身創痍で、もう駄目かもしれないと思ったのが嘘のようだ。
ところが、彼女がふと目を離したその時だった。
ドカッと大きなものがぶつかった音がしたかと思うと、目の前のディルクがゴミのポリバケツに躓いて転んでいた。
マリエルが慌てて駆け寄り、手を差し出す。幸い中身は空だったようだ。
「もう、前はちゃんと見なさいよー。ゴミが入ってなくてよかったけど」
「ゴミ……?」
不思議そうな顔をするディルク。彼女が手を掴み立たせてあげると、彼は改めて青いポリバケツの方を眺めた。
「えっと、何かあるの、ここ?」
「何って……ポリバケツ。これ」
マリエルは倒れたポリバケツを起こし、蓋をすると、コンコンと叩いてみせる。
(本当だ、何かがある)
しかしディルクにその物体を見ることは出来なかった。どんなに凝視してもわからない。
「えっと……」
どう言おうか迷っていると、マリエルが声をかけた。
「見えないの? 目をどうかしちゃったのかしら」
大丈夫に見えて、大怪我の後遺症かしらとブツブツ呟くマリエル。
眼鏡でなんとかなるかしらね、叔父さん聞いてみないとと唸る。
一方、ポリバケツをペタペタと触れて形を確かめつつ、ディルクは頭を回転させていた。
(視力がどうとかいう問題じゃないぞ、これ。他の物は見にくいものもあるけど見えるし)
そして魔力も自分のオーラもはっきり見えることを確認する。
(多分、俺の視力じゃなくて、これが〈見えない物〉なんだ)
視力というのは、物体固有のオーラを見る力なのだと聞いたことがある。
西の都ラクニアの悪友は、お調子者だが、医学はかなりの知識だから真実なのだろう。
(オーラがない物体があるんだ、この世界……)
一体どういう物なんだろう。この世界の知識など、どこかで調べればわかるのだろうかと考える。
「ディルク?」
目の前で、手をひらひらするマリエル。
ゴミ箱を撫でながら凝視など、異様に見えるに違いない。
はっと我に帰ったディルクは、慌てて立ち上がり苦笑した。
「ごめん、ちょっと考え事してた。さ、行こうマリエル!」
彼女に説明などできなかった。そもそもしていいのかもわからない。
誤魔化すように、タタッと駆け出したディルクは、目の前にあった街路樹や壁を避けて向こうの方まで走って行き、遠くから早くーと声をかける。
一連の行動を見ていたマリエルは、先程までの心配そうな顔をふと綻ばせた。
「よかった、ちゃんと見えてるみたい。さっきはふらついたりしただけだったのね」
よもや、ポリバケツのみが見えないなどと露ほども思わない彼女は、都合のいいようにそう結論づけた。
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