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「こんなおじさん、相手にしちゃいけない。全然美奈ちゃんに相応しくない。第一、結婚してるんだよ」
「そんなのわかってる。でも抑えきれないんだよ。想う気持ちは自由でしょ」
 あまりの執拗さに大人げない事を言ってしまいそうになる。つい口調が厳しくなっていた。
「美奈ちゃん。さ、帰ろう」
「やだ」
 治夫は大きく溜息をついた。美奈は大声で泣き崩れた。仕方なく、しゃがみ込んで顔を覆っている美奈の背中に手を置いた。
「ごめんよ、美奈ちゃん。でもね、どうしてもこれだけは美奈ちゃんの言うことを聞くわけにはいかない」
「やだ。チューしてくれなきゃ、帰らない!」
 農道の際に防犯灯が灯っていた。夜光虫が光を競い合っているその下に、古びたベンチが置いてあった。ベンチや木の切り株やレジャー用のスツールはそこかしこに置いてある。農家の人々が農作業の合間にそこに腰掛けて一服しているのは見慣れた風景だった。
 仕方がない。
 他人の娘である美奈に言うのは憚りがあったが、治夫は自分の心底を吐き出すことにした。美奈の手を取ってベンチに誘った。
「美奈ちゃん、俺、まだ死にたくないんだよ」
 顔を伏せたままの美奈に語り掛けた。
「嫁さんと由梨を裏切るくらいなら、俺、死んだほうがましなんだ」
 美奈はやっと泣き止んだ。
「世の中にはそういうの簡単にできちゃうヤツもいるんだろうね。でも俺にはできない。
 嫁さんは毎日俺が一生懸命働いていることを信じてしっかり家を守ってくれている。由梨も、あんな我儘娘だけど、俺が絶対に裏切ったりしないと信じてるから、俺を頼ってくれる。俺が今生きてるのはあの二人のお陰なんだよ。俺はね、あの二人に生かしてもらってるようなもんなんだ。
 俺の嫁さんと由梨はね、もう生きてくの面倒になって、ボロ切れみたいになってた俺を拾ってくれたんだ。
 美奈ちゃんのお父さんの代わりならいつでもしてあげる。もしパパとママが許してくれて美奈ちゃんがその気なら高校までうちで預かったっていい。でも美奈ちゃんの恋人にはなれない。美奈ちゃんがそのつもりなら、家で引き取るわけにはいかない」
 美奈はやっと顔を上げた。
「美奈ちゃんは可愛いし、賢い子だ。こんなおじさん相手にしなくても、美奈ちゃんなら俺なんかよりもっとずっと素敵な王子様が現れるよ。ごめんね。わかるよね。さあ、もう行こう」
 突然、美奈が襲い掛かって来た。
 避けようとしてベンチから滑り落ち尻もちをついた。そこへ抱きつかれてはどうしようもなかった。応えはしなかったが、拒否もしなかった。
 後厄の、どこにでもいる平凡な中年男が幼気な少女に唇を奪われるなんて・・・。滑稽極まりない。拒否をしなかった時点で合意と見做されても仕方がない。それにこんなことが世間に知れたら事態は全く逆に伝わるに違いない。
「夜道で好色な中年男が女子中学生を襲った」
 世間はそのように理解する方を好むものだ。
 ところが・・・。
「ごめんね、おじさん。あたし、我儘しちゃった」
 美奈はケロリとした顔でそう言った。
 さっきまで泣いていたはずなのに。満足して治夫から離れワンピースの埃を払った。
「でも、やっぱりおじさんはおじさんだった。あたしにとっておじさんはこの世で信じられるただ一人の男なんだ」
 そう言って手を差し伸べた。治夫がその手を取って立ち上がると、ブンブン振り回して楽しそうに軽やかに歩き始めた。その変わり身の早さに唖然としながらも歩調を合わせた。
 女は、怖い。
 心底そう思った。
 しばらく歩くと天窓から灯りが漏れている美奈の家が見えた。
「ねえ。今朝のクイズの答え、わかった?」
「クイズ?」
「由梨が怒った理由」
 ウフフ。不敵な笑みが薄明かりに見えた。
「由梨ね、好きな人いるんだ。あたし、その人の事知ってるんだ。全部知ってるんだ」
 美少女は門燈に照らされたアプローチを駆け上がってインターフォンを押した。
「由梨には悪いけど、あたしもう面食いやめるね」
 明るい声で美奈は言った。
 はい、とスピーカーから声が流れた。ただいま、と美奈が言い、今開けるね、で通話が切れた。
「今まで付き合った人の中で、おじさんが一番ブサイク。でも、一番好き。世界中の誰よりも、大好き!」
 美少女はそう言ってにっこりと笑った。
 ドアが開き美奈の母が帰宅した娘を迎え入れた。
「お忙しいのに、本当に申し訳ございませんでした」
 美奈の母親はそう言って深々と頭を下げた。
 何か返辞しなくては。咄嗟に言葉が出なかった。治夫が口を利けずにいると美奈が先に口を開いた。
「おじさん、今日はありがとう。おじさんの言ってくれた通り、あたし、大阪行くことにするよ」


「凄かったよ。金属バット振り回しててさ。そこの窓ガラスガシャーンって。お母さんびっくりして、あんた抱っこして動けなくてさ。お父さんが、由梨連れて逃げろって。椅子振り回しててね。あ、お父さんが危ないって思ってね。お母さんも中華鍋振り回してたら、いつの間にか相手伸びちゃってた。もうちょっとで息の根止めちゃうとこだったらしいのね。その人、結局牢屋で死んだんだけどね」
 そんな恐ろし気な言葉を面白おかしく軽やかに吐く母の顔を、由梨はただ茫然と見つめていた。
「でもね、大変だったのはむしろそれからだったの。
 警察とか救急車とかてんやわんやが終わってさ。気が付いたら、あんた固まってた。お父さんが真っ先に気付いた。あんた、言葉喋れんくなっちゃっただよ」
 母は由梨の頬をちょんとつついた。
「もちろん専門の病院にも連れてったよ。でもあんたなかなか喋らんかった。
 それからね、ずっとだに。
 お父さんね、あんたを抱きしめて頭撫でて体擦って一生懸命、大丈夫だよ由梨。お父さんが付いてるよ。大好きだよ、って。
 ずーっと同じこと繰り返してた。次の日もその次の日も。毎日毎日。何回も会社休んだり早退したりしてさ、あんたに付きっきりだった。おトイレ以外はほとんど、あんたを抱っこしてたっけ。やきもち妬けちゃうぐらいだった。
 そうね、ひと月ぐらいかやあ。あんた、やっと言葉を喋ったの。
『お父しゃん、くさい』って。
 もうね、二人してホッとしたよォ。お父さんなんか腰が抜けちゃってさあ。次の日まーた会社休んじゃったっけ。
 その時お母さんね、ああ、お父さんと結婚して良かったって思った」
 田圃を渡ってくる涼やかな風が網戸から流れ込んできた。母は風鈴の音に耳を澄ませながら、目を細め窓の外の暗がりの遠くを見つめた。
 なぜ今母はその話をしたのだろう。
 母に尋ねた。
「なんでかね」と母は笑った。
「お母さんの体いっぱい痣があるら。あんたには病気のせいって言ってたけど、本当はこれ、傷の痕なの。前の旦那さんの暴力」
 四コマ漫画で、ショックなことを「ガーン!」と爆発のフキダシに書く。由梨も何度か描いた。でも本当の「ガーン!」に全身が総毛だった。それは壮絶に由梨を打ちのめした。
「うちに入って来た強盗ね、お母さんの前の旦那さん。あんたの命くれた人。お金取りに来たんじゃなくて、お母さんと由梨を攫いに来たの」
 じゃあ、自分の本当の父親は誰?
 去年、真実を知ってから何度か問いただそうとは思った。でも聞けなかった。母は何も言わなかったし、父も。それよりも何よりも父への思いが強すぎて疑問を明らかにする関心が薄れていたのかも知れない。
 けれど、今聞いた話は強烈過ぎた。そんなこともどうでもよくなるほどに。
 ガミガミ、煩わしく感じることもあった。でも陰に日向にいつも自分を気遣ってくれる。こんな美しい優し気な母の過去に、そんな修羅場があったなんて・・・。そして、そんなところに自分のルーツがあったなんて・・・。
 ちびりそうになるのを必死に堪えた。
「お母さんね、前の旦那から逃げて来ただよ。その時あんたお腹の中にいた。どうしてもお腹の中のあんたを守りたかった」
 母は湯呑をテーブルに置き由梨を正面に見据えた。そして表情を一変させると由梨の瞳に鋭い銛をぶちこんできた。こんな恐ろしい顔をした母をそれまでみたことがなかった。
「ここから先はお父さんも知らない話」と母は言った。
「お母さんね、一人であんたを育てるつもりだった。もう二度と結婚しない。そう思ってた。疫病神だと思ってたから。出会う男の人、みんな不幸にしちゃってね。
 高専に通ってたころ、好きな人が出来たの。初恋だった。それまで勉強ばかりしてたから反動で夢中になっちゃったのかも。初めてもその人とだった。卒業したら結婚するつもりだった。
 でもじいじに反対された。相手の人の家にまで怒鳴りこまれて滅茶苦茶にされてね・・・。泣く泣く別れさせられたよ。
 それからお母さん、荒れちゃった。
 じいじと喧嘩して家を飛び出してね。東京に出て就職してから、いろんな男の人と付き合った。とっかえひっかえ。あの頃は、酷かった。思い出すと恥ずかしいくらい。
 そんな時ね、会社の上司が本気で心配してくれた。バカは止めろって。不器用だったけど、正直で優しい人だった。目が大きくてね、キラキラ輝いてた。この人ならと思って結婚したの。耳が、とても大きかった」
 いつの間にかのめり込むようにして母の話を聞いていた。気が付くと自分の耳に触れていた。
「大切にされて幸せだったよ。
 それなのに、お母さん、自分でその幸せを壊しちゃった。一度だけ。本当に一度だけ、旦那さんを裏切っちゃったの」
 母の形のいい薄い唇が少し歪んだ。
「初恋の人から手紙が来たの。重い病気になったって。余命宣告されてね。あと半年の命だって。最後にどうしても会いたいって。一度でいいからって。
 お母さん、会いに行っちゃっただよ。
 それ、旦那さんに知られてね。真面目な優しい人が怒ると怖いんだって、思い知らされた。それまでと正反対の人に変わっちゃった。
 変えちゃったのは自分なんだけどね。それだけ愛されていたんだなって。後から気付いても遅かった。毎日お酒飲んで、暴れて、会社にも行かなくなって、それで・・・」
 それでこうなった。
 母は胸に手を当ててその言葉を飲み込んだ。
「お母さん、二人の男の人の人生を狂わせちゃった。おまけにじいじにも苦労かけて、早くに亡くしちゃった。ね、疫病神でしょ。だから残りの一生はあんたを立派に育てるためだけに生きますって神様に誓った。
 そしたらお父さんに出会ったの。
 生きてる屍みたいな人だった。お母さんにはあんたがいたけど、お父さんには何にもなかった。全てを失って流れてきた人だった。お父さんも結婚で苦しんだ人でね。勤めてた会社が潰れちゃって、前の奥さん男の人作って出て行っちゃったの。まだ五才だった息子さんと一緒にね。
 お母さんのは自業自得。だけど、お父さん、何も悪いことしてなかった。可哀そうな人だな。案外、不幸な人っているんだなって思った。だから、最初はお付き合いするなんて全然考えもしてなかったよ。
 でもね、初めてお父さんの部屋を見た時、考えが変わったの。
 何もない部屋。空き家より酷かった。
 洗濯機も炊飯器もあった。でも一度も使われてない。新品のまんま。冷蔵庫も、ミネラルウォーターしか入ってなかった。服も、下着やシャツは新品の下ろしてないやつが段ボール箱に積んであって、一度着たものは全てゴミ袋に入ってた。
 食器もお箸もない。歯ブラシもない。テレビもない。本もない。壁も真っ白。何も飾りがない。カーテンもない。大きな厚紙で窓を塞いであっただけ。
 生きてる人の部屋じゃなかった。
 人生という大切な時間をただ時間潰しだけに使ってる人の部屋。未来を考えてない人の部屋。
 そういう部屋だった。
 お母さん、胸がね、潰れそうになっちゃった。
 それで、思った。
 今まで自分は人を不幸にしてきたけど、自分より酷い人生を生きてる人を幸せにできるなら、今までのは無かったことにできるんじゃないかって。それに不思議にあんたも懐いてた。
 不純でしょ、動機が。
 私から告白した。
 最初は断られた。女は信用できないって。二度と結婚なんかしたくないって。でも、諦めなかった。お父さんは、私が思ってた以上の人だったから。
 大恋愛して結婚してもいつか醒めちゃって離婚する夫婦は多いよね。でも私とお父さんは全然逆だった。不純な動機で近づいたのを後悔するぐらいにね。お母さん、いっぱい愛された。あんたもそうだら? お父さんあんたをめちゃくちゃに可愛がってきた。もう二度と家族を失いたくない。そういう気持ちだったんだと思う。だから、もし今度家族に裏切られるようなことがあったら、お父さん、多分狂っちゃうんじゃないかや。人を傷つけるのが嫌いな人だから、自分で死んじゃうかも・・・」
 母の目は笑っていなかった。それどころか、まばたきもせずに由梨の瞳を覗き込んできた。
 目ぢから、と言うのだろうか。由梨は到底、母の敵ではなかった。女の力量とか女としての魅力はもちろん、思いの強さすら勝てそうになかった。
「お母さんね、お父さんのこん、大好きなの。死ぬほど愛してる。今までも。これからもずっと。あんたもそうなんでしょ。
 去年美奈ちゃんのことがあってからお母さん、気が付いたの。それでずっと考えてた。どうしたらいいかなって。お父さんも大切だけど、あんたもお母さんの大事な娘だし。
 それでね、決めたの。
 あんたのお父さんへの気持ちがどんなものであっても構わない。男の人として好きなら仕方ない。気持ちにウソつけれんもんね」
 母は由梨の手を取った。
「でも、これだけは言っておくね。もし、あんたがそういう気持ちを持ってるなら、これだけは約束して。
 絶対にお父さんを裏切らないで。中途半端な気持ちなら今すぐやめて。これ、本気だでね」
 由梨の手を痛いほど固く握りしめる母。
 親と子としてではなく、同じ女同士として。ライバルとして母と向き合うことになるとは思わなかった。でも、父を好きになるということは、そういうことだ。
 母はたぶん、こう言っているのだ。
 私の愛している男を奪ったら許さない、ではない。
 私の愛している男を傷つけたら絶対に許さない。
 それが本当の愛というものだ、と。
「ただいま」
 カギを開ける音に続き、聞き慣れた太い声が玄関から聞こえた。
「この話、お父さんには絶対ナイショだでね。いいね?」
 由梨の耳元で早口にそう囁くと、母は何事もなかったように玄関先に立った。
 母の長い独白が終わった。
 緊張が解け、身震いがした。これならまだ怒鳴られている方がよかった。
 もし今聞いた話を父に話したりしたら・・・。
 考えるだけで心臓がドキドキして寒気がした。それなのに顔が火照って仕方がなかった。

 ドアを開ける前にスーツの匂いを確かめ、ハンカチで顔をゴシゴシ擦った。玄関まで出迎えてくれた多恵子の目をまともに見ることができなかった。
「あれ、泊まりじゃなかったっけ」
「ああ。松谷さんにフラれた」
 なるべく自然に見えるように玄関脇の書斎に飛び込んだ。カバンを机に置き一息ついた。が、あまり長居してはいけない。もう一度スーツの匂いを確かめた。飲み屋のお姉ちゃんに抱きつかれた時の何十倍も気を遣った。
 リビングでTVを見ていた由梨にただいまを言った。お帰りを背後で聞いた。多恵子が追って来てご飯は? と訊かれた。済ませて来たと答えた。
 いつものことだ。いつものことに懸命になっているのを悟られないようにしなければならなかった。浮気をしているヤツというのはこんなにシンドイ日々を送っているのか。自分には到底出来そうもない。
「お風呂沸いてるから入ったら」
「おう。そうさせてもらうかな」
 リビングに入り。ローテーブルの上で頬を冷やしている由梨を見下ろして言った。
「美奈ちゃん、転校するんだってな」
 後から会ったことがわかるのもマズい。思い切って言った。
「・・・え? 何それ」
 驚くのはわかっていた。それでも意外そうなフリをした。
「なんだ。聞いてなかったのか。今、会って来たぞ。相談があるってメール来たから」
「あら、そう・・・。お父さんの所行くんだら。美奈ちゃん、何て?」
 多恵子がキッチンに向かいながら言った。
「不安らしいよ、やっぱり。由梨とも別れたくないしって。そういう愚痴を聞いてあげてた。これからお前も、寂しくなるな」
 由梨の複雑な表情が気に掛かったが風呂に逃げた。湯船に浸かりながら先刻の美奈とのことを振り返った。
 あれは、事故だ。
 そう思うしかない。ここまで深く関わってしまった以上、美奈を突き放すことは治夫には到底出来なかった。
「この世で信じられるただ一人の男」
 そこまで自分を信頼してくれている少女を拒否すれば、今度こそ彼女は壊れてしまうだろう。しかし、彼女を受け入れれば治夫の家庭は、この大切な家は崩壊してしまう。素直に大阪へ行くと言ってくれて心の底から安堵した。夏だし、湯も十分に暖かい。それなのに身震いがした。
 
 その夜、多恵子を求めた。
 出来れば明後日以降の方が日がいいんだけどという妻の言葉を聞き流し、乱暴に荒々しい愛撫を加えた。いつもなら由梨の就寝を気にするのに、それさえしなかった。求めずにはいられなかった。
 多恵子は観念して夫の為すがままになり、喜悦の声を抑えた。たまに妻の満足を待たずに我慢を解き放つこともあった治夫だったが、その夜は欲望のまま妻の体を貪り続けた。我慢したのではない。一向に込み上げが来なかった。何故それほどまでに求めるのか、自分にもわからなかった。
「どうしちゃったの。私、壊れちゃうよ」
 妻の可愛らしい抗議も無視し、求め続けた。何度も多恵子の硬直と痙攣を感じた。そのか細い腕と足で治夫の体にしがみつき、妻は一際大きく仰け反って果てた。
 それを見届け、やっと解き放った。間歇は何度も続いた。精根尽き果て、多恵子に体重を負担させるのも構わずに弛緩した。
「ごめんな」
 多恵子の白い項に呟いた。体を離そうとすると、「待って」ときつく抱きつかれた。
「もう少し。もう少しこのままでいて」
 妻の体を気遣い、そのまま体を入れ替えようとするのも止められた。
「すごかった」
 やっと人心地ついた多恵子が息を整えながらそう言った。
「半年分ぐらい満足した。あなたの中の人が交代したかと思った」
「ごめん」
「ううん。とっても素敵だったに。毎晩だと大変だけど、たまにならこういうのもいいね」
 しばらくして、もういいよと多恵子が言った。医者から性交する際の注意点を聞かされていたからだとわかった。
 妻は治夫の肩の上に耳を載せた。
「私は、いいからね」
 その声はあまりに小さく、ともすると聞き違えそうだった。
「あなた知らんら。あなたを見てる時の由梨の目。あれ、もう女の目だに」
「え?」
「私はいいから。仕方ないよ。私が、そうさせちゃったんだよね、きっと。あなたに。たぶん」
 多恵子は治夫の耳に唇をつけ耳たぶを咥え、甘く噛んだ。
「あなたが新聞読んでるとき、何か書き物してるとき、車の運転してるとき、あなたがご飯食べてるとき。あなたを見てるあの子の目がね、熱いの」
「まさか」
 言ってはみたものの、思ったほど自分の言葉に重みが無かった。
「でも、気にしないで。こうしてるときだけ、私だけのあなたでいてくれればいい。それだけでいいから。私はいいから」
 反論はしなかった。それはもう、意味がないだろう。多恵子の為すがまま、全てを委ねよう。そう思った。発作のようなものが治夫を突き上げ、再び力強く、はかなげな妻の細い肩を抱いた。
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