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15 蛇 タカハシのこと
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梅雨が明け、毎日、アスファルトが融けそうなほどの熱気が襲うようになりました。
外回りに出かけようとすると、隣の課のタカハシから同行させて下さいと言われました。今年の春入社したばかりの女性社員です。
「先輩の仕事の仕方を盗みたいんです。今調子悪くて・・・」
彼女は悪戯っぽい笑顔で言いました。
二課のタケダ課長も、
「ま、いいんじゃね? スランプみたいだから面倒見てやってよ。ま、OJTってことで」
というので断る理由もなく、一緒に営業車に乗り込んで出かけたのです。
まだ十時前だというのにもう外は酷い暑さで、路上から立ち昇る熱気が見えるほどでした。ガタガタ音ばかり大きくて効きが悪いカーエアコンのせいで俺は既に背中に汗をかいていました。反対に、助手席のタカハシは涼しげに髪を掻き上げたりしてリラックスしていました。
新卒ですからまだ二二か三の彼女は、濃いめの化粧のせいか年齢より大人びて見えました。切れ長の控えめな双眸は、どことなく高校時代のサツキを想い出させました。動物に例えればどことなく御淑やかなキツネ、といった感じです。間抜けなタヌキを思わせるマユに比べると対照的な感じがしました。
春からの研修を終え、何度か幾人かの先輩に同行して実地に学び、やっと数件の顧客をまかされていました。
「まだ何となく自信が持てなくて」
と、ぺろっと舌を出しました。その仕草にコケティッシュなものを感じました。
「でも、俺なんかよりタキガワの方が優秀だよ。俺があいつのやり方盗みたいぐらいだもん」
俺は正直に言いました。
「悪いけど、あんまり参考にならないと思うけどなあ・・・」
それまで饒舌だったタカハシが急に窓の外を見て黙りこくってしまいました。あれ、何か悪い事言ったかなあと悩んでいると、
「そんなことないですよ」
と彼女は言いました。
「先輩、今ノッてるじゃないですか。旬ですよ」
ショルダーバッグからタバコを取り出し、喫ってもいいですか、と言いました。
俺もマユもタバコを喫わないので新鮮な感じがしました。タカハシは少しだけ窓を開けて最初の煙を外に向かって吐きだすと、急にこんなことを口にしました。
「先輩の奥さんて、キレイな方ですよね」
窓に肘をついた手で頬杖をつき、スカートからスラリと伸びた脚を組み替えてその膝の上にタバコを挟んだ手を置いて、どこか虚ろな目で前を向いていました。
その仕草に、何故かドキッとしました。
「・・・ああ、この間のクッキーのね。あはは。嫁に言っておくよ。アイツあんまホメられたことないから、きっと喜ぶよ」
「何でいつもイイなあって思う人、結婚してるのかなあ」
危うく前の車に追突するところでした。
シフトレバーに置いた俺の結婚指輪をした左手を、タカハシはじっと見ていました。
「おいおい。客先に行く前にあんまりドキッとすること言わないでくれよ。事故ったらシャレにならないよ」
なんか、アブなそうな娘だなあと思いました。
ここはなんとか笑い話にして、その場を切り抜けよう。さらに余計な汗をかく羽目になりました。
俺がドギマギしているのが伝わったらしく、彼女はすぐに、
「冗談ですよ。先輩って、意外にかわいいんですね」
と、付け加えました。
年下の女の子に「かわいい」と言われるとは。なんだかトホホな感じでした。
着くまでに客先の資料に目を通したいと彼女は言いました。
「ファイルがあるよ」
後ろの座席を指差すと、タカハシはリクライニングを倒して仰向けになりました。
が、いつまで経ってもシートを戻さないので、寝っ転がって資料読んでるのかな。意外に行儀の悪い子だな。信号待ちで気になって振り返って彼女を見ました。
ファイルを取って抱えたまま、仰向けで熱い目をして俺を見つめている彼女と目が合ってしまいました。
ブラウスの下の膨らみが意外に大きく、水色の下着が透けて見えました。
背後からクラクションを浴びて慌てて前を見ました。
彼女も起き上がり、リクライニングを戻して何事もなかったようにファイルを開きました。
「あの・・・」
ファイルを繰りながら、彼女が言いました。
「先輩。商談終わったらちょっと相談に乗ってくれませんか」
エアコンがうるさくてよく聞き取れませんでしたが、たしかにそう言ったような気がしました。
客先の訪問を終え、丁度昼時だったので近くのファミリーレストランの駐車場に入りました。俺は焼肉ランチ大盛りを、彼女はコーヒーだけを注文しました。
「そんなんで、持つの? うちの嫁なんか朝昼晩とどんぶり飯だぜ」
意識してマユの話題を出しました。何か危うい雰囲気を感じたからです。呑まれないように、ここは妻帯者を前面に出さなければ。そう思いました。しかしそれはタカハシにはミエミエだったようです。
「あはは。先輩、そんなに警戒しなくても。取って食やしませんよ。私今、食欲ないんです」
タカハシは透明なエナメルを施した細い指でグラスの氷をステアしました。平日の郊外の国道沿いのファミリーレストランではなく、都心の、モダンジャズが流れる深夜のバーカウンターでなら似合う仕草でした。
コイツ、ホントに新卒かよ。対人接触スキルは俺よりはるかに上のように感じました。
注文した料理とコーヒーが運ばれてきて、俺は早速ガツガツ食いはじめました。彼女はタバコを挟んだ手で頬杖をついてじっと俺を見つめています。ですが、黙って見つめられると食い辛いものです。
「で、相談て何だっけ」
俺は彼女を促しました。
タカハシはしばらく無言でタバコをふかしていましたが、やがて灰皿でギュッともみ消して口を開きはじめました。
「あの、先輩って、社内結婚ですよね」
「うん、そうだけど・・・」
「私も今社内で付き合ってる人いるんです」
なんだ・・・。
そういう話か、と幾分ホッとしました。
「でも、最近うまくいってなくて・・・」
彼女の話は、こうでした。
コトの発端は春の新人歓迎会。
タカハシ二次会で酔い潰れてしまい、介抱を口実にある男性社員にホテルに連れ込まれたのだそうです。
それは彼女が望んだものではなく、ある意味で半ば強引にそうなってしまったらしいのですが、何故かそこからその社員との付き合いが始まりました。
しばらく関係が続きましたが、ひと月ほど前から急に態度が冷たくなった、と。もしかして遊ばれていただけなのか、と落胆していたら、偶然にも社内の女子の間で相手の男の話が出たのを耳にしていました。去年もその前の年も、相手の男は新人の女の子を食い物にしては袖にし、居たたまれなくなった彼女たちは泣き寝入りし退職に追い込まれていった。そういう話です。
「あくまで噂ですから。私が入社する前の話だし、ご本人たちに確認したわけじゃないですから。でも私もそうですけど、新人だと多分誰にも相談できなかったんじゃないかなあと思うんです」
確かにウチの会社は離職率が高いです。それは男女共で、特に営業は仕事の過酷さから辞めて行くヤツが多いことは確かでした。俺も同期が半数以上辞めていきましたから、それ自体は不思議には思いませんでした。去る者は追わず、の会社です。男であれ女であれ、辞める理由を厳しく追及されるようなことはまずありません。ですが・・・。
「君、彼に好意を持っていたの?」
「最初は、特には。二次会でたくさん飲まされてフラフラになってたんです。家に帰りたかったのに、ちょっとだけ休んで行こうよって言われて、それで・・・」
「それで、その、ホテルについて行ったんだ」
「記憶が無いんです。気が付いたら・・・。だらしないですよね、私」
タカハシは恥ずかしそうに俯きました。
尋常ではありませんが、大の大人の男と女が長い時間一緒にいる空間での話です。どこにでも転がっている、よくある話ではありました。それでも、焼肉食いながら聞く話じゃないと思い、急いで平らげて彼女に向き直りました。
「ちょっと、整理していいかな」
彼女の言葉が出尽くしたと思ったので気になることを二三訊いてみました。
「最初の、まあ、無理矢理の後さ。しばらく彼と関係が続いたんだね。それは合意の上なのかな? まさか何かで脅されて関係を続けてたとかじゃないよね?」
「それは、ないです」
「好きだったの? 彼の事」
「好き? んー、何ていったらいいんでしょうね・・・。ズルズルっていうか・・・」
「関係が切れると顔を合わせるのが辛くなる程度の気持ちはあったんだね」
「・・・はい」
「ううむ、難しいね。最初はともかく、その後も関係が続いててしかも合意の上でとなるとなあ。一方的に彼のことは責められないよな。でもそういうケースが過去何件もあって、その度に君みたいな優秀な女性社員が辞めてくってのも、問題だしなあ・・・」
「え?・・・」
タカハシは優秀だと思いました。
先刻、客先で商品説明をやらせてみましたが、説明の仕方、顧客の話を聴いて相手の意図を的確に把握する能力は、新卒とは思えない程高いものでした。こんなことでこの子を失うのは会社にとって損失だなと思い、率直にそのことを言いました。
「さっきの君の商品説明さ、新卒とは思えないほどだったよ。それなのにこんなことでヤル気無くしちゃうなんて、もったいないなあ・・・」
彼女の顔がパッと明るくなりました。が、すぐに顔を曇らせ、歪ませ、瞳を潤ませ始めたから動揺してしまいました。
「嬉しいです。先輩にそう思ってもらえて」
そう言って俯き、ハンカチを取り出して鼻をすすり始めてしまいました。
おいおい・・・。
こんな些細な誉め言葉で涙ぐむなんて、精神的に不安定になっているのは明らかでした。相当追い詰められているのだな、と気の毒にすらなりました。
「独りで抱え込んでると辛くて・・・。誰かに聞いてもらいたくて・・・。他の人には話せませんよ、こんなコト。ハセガワさんだから、相談したんです」
頼られて光栄に思う反面、厄介だな、と思いました。もしタカハシの話が本当なら話は深刻だからです。
「君は、どうしたい? 彼と縁りを戻したい?」
彼女はパッケージから再びタバコを取り出して火をつけ、ふーっと長く煙を吐き出し、髪をかき上げ、じっと窓の外に目を向けていました。
長い沈黙が続き、そして彼女は言いました。
「忘れられないんです。・・・彼のセックスが」
危うく口に含んだ水を彼女に向かって噴き出すところでした。すんでのことで飲み込み、彼女の顔をマジマジと見てしまいました。
「今他の子と付き合ってるって言われました。振られたんですよ、私。でも、どうしても、忘れられないんです」
「・・・」
何と言っていいか、わかりませんでした。正直言って、俺の一番苦手な分野でした。
彼女としては今の現状を解決したいから、というよりは孤立した状態に耐えられず、誰でもいいから胸の内を聴いて欲しかった、とりあえず一番話し易そうな俺、というのが本当のところなのでしょう。
それ以上詮索せずとりあえずは店を出ることにしました。タカハシが熱い目をしてくるので、それに耐えられなかった、ということもありましたけど。
「あの、さ。その相手って、誰?・・・言いにくいかもしれないけどさ」
走り出した車の中で、俺は尋ねました。彼女は爪のマニキュアをチェックするように眺めていました。
「やっぱり言わないとダメですよね」
「ダメって言うわけじゃないけどさ・・・。名前を聞いても俺に今すぐ何かできるわけじゃないしね。言いづらいよね、普通。でも相手がわからないことにはなあ・・・」
高速道路のインターチェンジの手前にはラブホテルが軒を連ねていました。道路は高速に入る車で混雑していて、その前をノロノロ進みます。彼女がチラチラそちらを見ているのが気になり、俺は話題を変えることにしました。
「ところで、あの・・・、どうして俺なの? 誰かに話したかったのは解るけど、どうして俺なんかに」
すると塞ぎがちだった彼女はすこし表情を寛げました。
「ハセガワさんて、なんかホッとするようなオーラがあるんです」
「オーラ? 安全パイってやつかな? それとも間抜けってことかな」
俺は少々おどけて、さも傷ついたように言ってみました。今はこの隠微な空気を換え、ギャグにするべきだ。脳が最大音量で一斉警報を鳴らしていました。
「違いますよォ。なんだか一緒に居ると安心できるって感じで・・・。兄貴って感じなんです。そういう意味ですよ」
実はタカハシだけでなく、性別を問わず後輩社員から何かと質問されたり相談を受けたりすることが増えていました。思えばこれもマユとのセックス復活効果なのかも、などと下らないことを考えたりしました。その原理が、まったく皆目わからないのでしたが。
「こんな兄貴、頼りないと思うけどなあ。まあ、俺で力になれることならいつでも相談してよ」
「ホントですか、嬉しい!」
「ウン」
前の車との間隔が開き、俺がアクセルを入れた瞬間、タカハシのエナメルの爪がハンドルを掴んでいました。車は半分だけラブホテルの入り口に頭を突っ込んで止まりました。後ろの車からのクラクションが鳴り響く中、俺はタカハシの潤んだ瞳を見つめていました。
セックスというのはこんなごく普通の女の子をここまで狂わせてしまうのか。
俺は心底怖くなりました。
外回りに出かけようとすると、隣の課のタカハシから同行させて下さいと言われました。今年の春入社したばかりの女性社員です。
「先輩の仕事の仕方を盗みたいんです。今調子悪くて・・・」
彼女は悪戯っぽい笑顔で言いました。
二課のタケダ課長も、
「ま、いいんじゃね? スランプみたいだから面倒見てやってよ。ま、OJTってことで」
というので断る理由もなく、一緒に営業車に乗り込んで出かけたのです。
まだ十時前だというのにもう外は酷い暑さで、路上から立ち昇る熱気が見えるほどでした。ガタガタ音ばかり大きくて効きが悪いカーエアコンのせいで俺は既に背中に汗をかいていました。反対に、助手席のタカハシは涼しげに髪を掻き上げたりしてリラックスしていました。
新卒ですからまだ二二か三の彼女は、濃いめの化粧のせいか年齢より大人びて見えました。切れ長の控えめな双眸は、どことなく高校時代のサツキを想い出させました。動物に例えればどことなく御淑やかなキツネ、といった感じです。間抜けなタヌキを思わせるマユに比べると対照的な感じがしました。
春からの研修を終え、何度か幾人かの先輩に同行して実地に学び、やっと数件の顧客をまかされていました。
「まだ何となく自信が持てなくて」
と、ぺろっと舌を出しました。その仕草にコケティッシュなものを感じました。
「でも、俺なんかよりタキガワの方が優秀だよ。俺があいつのやり方盗みたいぐらいだもん」
俺は正直に言いました。
「悪いけど、あんまり参考にならないと思うけどなあ・・・」
それまで饒舌だったタカハシが急に窓の外を見て黙りこくってしまいました。あれ、何か悪い事言ったかなあと悩んでいると、
「そんなことないですよ」
と彼女は言いました。
「先輩、今ノッてるじゃないですか。旬ですよ」
ショルダーバッグからタバコを取り出し、喫ってもいいですか、と言いました。
俺もマユもタバコを喫わないので新鮮な感じがしました。タカハシは少しだけ窓を開けて最初の煙を外に向かって吐きだすと、急にこんなことを口にしました。
「先輩の奥さんて、キレイな方ですよね」
窓に肘をついた手で頬杖をつき、スカートからスラリと伸びた脚を組み替えてその膝の上にタバコを挟んだ手を置いて、どこか虚ろな目で前を向いていました。
その仕草に、何故かドキッとしました。
「・・・ああ、この間のクッキーのね。あはは。嫁に言っておくよ。アイツあんまホメられたことないから、きっと喜ぶよ」
「何でいつもイイなあって思う人、結婚してるのかなあ」
危うく前の車に追突するところでした。
シフトレバーに置いた俺の結婚指輪をした左手を、タカハシはじっと見ていました。
「おいおい。客先に行く前にあんまりドキッとすること言わないでくれよ。事故ったらシャレにならないよ」
なんか、アブなそうな娘だなあと思いました。
ここはなんとか笑い話にして、その場を切り抜けよう。さらに余計な汗をかく羽目になりました。
俺がドギマギしているのが伝わったらしく、彼女はすぐに、
「冗談ですよ。先輩って、意外にかわいいんですね」
と、付け加えました。
年下の女の子に「かわいい」と言われるとは。なんだかトホホな感じでした。
着くまでに客先の資料に目を通したいと彼女は言いました。
「ファイルがあるよ」
後ろの座席を指差すと、タカハシはリクライニングを倒して仰向けになりました。
が、いつまで経ってもシートを戻さないので、寝っ転がって資料読んでるのかな。意外に行儀の悪い子だな。信号待ちで気になって振り返って彼女を見ました。
ファイルを取って抱えたまま、仰向けで熱い目をして俺を見つめている彼女と目が合ってしまいました。
ブラウスの下の膨らみが意外に大きく、水色の下着が透けて見えました。
背後からクラクションを浴びて慌てて前を見ました。
彼女も起き上がり、リクライニングを戻して何事もなかったようにファイルを開きました。
「あの・・・」
ファイルを繰りながら、彼女が言いました。
「先輩。商談終わったらちょっと相談に乗ってくれませんか」
エアコンがうるさくてよく聞き取れませんでしたが、たしかにそう言ったような気がしました。
客先の訪問を終え、丁度昼時だったので近くのファミリーレストランの駐車場に入りました。俺は焼肉ランチ大盛りを、彼女はコーヒーだけを注文しました。
「そんなんで、持つの? うちの嫁なんか朝昼晩とどんぶり飯だぜ」
意識してマユの話題を出しました。何か危うい雰囲気を感じたからです。呑まれないように、ここは妻帯者を前面に出さなければ。そう思いました。しかしそれはタカハシにはミエミエだったようです。
「あはは。先輩、そんなに警戒しなくても。取って食やしませんよ。私今、食欲ないんです」
タカハシは透明なエナメルを施した細い指でグラスの氷をステアしました。平日の郊外の国道沿いのファミリーレストランではなく、都心の、モダンジャズが流れる深夜のバーカウンターでなら似合う仕草でした。
コイツ、ホントに新卒かよ。対人接触スキルは俺よりはるかに上のように感じました。
注文した料理とコーヒーが運ばれてきて、俺は早速ガツガツ食いはじめました。彼女はタバコを挟んだ手で頬杖をついてじっと俺を見つめています。ですが、黙って見つめられると食い辛いものです。
「で、相談て何だっけ」
俺は彼女を促しました。
タカハシはしばらく無言でタバコをふかしていましたが、やがて灰皿でギュッともみ消して口を開きはじめました。
「あの、先輩って、社内結婚ですよね」
「うん、そうだけど・・・」
「私も今社内で付き合ってる人いるんです」
なんだ・・・。
そういう話か、と幾分ホッとしました。
「でも、最近うまくいってなくて・・・」
彼女の話は、こうでした。
コトの発端は春の新人歓迎会。
タカハシ二次会で酔い潰れてしまい、介抱を口実にある男性社員にホテルに連れ込まれたのだそうです。
それは彼女が望んだものではなく、ある意味で半ば強引にそうなってしまったらしいのですが、何故かそこからその社員との付き合いが始まりました。
しばらく関係が続きましたが、ひと月ほど前から急に態度が冷たくなった、と。もしかして遊ばれていただけなのか、と落胆していたら、偶然にも社内の女子の間で相手の男の話が出たのを耳にしていました。去年もその前の年も、相手の男は新人の女の子を食い物にしては袖にし、居たたまれなくなった彼女たちは泣き寝入りし退職に追い込まれていった。そういう話です。
「あくまで噂ですから。私が入社する前の話だし、ご本人たちに確認したわけじゃないですから。でも私もそうですけど、新人だと多分誰にも相談できなかったんじゃないかなあと思うんです」
確かにウチの会社は離職率が高いです。それは男女共で、特に営業は仕事の過酷さから辞めて行くヤツが多いことは確かでした。俺も同期が半数以上辞めていきましたから、それ自体は不思議には思いませんでした。去る者は追わず、の会社です。男であれ女であれ、辞める理由を厳しく追及されるようなことはまずありません。ですが・・・。
「君、彼に好意を持っていたの?」
「最初は、特には。二次会でたくさん飲まされてフラフラになってたんです。家に帰りたかったのに、ちょっとだけ休んで行こうよって言われて、それで・・・」
「それで、その、ホテルについて行ったんだ」
「記憶が無いんです。気が付いたら・・・。だらしないですよね、私」
タカハシは恥ずかしそうに俯きました。
尋常ではありませんが、大の大人の男と女が長い時間一緒にいる空間での話です。どこにでも転がっている、よくある話ではありました。それでも、焼肉食いながら聞く話じゃないと思い、急いで平らげて彼女に向き直りました。
「ちょっと、整理していいかな」
彼女の言葉が出尽くしたと思ったので気になることを二三訊いてみました。
「最初の、まあ、無理矢理の後さ。しばらく彼と関係が続いたんだね。それは合意の上なのかな? まさか何かで脅されて関係を続けてたとかじゃないよね?」
「それは、ないです」
「好きだったの? 彼の事」
「好き? んー、何ていったらいいんでしょうね・・・。ズルズルっていうか・・・」
「関係が切れると顔を合わせるのが辛くなる程度の気持ちはあったんだね」
「・・・はい」
「ううむ、難しいね。最初はともかく、その後も関係が続いててしかも合意の上でとなるとなあ。一方的に彼のことは責められないよな。でもそういうケースが過去何件もあって、その度に君みたいな優秀な女性社員が辞めてくってのも、問題だしなあ・・・」
「え?・・・」
タカハシは優秀だと思いました。
先刻、客先で商品説明をやらせてみましたが、説明の仕方、顧客の話を聴いて相手の意図を的確に把握する能力は、新卒とは思えない程高いものでした。こんなことでこの子を失うのは会社にとって損失だなと思い、率直にそのことを言いました。
「さっきの君の商品説明さ、新卒とは思えないほどだったよ。それなのにこんなことでヤル気無くしちゃうなんて、もったいないなあ・・・」
彼女の顔がパッと明るくなりました。が、すぐに顔を曇らせ、歪ませ、瞳を潤ませ始めたから動揺してしまいました。
「嬉しいです。先輩にそう思ってもらえて」
そう言って俯き、ハンカチを取り出して鼻をすすり始めてしまいました。
おいおい・・・。
こんな些細な誉め言葉で涙ぐむなんて、精神的に不安定になっているのは明らかでした。相当追い詰められているのだな、と気の毒にすらなりました。
「独りで抱え込んでると辛くて・・・。誰かに聞いてもらいたくて・・・。他の人には話せませんよ、こんなコト。ハセガワさんだから、相談したんです」
頼られて光栄に思う反面、厄介だな、と思いました。もしタカハシの話が本当なら話は深刻だからです。
「君は、どうしたい? 彼と縁りを戻したい?」
彼女はパッケージから再びタバコを取り出して火をつけ、ふーっと長く煙を吐き出し、髪をかき上げ、じっと窓の外に目を向けていました。
長い沈黙が続き、そして彼女は言いました。
「忘れられないんです。・・・彼のセックスが」
危うく口に含んだ水を彼女に向かって噴き出すところでした。すんでのことで飲み込み、彼女の顔をマジマジと見てしまいました。
「今他の子と付き合ってるって言われました。振られたんですよ、私。でも、どうしても、忘れられないんです」
「・・・」
何と言っていいか、わかりませんでした。正直言って、俺の一番苦手な分野でした。
彼女としては今の現状を解決したいから、というよりは孤立した状態に耐えられず、誰でもいいから胸の内を聴いて欲しかった、とりあえず一番話し易そうな俺、というのが本当のところなのでしょう。
それ以上詮索せずとりあえずは店を出ることにしました。タカハシが熱い目をしてくるので、それに耐えられなかった、ということもありましたけど。
「あの、さ。その相手って、誰?・・・言いにくいかもしれないけどさ」
走り出した車の中で、俺は尋ねました。彼女は爪のマニキュアをチェックするように眺めていました。
「やっぱり言わないとダメですよね」
「ダメって言うわけじゃないけどさ・・・。名前を聞いても俺に今すぐ何かできるわけじゃないしね。言いづらいよね、普通。でも相手がわからないことにはなあ・・・」
高速道路のインターチェンジの手前にはラブホテルが軒を連ねていました。道路は高速に入る車で混雑していて、その前をノロノロ進みます。彼女がチラチラそちらを見ているのが気になり、俺は話題を変えることにしました。
「ところで、あの・・・、どうして俺なの? 誰かに話したかったのは解るけど、どうして俺なんかに」
すると塞ぎがちだった彼女はすこし表情を寛げました。
「ハセガワさんて、なんかホッとするようなオーラがあるんです」
「オーラ? 安全パイってやつかな? それとも間抜けってことかな」
俺は少々おどけて、さも傷ついたように言ってみました。今はこの隠微な空気を換え、ギャグにするべきだ。脳が最大音量で一斉警報を鳴らしていました。
「違いますよォ。なんだか一緒に居ると安心できるって感じで・・・。兄貴って感じなんです。そういう意味ですよ」
実はタカハシだけでなく、性別を問わず後輩社員から何かと質問されたり相談を受けたりすることが増えていました。思えばこれもマユとのセックス復活効果なのかも、などと下らないことを考えたりしました。その原理が、まったく皆目わからないのでしたが。
「こんな兄貴、頼りないと思うけどなあ。まあ、俺で力になれることならいつでも相談してよ」
「ホントですか、嬉しい!」
「ウン」
前の車との間隔が開き、俺がアクセルを入れた瞬間、タカハシのエナメルの爪がハンドルを掴んでいました。車は半分だけラブホテルの入り口に頭を突っ込んで止まりました。後ろの車からのクラクションが鳴り響く中、俺はタカハシの潤んだ瞳を見つめていました。
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