寝取り寝取られ家内円満 ~最愛の妻をなんと親父に寝取られたのに幸せになっちゃう男の話~

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33 夕焼け小焼け

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「6年ぶりだ。ここまで来るのに6年かかった」
 ハンドルを捌きながらではありましたが、失踪したオフクロをただひたすらに追跡した過去を語るオヤジの語り口には、その当事者にしか醸せない血肉の詰まった生々しさと痛々しさが感じられました。
「流石の俺も感極まってしまった。だが、反対に母さんはひどく素っ気なかったな。心なしか、若やいだ感じに見えた。
 着ていたのも普通の部屋着でどこにも想像していたような如何わしいような印象はない。ただ、少し化粧が濃くなっていた。手足の爪には赤いマニキュアが塗られていた。そういう派手な装飾をしないひとだったから、まず驚いた。
 玄関先からして多くの女物の靴が並んでたし、家の中は何か雑然としていた。一人や二人じゃない、明らかに数名の人間がここで生活している。そういう感じの空気があった。しかし、家の中はひっそり静まり返っていて、母さん以外の人の気配は全く感じなかった。
 主とかいうヤツは現れなかった。
 俺を避けているのか、腰抜けなのか、極度に表沙汰になるのを恐れていたのか、自分が立ち会わなくても母さんが翻意するわけがないと自信を持っていたからか。実際のところは、わからん。
 会ったらすぐ連れて帰るつもりだった。クソ野郎が現れたらぶん殴ってでも、と。
『家に帰ろう』
 当然のことを俺は言った。
 でも母さんは、ヨウコは拒んだ。
「イヤです」
 俺に面と向かってハッキリ、そう言った。
 家を出ていったきり連絡も寄越さず帰ろうともしなかったのはヤツの意向もあったろうが実はヨウコ本人の意思でもあったわけだ。洗脳されているのか、本心なのかはその時はわからなかった。
 どうぞ、とヨウコは言った。
 立派な応接セットのある部屋に通された。懐かしいヨウコの匂いを嗅いですぐにも抱きしめたくなった。が当のヨウコの背中が俺を拒絶していた。
 何故帰れないんだ。向き合ってすぐに本題にかかった。
 ヨウコは何も答えなかった。そのかわりに服を脱いだ。
 恥じらいも、何も見せなかった。ごく自然にそうした。下着も何も着けていなかった。その代わりに、体中に飾りがジャラジャラついてて、入れ墨までしていた。もちろん、驚いた。
 こんな体になってしまった。もう普通のセックスでは満足できない、ヤツだけがそれができる、だから戻れない。そう、ヨウコは言った。
『そんなものはどうにでもなる』
 そう思っていたからそう言った。
 そこで初めて母さんは、ヨウコは笑った。ゾッとするほど冷ややかな笑いだった。
『どうにもならなかったから、こうなっているのに』、と。
 ヨウコの表情をずっと見ていた。昂ぶりも苦悩も悲しみも全く見えなかった。よく能面のような、って言うだろう。そんな感じに見えた。母さんの表情には感情が、見えなかった。
 俺は言った。
 タカシはどうなる、お前のたった一人の実の息子だぞ。このまま捨てるつもりなのか、と。そう言った。
 そうしたら初めて顔を曇らせた。
『ごめんなさい・・・』
 ヨウコは顔を伏せた。そして初めて、ゴテゴテに飾りのついた体を恥じるみたいに隠した。
『あの子は、タカシは元気にしている?』
 そして、初めてお前のことを訊いてきた。
 元気だ。気になるなら直接会ってやれ。俺と一緒に帰ろう。またあいつと一緒に暮らしてやってくれ。少なくともアイツに直接訳を話してやってくれ。それぐらいできるだろうと、それぐらいはするべきだろうと。何度も言った。
 でも、ダメだった。
『手紙を書きます、明日また来て下さい』
 それだけ言い残してヨウコは部屋から出て行った。
 もちろん、後を追おうとしたが家のどこかに待機していたのか例の俺を襲って来た女性が現れた。要件がお済でしたらお引き取り下さいと言われた」
 その時の苦渋や悔しさを想い出したのか、オヤジはハンドルを叩きました。
「6年だぞ!
 6年間、ひたすら探し続けてその結果がそれだ。ハイ分かりました、なんて素直に納得できるわけがないだろう。
 その場で暴れてやろうかとも思った。腕ずくでも引っ張り出せばよかったと後悔しないでもなかったんだが、やめておいた。そんなことをすれば明日はヨウコ本人には会えなくなるかもしれないと思ってな。
 仕方がない。その日はホテルに戻り次の日再訪した。
 昨日と同じ無表情に玄関にでてきたヨウコは約束通りお前宛ての手紙をくれた。
 しかし、それだけだった。
 ここにはいつまで居るんだ。もし移動するならせめて、居場所だけは都度俺に知らせてくれ、と頼んだ。でも、その願いもあっさり無視された。
『じゃあ、さよなら』
 そのまま、ドアを閉められた」
 森の中を走る車の中に沈黙が溜まっていました。
 マユはシートに体を預け、両手で顔を覆っていました。オヤジは黙々とカーブの連続を躱してゆきました。俺も何も言えず、ただ前を見つめていました。
「だがな、薄情なんかじゃない。
 母さんは、必死でお前を守ろうとしたんだと思う。それほどまでしても、な。もう生涯会わない方がお前のためだと思っていたんだと思う。
 俺にはそれがわかったんだ。わかったから、だから俺はおとなしくその家を辞した。
 そしてすぐに、お前宛てのあの手紙を読んだ。
 お前も読んだならわかるだろう。
 洗脳されている人間の書いたものじゃない。手紙のすべてに俺やお前への思いが、労りが、苦悩が、悲しみがあった。
 あれを書いたのは、間違いなくお前の本当の母さんだ。俺の妻だった、俺の愛したヨウコだ。
 母さんはな、それほどまでにお前を愛していたんだ」

 やがて車は公道から砂利敷きの私道に入りました。敷地内の木々は手入れがいいのか、奥にある建物が見えるぐらいの疎らな植生でした。陽が陰り建物の窓には明かりが見えていました。
 訪問者用のスペースと思われるその駐車場に入り一番手前に車を止めエンジンを切りました。俺たちの車だけでした。木々をすり抜けてくる潮風の音に気が付きました。
「ここに、母さんが?」
 恐る恐る、俺は訊きました。
 オヤジはハンドルを握ったまま、うむ、と一つ頷きました。
「ああ、いい風だ」とオヤジは言いました。
「その後、離婚届が届いてな。
 そのまま出すのは癪に障ったし俺も往生際が悪い。嫌がらせしようと探偵を張り付けてやった。奴らその後何度か居所を変えた。その都度探し出して手紙を送ったりもした。何度もな。最後っ屁の突っ張りってやつだ。そんなことをしたところでどうなるわけでもないとわかってはいたんだがな。箱の中にあったろう? 出した手紙は全てああして宛所不明とか受け取り拒否で戻ってきた。
 だがもう、自ら会いに行こうとは思わなかった。
 毎日のように手紙を書き続けているうちに、だんだん母さんの気持ちがわかってきたからなんだろう。それが母さんの愛情なんだと思えるようになったんだな。探偵を張り付けて手紙を送り続けたのは俺流の写経みたいなもんだったんだろう。俺の気持ちの整理、みたいなヤツだったんだ。
 一年ほどそうしてたが、思うところあって、やめた。
 届にサインして、判子ついて、役所に出した。そのことを手紙に書いて送ってやった。初めて受け取ってくれたんだろう、その手紙が戻ってくることは無かった。これで本当に全てが終わった。漸くヨウコを諦める覚悟ができた。そう思った。
 だが、それから一月もしないうちに、ある病院から連絡があった。奥さんを保護しています、と」
 施設の夕食はもう終わっていたようですが、遠方からの見舞い客のために土日は午後八時まで面会ができるとのことでした。
 俺たち三人は面談用のフロアに設えられたソファーに座っていました。簡素な意匠でしたが、地中海風の内装と鎧窓、そこかしこに置かれた観葉植物や籐椅子等のインテリアがリゾートホテルのような贅沢な雰囲気を醸していました。
「その病院の前にジャージ姿でボーっと突っ立っていたんだそうだ。不審に思った看護師さんが声を掛けてもまったく反応がない。ただ、ボーっと立っていた。手に俺の住所と電話番号が書かれたメモを握りしめていた。それで俺に連絡が来たわけだ」
 若い男性の介護士が運んできたアイスコーヒーを飲みながら、開かれた窓から見える海を眺めていました。夕暮れの海は、朝お義母さんと砂浜で見た海とは違い、オレンジ色に煌めいていました。一日の内に内海をぐるりと回って二度も太平洋を見ながら義理の母とオヤジから話を聞く。まったく不思議な日でした。
 そしていよいよ、15年ぶりに実の母親に会うことになりました。
「要は、母さんはあのクソ野郎に捨てられたわけだ。
 もちろん、すぐにその病院に向かった。
 ヨウコは看護師に暴言を吐いたり。唾を吐いたりして暴れていた。しかも、驚いたことにもう俺のことをすっかり忘れていた。それどころか最初俺をかつての父親だと思ったらしく、怯えた。
『男の人とは会ってない。だから打つのは止めて。お願い!』
 俺はもう、何も言えなかったよ・・・」
 マユに脇腹を突かれ、促された方を見ると、長い廊下の向こうから介護士の男性に車いすを押されて中年の女性がやってくるのが見えました。
「いいか。
 今母さんの意識は幼児のころまで戻ってしまっているんだ。退行しているんだ。
 絶対に母さんと呼びかけるな。母さんの言葉を否定するな。そうでないと混乱してしまう。もう母さんは一週間前どころか、数時間前のことさえ記憶できないようになってしまっているんだ。そういう病気になってしまっているんだ」
 その中年の女性は白いTシャツに青いジャージのズボンを身に着けていました。介護士とニコニコ笑って談笑しながらやってきました。
「でね? ヨウコね、おともだちのね、ミサちゃんとね、お家作って遊んだの」
「へえ~どんなお家作ったの?」
「段ボールでね、中に入ってお料理もできるの」
「すごいね。こんど一緒に作ろうか。あ、またおともだちが遊びに来たよ。ハイ、ごあいさつしようか。こんにちはって」
「こんにちは」
 オフクロは満面の笑みで俺を見つめ、そう言いました。

 15年ぶりに会う実の母親。夢にまで出て来たオフクロ。

 顔の皴が増えてこそいましたが、子供のころの記憶よりもふくよかで幸せそうに見えました。
「こんにちは」
 目の前にいる女性と記憶の中のオフクロとが同じ人間なのだということがどうしても信じられませんでした。何故ニコニコ笑って話しかけられるんだ。何故こんなに楽しそうなんだ。
 どうしても、納得がいかなかったのです。
 手紙は読みました。オフクロの過去も知りました。オヤジから出て行ってからの経緯も聞きました。目の前の人は病気です。俺のことも忘れてしまっていると聞きました。
 それで、終わりか? 
 これで納得しろというのか?
 いままで自ら封印していた記憶がまるで津波のように一気に溢れ出てきました。

 何故朝食も夕食も食パン一枚だけだったのか。
 何故穴が開いたままの上靴を履き続けなければならなかったのか。
 何故熱があるのに学校に行かされねばならなかったのか。
 何故夜の9時まで保健室で寝かされねばならなかったのか。
 何故熱が出るのは根性が無いからと罵倒されなければならなかったのか。
 何故遠足の弁当を自分で作らなければならなかったのか。
 何故毎晩独りきりで留守番をさせられていたのか。
 何故「お帰り」と言っただけで打たれなくてはならなかったのか。

 そしてあの、愛欲に溺れるオフクロの姿が・・・。

 オフクロがいなくなってからその記憶達を全て心の中に仕舞い込み、その代わりにオヤジを憎んだのです。
 思い出さないように努めたのは、それでもオフクロを憎むことが出来なかったからです。
 オフクロを殺そうとしたのは、好きだったからです。
 愛していたからです。愛して欲しかったからです。抱きしめて欲しかったからです。それが叶わないなら、オフクロを殺して自分も死のうと思ったのです。
 たぶん傍目からも分かるほど取り乱し、震えていたのでしょう。気が付くと、マユの力強い手で腕と肩とをガッシリと掴まれていました。振りほどこうとしても、全力で俺を抑えて離しませんでした。暴れ出すかと思ったんでしょう。マユは俺を見つめ無言で何度も首を横に振りました。
 まるでマユの大柄な体格と力強い腕はその時の俺を抑えつけるためにそこに存在するかのように錯覚するほどでした。男の俺が、身動きもできないほどに、マユの腕は力強いものでした。
「ヨウコちゃん、こんにちは。じゃあ、おじさんと遊ぼうか」
 オヤジがオフクロの傍に寄り、手を取って手遊びを始めました。
 せっせっせーのよいよいよい・・・。
 楽し気に子供のように手遊びに興じ微笑むオヤジを見ました。その手慣れた風に、オヤジの部屋の本棚にあった手遊びや折り紙の解説書や絵本があった理由、これまで毎週のようにゴルフだ、付合いだといって外出していた本当の行く先を知りました。
「うわあ! ヨウコちゃん。上手だねえ」
「えへへ。おじちゃん、おもしろいねえ」
 オヤジとオフクロが楽しそうに戯れるシルエットを見ながら、体の奥の滾りが徐々に静まってゆくのを感じていました。マユが俺の背中を優しく摩ってくれていました。
 そしてふと、浮かんできたメロディーを口ずさんでいました。
「夕焼け小焼けで日が暮れて・・・」
 それは幼いころにオフクロが歌ってくれた古い童謡でした。
 幼い俺を膝の上に乗せて頭を撫でながら、オフクロがよくこの歌を歌ってくれたことを思い出したのです。

 その、マユとオヤジと俺のドタバタのあった夏。
 たびたび俺の夢に出てきたオフクロの顔。
 それは、俺を膝にのせて歌を歌ってくれたころの顔だったのです。
 細面で切れ長の美しい奥二重の目に優しい光が浮かび、いつまでも俺を見つめてくれていた、オフクロ。差し伸べた俺の手をとり、うっすらと赤みが差した自分の頬に当て俺を抱きしめてくれたオフクロの優しい顔が蘇りました。
「おおてて繋いでみな帰ろう・・・」
 オヤジと遊んでいたオフクロの口元からなつかしい歌声が流れてきました。穏やかな微笑みを浮かべ、ゆっくりと俺のほうを向いて優しげな眼差しを向けるオフクロに、いつの間にか俺は席を立ち、歩み寄っていました。
 介護士さんが車いすのハンドルを譲ってくれました。
 オフクロの車いすを押してテラスに出ました。
 外房の海は夕日を浴びてキラキラと眩く輝いていました。潮風がオフクロの髪を撫で上げ、その香りを運んでくれました。
 ふと、オフクロが俺を見上げました。
 次いで、俺のシャツに鼻をつけてクンクン匂いを嗅いでいたかとおもうと、突然俺の腰に抱きついてきたのです。呆気にとられてその様を見つめていました。そして、そのあどけない笑顔から出た言葉に唖然としました。
「上手だねえ。タカシは、お歌上手ねえ」
 本当にそう言ったんです。聞き間違いなんかではありません。
「・・・お母さん!」
 驚いて後ろを振り返りました。今の聞いたよな、と。
 オフクロのその言葉が信じられず、確認したかったんです。
 マユは顔を覆って俯きました。それから、おふざけが過ぎて大怪我で入院したわんぱく坊主を憐れむ母親のような複雑な表情を浮かべていました。あれだけお母さんて言っちゃダメと言われていたのに・・・。とでも言いたげに。
 オヤジは腕組みをして天井を見ているだけでした。まあ、仕方があるまい。いかにもそう言い出しそうな顔をしていました。無理もないな。そう言いたげな顔をしていました。
「大好きよ、タカシ・・・」
 俺を見上げるオフクロは、さらに俺の名前を繰り返しました。
 オフクロの意識は自身の幼児の頃に退行しているのだと聞かされていました。病状は進行しこそすれ、回復の望みはほぼ無いと。
 でも、俺をみつめ、ハッキリ俺の名前を呼んだのです。今を生きている記憶か、二十年以上前かにしろ、俺を知っている、母である時の記憶が残っていなければ、その名前が出てくることはありえません。
「母さん! 母さん。俺だよ、タカシだよ」
 いつの間にかオフクロの前に膝をつき手を取って叫んでいました。
 奇跡は起こったのだ! そう思わずにはいられませんでした。
 オフクロは微笑したまま俺をじっと見つめていました。
「おじちゃん。もっと歌って」
 え?
「今、自分で呼んでくれたじゃん。タカシだよ! 母さんの息子のタカシだよ!」
 必死にオフクロに呼びかけました。
 もしかすると、オフクロは、俺の母さんに戻ってくれるかもしれないんだ。何故それがわからないんだ!
 オフクロは俺の手の上に白く柔らかな手をそっと重ねました。
「夕焼け小焼けで日が暮れて・・・」
 そして俺の両手を包み、「しあわせ?」と尋ねました。
「しあわせだね。きょうもいいお天気だったね。あしたも・・・、きっとお天気だねえ」
 夕陽に赤く染まったオフクロの顔には変わらない無垢の微笑が浮かんでいました。俺はその横顔をずっと見ていることしかできませんでした。


 結局、オフクロが名前を呼んでくれたことは二人には話しませんでした。
 あれはきっと俺だけに聞こえた言葉なのだ。そう思うことにしたのです。

 運転するマユが時折道順を確認する以外は、俺たちは互いに言葉を交わしませんでした。
 帰りの暗い山道。峠をくねくねと越え、東京湾に面した街の灯りが見え始めるころ、
「思うんだがな・・・、もしかすると母さんは、ワザと病気になったんじゃないだろうか」
 オヤジがおもむろに口を開きました。
「もちろん、そんなことができるわけはないことはわかっている。それでも、そう思わないではいられないのだ。
 母さんはあの手紙の通り、今一番神様の近くにいる。そう思わんか。母さんは自ら無垢になり、神様のもとに昇ってゆこうとしている。俺にはそう思えてならないんだ」
 マユは黙って前を見つめハンドルを握っていました。
 バックミラーを傾け、オヤジと鏡越しに対面しました。そこに、目を閉じたオヤジがいました。
「いいか、タカシ。
 あの手紙を読んでしまったからにはタダでは納得できんだろう。そう思ったから母さんに会わせた。だが、もう二度とここには来るなよ」
 いつもの傲岸不遜風味ではなく、切々とした願いの滲み出るような言葉でした。
「お前の気持ちもわからんではない。15年ぶりに会ったんだ。お母さんと呼びかけたくもなるさ。だが、それで母さんを混乱させちゃいかん。あの病気は治療法がない。症状を緩和してゆくよりほかはないんだ。
 あの手紙にあった通りだ。
 母さんは、一番綺麗だった頃の姿でお前に記憶されたいんだ。
 それが、母さんが母さんであったころの、最後の望みだったんだ」
 運転しているマユの顔が計器盤の灯りに浮かび上がっていました。愛する妻の顔は、少し切なげに見えました。彼女の肩にそっと手を添えてやりました。
「あの手紙が母さんの最後の姿で、さっき会ったあの施設の母さんはもう母さんじゃない。そう思え」
 頭では理解できます。
 ですが、いきなりそんなことを言われても、心から納得することはできませんでした。
「だけどさ・・・」
「それから、あの野郎にも一切関わるなよ。絶対に詮索したり調べたりするな。
 忘れるんだ、タカシ。
 俺とは違う形ではあれ、ヤツも母さんを愛してくれていたんだろうと思う。事実、自殺してもおかしくなかった母さんを拾ったのはヤツだしな。それに、これ以上ヤツに関われば俺に母さんのことを教えてくれた女性にも迷惑がかかるかもしれん。
 それに、母さんにメモを握らせてくれたのはあの俺に襲い掛かって来た女性なんじゃないかと、今ではそう思っている。襲って来た女も修道院にいる女性もそうだが、あのクソ野郎のところにいたのは皆同じように、本当は心根の美しい、優しいひと達だったんじゃないかと思うんだ」
 俺には一切何も知らせず、たった一人で孤独な戦いをしてきたオヤジ。
 それを思うと、もう何も言えませんでした。
 何かがオヤジに憑りついて、常人には出来ないような立ち回りをさせていた。
 玄関でオヤジに憑いていたものがスーッと抜けていったように見えたのは、もう役目が終わったからなのだ、と。
 家宝の日本刀を振り回して一人チャンバラをした俺を襲った一陣の風が持っていったものと同じものがオヤジからも抜け出ていったのだ、と。
 そう、思えました。
「いいな。この二つは必ず守ってくれ。ヨウコの夫として、お前の父親としての俺の願いだ」
 オヤジが俺に願い事をするなんて、初めてです。驚きました。

 車は海の上を渡る道に出ました。
 眩く照らされた道路と対照的に、左右の眼下の海は真っ黒にうねっていました。道の彼方には眩く光る都心のビル群が見えます。まるで地獄の真上を通過する天国への道のように見えました。
 あの初夏の出来事からずっと心の片隅にこびりついていた「あること」が気にかかりました。
「なあ、オヤジ、訊いてもいいか・・・」
 バックミラー越しに、窓の外の夜景に見入るオヤジに語り掛けました。
「オヤジとオフクロのことはわかった。なんとなく、だけど」
 俺は言いました。
「マユとのことも。うまく言葉にできないけど、なんとなく、わかる」
 運転しているマユが俺にチラと視線を送るのがわかりました。
「あの夜のことも。もう怒ってないよ。ショックだったけどさ」
 バックミラーの中で、オヤジと目があいました。
「だけど、それを、こいつを、マユを、どうして手放せたのか。手放せるのか。別れられるのか。別れたのに息子の嫁となって同居して、どうして平気なのか。フツー、そう思うだろ」
 マユはただひたすら黙々とハンドルを握り、俺とオヤジを道の彼方の眩い天国に導いてくれていました。かつての恋人とその息子である夫の俺との、いわば三角関係の確信に触れるような会話。そんな尋常でない会話を耳にしながら、いささかも動揺することもなく。
 あらためてスゴイ女だなとマユを思うとともに、実は何となく自分の発した疑問の答えが、海の向こうの煌めく街の光の中におぼろげながら見えて来たのを感じていました。たぶん、あの母の手紙を読んだからだと思います。
「・・・それなんだがな」
 オヤジは再び窓の外の暗い海に目を向けていました。
「実のところ、俺にもよくわからん」
 車は海の上のパーキングエリアを通りすぎ、波の下のトンネルに入りました。
「わからん、というより、上手く説明できん。
 それはきっと、今の母さんにはなくなってしまったものだ。出会った頃の母さんにはあった。俺が母さんにひとめ惚れしたのもきっとそのせいだし、母さんが望んだ離婚を認められなかったのも、姿を消した母さんを6年もの間追い求めたのも、それを忘れることが出来なかったからだ」
 バックミラーのオヤジの顔はオレンジ色のトンネルの照明になぶられているように見えました。
「マユを愛したのも、もしかするとマユの中に母さんと同じものがあるのかも知れんと思ったからだ。それは確かにあったと思う。だから、マユに惹かれたのだと思う」
「今は?」
 その、一番肝心な質問に、オヤジは答えませんでした。答えなかったのか、答えられなかったのか。
 オヤジはただ黙って、運転するマユを見つめていたように思います。

「ちょっと寄るところがあるから」
 そういうオヤジを中央駅で下ろしました。車を降りる間際、
「でもさ、もうこれっきりなんて、俺は嫌だ。絶対認めないからな。だって、たった一人のオフクロがあんなままなんてさ。あんまりだ・・・」
 どうしても気持ちの整理がつかず、俺はガキのように駄々を捏ねました。
 オヤジはしばらく無言で俺を見つめていましたが、やがて夜の雑踏の中に消えてゆきました。
 それから車は真夜中の都心を西に向かって走りました。しばらくするとぽつぽつとにわか雨が降ってきてフロントグラスに光の球を作り始めました。
「ホテル、戻るの?」
「うん。課長にずいぶん迷惑かけちゃった。ほっとけないしなあ」
「・・・ねえ」
 運転しながら、マユは俺の手を探り握り締めました。
「今夜は独りでいたくない。たー君と一緒にいたいよ」
 マユと手を絡ませ合いました。フロントグラスの水滴が視界を妨げるほどになってもマユが手を放さなかったので、左手を伸ばしてワイパーを動かしてやりました。滲んだネオンの鮮やかな反射が明瞭になりました。

 ホテルの部屋からは応答がありませんでした。
 たまたま、フロントに居たのが課長が付き合っていると言っていた例の「巨乳のマキちゃん」と思しき女性でした。事情を話してマスターキーで開錠してもらい中に入りました。課長はパンツ一丁でデスクに向かったまま、後頭部をのけぞらせて意識を失っていました。
「ひっ・・・」
 固まっているマキちゃんを避けて駆け寄ると、盛大に鼾を掻き始めたのでホッとしました。マキちゃんに礼を言い、そのままマユと二人で課長を引きずってベッドに寝かせました。
「やー。まだ全然終わってないや」
 PCを立ち上げて溜息をつきました。
「手伝おうか」
 マユに課長の仕掛りを頼みました。俺とマユは隣合ってPCに向い仕事を仕上げました。
 絶対極秘の仕事でしたから社長にバレたら大目玉をくらいそうでしたが、マユなら許してくれるだろうとキーボードを叩きました。
 作業の間、口を利いたのは書類の内容に関しての質問と説明だけで、後は二人とも黙々と手を動かし、資料を見、キーを叩き続けました。
 有難かったです。
 俺もマユもお互いとても眠れそうもない夜でしたから。独りきりにはなりたくなくて、でも何となくオフクロのことを話すのが辛かった。こうやって二人で一緒に居ながら、オフクロのことを話す必要が無い時間を持てたのは幸いでした。目の前の書類を処理することに没頭できたのは救いでした。
「うふふっ!」
 ふいにマユが忍び笑いを漏らしました。
「何だよ、気味悪ィな」
「だあって、初めて会った時みたいなんだもん!」
「ああ。そう言えば、そうだな」
「あたし、速くなったでしょ?」
 出し抜けに急に目の前が歪み、それは突然に襲ってきました。
 鼻の奥、眉間に鋭い痛みが走り、口が歪み、嗚咽がほとばしり出ました。
 俺は声を上げて泣き出してしまったのです。
 マユはそのふくよかな胸に俺を抱いてくれました。縋りつかないではいられませんでした。課長を起こさないように声を忍ばせるのがやっとでした。
 俺の気持ちが鎮まるまで、マユはずっと俺の頭を撫で続けてくれました。何も言わず、ただ、抱きしめてくれました。
 もし、そこにマユがいてくれなかったら・・・。
 俺はその日受けたダメージから到底回復することは出来なかったんじゃないかとおもいます。

「ありがとう、・・・マユ」

 やがて窓の外がほの明るくなりました。
 漸く作業は終了しました。
 マユは俺の肩の上に頭を載せて眠っていました。二人で一枚のブランケットにくるまれながら、最終チェックを進めていました。
「あー。おいっ! 何だ、お前ら!」
 背後で課長の声がして、マユが目を覚ましました。
「お前ら。まさかここでヤッたんじゃないだろうな!」
 俺とマユは顔を見合わせました。スッピンで、目の下にクマをこさえて笑うマユを、今までで一番可愛いと思いました。


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