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安眠枕〈碧杖印〉六十三番
3.
それとキヴァリ工房の応接室でエステルが目の下に隈をこしらえた巨漢にしがみつかれていることとの間に何のかかわりがあるのか。この邂逅にはいくつかの事情が絡んでいる。
エステルは二十歳、呪具師だ。
眠りの魔女と賞賛された亡き祖母ミルヤから高い魔力、診断に必要な鏡づくりの知識と技術、呪具師としての能力を受け継ぎ将来を嘱望されている。安眠枕と鏡づくりの腕に限っていえばキヴァリ工房を継いだ祖母の一番弟子サーラ・キッポを凌ぐ。しかしエステルは呪具師として優秀でもいささか未熟だった。眠りの魔女の遺した工房――やんごとない筋からだけでなく全国から寄せられる汎用枕製作の依頼、呪具師見習いに縫い子、まじない素材加工職人に秘書などたくさんの職員を抱える大工房を継ぐには経営の才も必要だ。「鏡づくりの腕もわたしよりよっぽどいいんだし、ほんとはエステルが継ぐのがいいと思うんだけどねえ」といってくれているが、やはりサーラおばさんは祖母ミルヤが見込んだだけあって広く目配りができる。エステルから見ても工房の主に向いていた。
――若い呪具師がいきなり背負うには工房が大きくなりすぎてしまったねえ。〈碧杖印〉はあんたに任せるから独立すること。いいね。
ミルヤのいいつけに従い、エステルは十八歳の成人時に独立の道を選んだ。
週末の休みにキヴァリ工房で呪具師として仕事を請け負うかたわら、平日は聖騎士団管理本部で三等文官として、書類が揃っているのいないの、ちゃんと記入されているのいないの、正しいの間違っているの、締日に間に合うの間に合わないのと事務作業に勤しんでいる。将来、呪具師として独立するためのアトリエ資金を貯めるためだ。しかし昨今、安眠枕製作に欠かせないピネッキ魔境産まじない素材の価格が急激に高騰している。呪具師なのにまじない素材抜きで安眠枕をつくるわけにいかないので高くても買うほかない。そのために独立がどんどん遠のいてしまっているのが現実だ。
太い顧客と優秀な職員、高級且つ貴重な素材の在庫に潤沢な資金の揃った工房のかわりに、祖母ミルヤはひとりでつくった一点ものの〈碧杖印〉シリーズのメンテナンスを孫娘に託した。
ミルヤの〈碧杖印〉シリーズとは、所有者に確かで安らかな眠りを約束するといわれるオーダーメイドの枕だ。同シリーズの製品にミルヤの署名はないが、代わりに碧杖鹿とシリアルナンバーが刺繍されたタグがついている。碧杖鹿とは、ピネッキ魔境付近に棲息する魔物との交雑種だ。稀少な鹿で、後方へ弧を描く美しい緑色の角を生やしていることで知られる。
ただ金を積めば〈碧杖印〉の枕が手に入るわけではない。ミルヤのお眼鏡にかなった人物のみが確かで安らかな眠りを得ることができたのである。
忌引き最終日のこの日、〈碧杖印〉六十三番の所有者から緊急の依頼が入り、エステルはサーラおばさんに立ち会ってもらい祖母の顧客と会うことにした。祖母ミルヤの形見分けのために遺品を仕分けしていた手を止めて応接室へ出向いてみれば〈碧杖印〉の六十三番の安眠枕所有者にステラ呼ばわりされてしがみつかれる羽目に陥っている。
「ご依頼って、枕絡みなんですよね?」
「そのはずだけど……」
目の下にどす黒い隈をこしらえだいぶ調子が悪そうだったにもかかわらず、〈碧杖印〉六十三番所有の巨漢紳士は身軽にテーブルをひらりと飛び越えエステルの前にすちゃと跪き
「ステラ……」
涙目で手を取り口づけて膝に顔を埋めてぶっとい腕でぎゅうううとしがみつくなり
すう。
眠ってしまった。
――どこかで会ったことがある、ような……?
客は見たところ三十歳前後、派手ではないが生地と仕立てのよい服という落ち着いたいでたちだ。半泣きのわりに艶のある低い声で、不眠に困じていなければきっと感じのよい紳士なのだろう。不健康そうな見た目のわりに身軽且つ優雅な身のこなしであるが、いきなり抱きついた上に膝枕、あろうことか違う女の名前を呼びながら眠るなど紳士らしからぬ狼藉ではなかろうか。紳士であろうとなかろうと赦されるわけがない。しかしすわ助けを、と慌てるサーラおばさんをエステルは止めた。
「様子を見ましょう」
「だ、だいじょうぶかしら」
正直、分からない。
客はただ体が大きいだけではなさそうだ。テーブルだのストーブだのソファだのが配されさして広くもない応接室で調度を駄目にすることなくひらりと迫ってきた。ただ者ではない。本気で暴れ出したら無事ではすまないに違いない。ここは聖騎士団詰所でなく呪具工房だ。警備など常駐しているはずもない。工房一の偉丈夫は素材加工職人のドリースおじさんだが、巨漢紳士が丸太ならドリースおじさんは枯れ枝だ。とてもではないがこの巨漢紳士と互角に戦えるとも思えない。
一方で、祖母ミルヤ・キヴァリの人を選ぶ目を信じたくもある。
乱暴に要求してきたり順番を無視したりする者を、ミルヤは顧客として認めなかった。
それだけではない。
ステラ。
それは、エステルの愛称だった。早くに亡くなった両親、そして先日天に召された祖母、家族だけが呼ぶ名前だ。なぜこの客はエステルをステラと呼んだのだろう。
エステルは二十歳、呪具師だ。
眠りの魔女と賞賛された亡き祖母ミルヤから高い魔力、診断に必要な鏡づくりの知識と技術、呪具師としての能力を受け継ぎ将来を嘱望されている。安眠枕と鏡づくりの腕に限っていえばキヴァリ工房を継いだ祖母の一番弟子サーラ・キッポを凌ぐ。しかしエステルは呪具師として優秀でもいささか未熟だった。眠りの魔女の遺した工房――やんごとない筋からだけでなく全国から寄せられる汎用枕製作の依頼、呪具師見習いに縫い子、まじない素材加工職人に秘書などたくさんの職員を抱える大工房を継ぐには経営の才も必要だ。「鏡づくりの腕もわたしよりよっぽどいいんだし、ほんとはエステルが継ぐのがいいと思うんだけどねえ」といってくれているが、やはりサーラおばさんは祖母ミルヤが見込んだだけあって広く目配りができる。エステルから見ても工房の主に向いていた。
――若い呪具師がいきなり背負うには工房が大きくなりすぎてしまったねえ。〈碧杖印〉はあんたに任せるから独立すること。いいね。
ミルヤのいいつけに従い、エステルは十八歳の成人時に独立の道を選んだ。
週末の休みにキヴァリ工房で呪具師として仕事を請け負うかたわら、平日は聖騎士団管理本部で三等文官として、書類が揃っているのいないの、ちゃんと記入されているのいないの、正しいの間違っているの、締日に間に合うの間に合わないのと事務作業に勤しんでいる。将来、呪具師として独立するためのアトリエ資金を貯めるためだ。しかし昨今、安眠枕製作に欠かせないピネッキ魔境産まじない素材の価格が急激に高騰している。呪具師なのにまじない素材抜きで安眠枕をつくるわけにいかないので高くても買うほかない。そのために独立がどんどん遠のいてしまっているのが現実だ。
太い顧客と優秀な職員、高級且つ貴重な素材の在庫に潤沢な資金の揃った工房のかわりに、祖母ミルヤはひとりでつくった一点ものの〈碧杖印〉シリーズのメンテナンスを孫娘に託した。
ミルヤの〈碧杖印〉シリーズとは、所有者に確かで安らかな眠りを約束するといわれるオーダーメイドの枕だ。同シリーズの製品にミルヤの署名はないが、代わりに碧杖鹿とシリアルナンバーが刺繍されたタグがついている。碧杖鹿とは、ピネッキ魔境付近に棲息する魔物との交雑種だ。稀少な鹿で、後方へ弧を描く美しい緑色の角を生やしていることで知られる。
ただ金を積めば〈碧杖印〉の枕が手に入るわけではない。ミルヤのお眼鏡にかなった人物のみが確かで安らかな眠りを得ることができたのである。
忌引き最終日のこの日、〈碧杖印〉六十三番の所有者から緊急の依頼が入り、エステルはサーラおばさんに立ち会ってもらい祖母の顧客と会うことにした。祖母ミルヤの形見分けのために遺品を仕分けしていた手を止めて応接室へ出向いてみれば〈碧杖印〉の六十三番の安眠枕所有者にステラ呼ばわりされてしがみつかれる羽目に陥っている。
「ご依頼って、枕絡みなんですよね?」
「そのはずだけど……」
目の下にどす黒い隈をこしらえだいぶ調子が悪そうだったにもかかわらず、〈碧杖印〉六十三番所有の巨漢紳士は身軽にテーブルをひらりと飛び越えエステルの前にすちゃと跪き
「ステラ……」
涙目で手を取り口づけて膝に顔を埋めてぶっとい腕でぎゅうううとしがみつくなり
すう。
眠ってしまった。
――どこかで会ったことがある、ような……?
客は見たところ三十歳前後、派手ではないが生地と仕立てのよい服という落ち着いたいでたちだ。半泣きのわりに艶のある低い声で、不眠に困じていなければきっと感じのよい紳士なのだろう。不健康そうな見た目のわりに身軽且つ優雅な身のこなしであるが、いきなり抱きついた上に膝枕、あろうことか違う女の名前を呼びながら眠るなど紳士らしからぬ狼藉ではなかろうか。紳士であろうとなかろうと赦されるわけがない。しかしすわ助けを、と慌てるサーラおばさんをエステルは止めた。
「様子を見ましょう」
「だ、だいじょうぶかしら」
正直、分からない。
客はただ体が大きいだけではなさそうだ。テーブルだのストーブだのソファだのが配されさして広くもない応接室で調度を駄目にすることなくひらりと迫ってきた。ただ者ではない。本気で暴れ出したら無事ではすまないに違いない。ここは聖騎士団詰所でなく呪具工房だ。警備など常駐しているはずもない。工房一の偉丈夫は素材加工職人のドリースおじさんだが、巨漢紳士が丸太ならドリースおじさんは枯れ枝だ。とてもではないがこの巨漢紳士と互角に戦えるとも思えない。
一方で、祖母ミルヤ・キヴァリの人を選ぶ目を信じたくもある。
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それだけではない。
ステラ。
それは、エステルの愛称だった。早くに亡くなった両親、そして先日天に召された祖母、家族だけが呼ぶ名前だ。なぜこの客はエステルをステラと呼んだのだろう。
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