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その3
ちょうど枕があったので、衝撃は特になかった。
しかし、気持ち的にはまたしても失神してしまったかのような衝撃だった。
(そのまま、なのか……)
視界の端に、嫌でも入ってくる大きな身体。
ほんのり匂う体臭。
前とは違う、ちょっとくぐもった声。
同じ夫であるはずなのに、まるで別人だ。
正直に言うと、説明を聞き終えたところでも、戸惑いは消えていない。
(それでも、私は――)
シエラは天井を見上げたまま、口を開いた。
「正直に言いますと、私は、太っている殿方よりも、以前のあなたのような、鍛え抜かれた身体のほうが好きです」
見えてはいないのに、夫の顔が暗く沈むのがわかる。
「……そうか」
「でも」
シエラは続けた。
「私は、どんなあなたでも、愛したい」
「――!」
私がぽつりと静かに言った言葉に、夫が息を呑む。
(ちょっと外見が残念になったくらいで、なによ。
中身は、いつもの旦那様じゃない)
シエラは、基本的に困難があれば燃えるタイプだ。
夫の見た目が変わったくらいで、ここまで育った気持ちを枯らすなんて、矜持が許さなかった。
心の中で謎の闘争心を燃やしながら、私はちらりと夫のほうに目を向けた。
……どこか、感動しているようにも見える。分厚い肩がふるふると少し揺れている。
(――それに、私のことを信じてくれたんだから、私は彼の気持ちに報いたい……)
「食事のたびに太る呪いが解けた、ということは、
健康管理に気を付ければ、痩せることも可能、ということですよね?」
「あ、ああ。おそらく……
まあ、あまり成果は出ていないが……」
夫は自分のお腹を再度もみ、はぁっと溜息をつく。
「お仕事のほうは、大丈夫なんですか?」
「仕事のほうは、身体をある程度まで絞るまでは、事務作業を割り当てられた。
いまの身体じゃ、みんなの足手まといだし、馬にも乗れないからな……」
彼が一か月も帰還が遅れた理由は、
彼を乗せる馬がいなかったことも、大きく関わっているらしい。
――移動手段に馬を使う騎士としては、致命的である。
「それと、慰労手当ということで、二週間の休暇をもらっている。
この休暇中に、できる限り鍛えるつもりだ」
「あら、二週間もですか!
じゃあ、しばらくゆっくりできるんですね」
シエラは、自然と顔がほころんでいくのを感じた。
実は、新婚ほやほやのときですら、彼にまとまった休みは取れなかった。
結婚式の翌日、たった一日、結婚休暇で休んだだけで、その翌日からは普通に騎士団の仕事へ戻っていったのだ。
(なにをしようかしら……領地巡り?
ああ、領内にある温泉に浸かりにいくのもいいわね。
ダイエットにもよさそうだし)
「ああ、迷うわね……
二人で楽しく過ごせること……二週間なんかじゃ足りないわ……」
先ほどまでとは違い、心が躍ってくる。
彼は身体を絞るのに忙しいかもしれないが、この際だ、とことん自分との時間を作ってもらいたい。
夫をそっちのけでやりたいことに思考を巡らせていると、
彼が静かに呟きを漏らした。
「君は……こんな風になってしまった俺と、
休暇中、一緒に過ごしてくれるというのか?」
夫は、いつになく不安げな表情でこちらを見て問いかけている。
(魔女には『妻はどんな俺でも受け入れてくれる!』と、啖呵を切っていたくせに)
本人を前にすると、やはり心が揺らいでしまうらしい。
そんな夫が、たまらなく愛しく感じた。
――この人は、さっき、
「どんなあなたでも、愛したい」
と、私が言ったことを、早速忘れてしまったのだろうか。
(どうせここで私が色々言っても、きちんと納得しないんだろうな⋯⋯)
シエラは何かを決心したように、ふうっと一息吐いた。
――言ってダメなら、行動に移すまでだ。
目の前の夫を真っ直ぐ見据え、ゆっくりと口を開く。
「旦那様。
何も言わず、ここまで来てください」
シエラは、そう言って、ぽんぽんと自分の隣を叩き、
足元近くの椅子に座っていたディーノを、自身の近くに呼び寄せた。
「……」
ディーノは、やや怪訝そうな顔をしたものの、
シエラの言うとおり、何も言わずに、のそりと側まで来てくれた。
「はい、そこに立膝をつく」
「立膝?」
聞き返しながらも、彼は床に立膝をついた。
大きな彼の上半身が、ベッドの縁から覗く。
「手を」
シエラの言葉に、訳も分からぬまま、ディーノが手を差し出す。
その、ぷにぷにとした手を、シエラは、そっと包み込んだ。
「ふふ……。
いつもは、ただ硬いだけなのに。
ぷにぷに、してますわ……」
触れたことのない感触に、思わず、笑みがこぼれる。
一方、ディーノは、そんなことを言われたことがなかったのだろう。
少し、恥ずかしそうに視線を逸らしていた。
「ここまで太ると……
手の甲まで、こんなふうに、ぱんぱんに膨れるものなんだな。
初めて知った」
ぼそりと呟かれた言葉に、シエラは、とうとう耐えきれなくなった。
「じゃあ、もっと教えてくださいな。
あなた自身も、知らなかった、今のあなたの身体について。
その顎肉……洗うとき、大変ではありませんか?」
――私の、ぶしつけな問いに、夫は眉を顰めるでもなく、
自分で自分の顎に手を当てた。
「あまり、意識したことがなかった。――触るか?」
突然の提案に、シエラは目を丸くした。
(え……いいの?)
さっき、手を触っただけで照れていたくらいである。
なんとなくではあるが、彼は、自分の太った部分を触られることに、
抵抗があるのだと思っていた。
「旦那様が、良いのであれば……ぜひ」
べつに、顎肉に興味があったわけではない。
けれども、このチャンスを逃したら――
夫が痩せてしまったら――
触れることも、二度とお目にかかることもできない部位である。
正直に言って、好奇心が、理性を上回っていた。
なぜか、夫の“いけない部分”に触れようとしているような、
奇妙な背徳感が、胸を襲った。
「じゃあ、ちょっと失礼します」
身体を彼の方へと寄せ、顔に手を滑らせる。
手のお肉よりも、柔らかい。
「あら、タプタプ」
「――なんだか、猫になったような気分だ」
確かに。
顎を触られることなんて、人間をやってたら早々ないだろう。
次に顎と頬に手をあて、ぷっくりとしたほっぺたをムニッと揉む。
夫の許可なく揉みだしたが、彼はされるがままだ。
ムニムニ。
(なにこれ、ずっと触ってられそう)
夫はずっと無言。
好きにさせてくれるということは、特に問題はないのだろう。
「あなたの輪郭は面長だと思ってましたが、今は丸くて愛嬌がありますね」
「⋯⋯」
普段は顔もゴツゴツしていて、頬はどちらかというとコケているタイプなのに、今はもりっと盛り上がっている。
――可愛らしいわ。
まるで子供に戻ったかのよう。
いや、きっと彼は子供の頃でもこんなに丸々はしていなかったのだろうけど。
気付けばその丸い頬に口を寄せていた。
まるで吸い寄せられたかのように口づけをし、終わったあと、自分でもびっくりした。
彼に自分からキスするなんて、後にも先にもこれが初めてのことだった。
「あら、ごめんなさい。無意識だったわ」
顔を話したあと、ついうっかり、といった様子で謝ると、夫は至極驚いた顔でこちらを見ていた。
なんだかその様子が可愛くて、調子に乗って、再度反対の頬に口づけを落とす。
すると、
「!」
抑えの効かなくなった夫が、私の腕を引いて自分の方へ抱き寄せ、そのまま私の唇をゆっくりとふさいだ。
ゆっくりと目を閉じ、ひさしぶりの夫を味わう。
――彼の頬を両手で挟み、プニプニと触れながら。
以前とは違う感触に、新鮮味を感じる。
彼の熱にあてられ、次第に蕩けそうな心地になってきた瞬間――
夫が、弾かれたように身体を離した。
「え⋯⋯」
急になくなってしまった温もりに、驚きとともに寂しさを感じる。
「突然、どうされたんですか?」
戸惑いながらも静かに問いかけるシエラだったが、内心はというと、
(え、なんでやめちゃうの!? いま、そういう雰囲気じゃなかった!?)
と、自分の夫をめちゃくちゃに非難していた。
しかし、そんなシエラに対し、彼はひどく申し訳なさそうな顔をして、視線を逸らしてから言う。
「すまない――。これ以上君に触れていると、止まれなくなる」
「だから?」
何を言っているのだろうか、この人は。
焚きつけたのは、どっちだと思ってるんだ。
「だから……
君も、不本意だろう」
(私が⋯⋯不本意、ですって?)
今のどこに、私が意にそぐわないことをされている要素があったというのだろうか。
勝手にシエラの気持ちを決めつけてくる夫に、途端にカッとなって、その手を彼へと伸ばした。
むに。
「っ!?」
シエラは思いっきりディーノの腹肉を両手で掴むと、彼の俯いた顔を下から覗き込む。
すぐに啖呵を切るつもりが、その意外な弾力に、思わずむにむにと手を動かす。
「い、いたい……」
ディーノは、彼女に掴まれた部分に手をあて、やんわりと彼女の手を外した。
だが、シエラは今度は彼の手を掴み返し、逃がすまいとする。
そして、凄むようにして言った。
「――旦那様は、魔女に自尊心まで弄ばれてしまったのですか?」
「……!」
夫の瞳が、はっきりと驚きに揺れた。
こんなに自分に自信のない夫を、初めてみた。
いつもはそつがなく、口数は少なくとも、
「俺に任せとけ」
そんな空気を纏った、頼りがいのある夫。
(実際に言われたことは、ただの一度も無いが)
その夫が、大きな身体に反して、今はとんでもなく小さく見える。
(私がこの日をどれだけ楽しみにしてたと思ってるの。止めてもらって、たまるもんですか!)
そう。
シエラが彼の帰還を心待ちにしていた大きな理由は――
彼の欲を、全部受け止めることだった。
これまで長期遠征はなかったものの、任務の都合で二、三日家を空けることはザラにあった。
不在の間は寂しい。
けれど、帰ってきたあとは――ただのお楽しみでしかなかった。
そのときばかりは、いつもは淡白なはずの夫が、雄を剥き出しにして、シエラを激しく求めてくる。
回数は多くない。
けれど、その一度一度が濃厚で、
その時間が、シエラは溜まらなく好きだった。
今回は、長期遠征からの帰還。
――相当、溜まっているはず。
そう思ってたのに。
目の前で意気地のない弱気な発言ばかりを口にする夫に、シエラは憤りが止まらなかった。
「私、体型云々よりも――
弱気になっている旦那様のほうが、ずっと嫌です」
はっきりと言い切ったシエラの言葉に、ディーノは黙り込んだ。
視線は落ちたまま、丸くなった腹に向けられ、こちらと目を合わせようとしない。
「さっき……
どんなあなたでも愛したいって、私が言ったこと。
ちゃんと、聞こえていましたか?」
「――!」
その問いかけに、ようやく彼の視線が上がる。
不安と戸惑いを滲ませた青い瞳と、真正面から目が合った。
シエラは、握っていた手をいったん離し、
今度は包み込むように、彼の両手を取り直す。
「あなたの、新しい一面を……
私に、見せてください」
そうして、やわらかな声で続けた。
「大丈夫ですから」
ゆっくりと肩へ手を滑らせ、
そのまま逃がさぬように、ベッド越しに彼の大きな身体を抱き締める。
もう、ゴツゴツとした感触はない。
ただひたすらに分厚く、熱を帯びた身体。
包まれるような温もりが、そこにあった。
「……シエラ」
耳元で囁かれたその声に、胸の奥がきゅっと疼く。
夫は、滅多なことで彼女の名を呼ばない。
思い返してみても――
指折り数えるほどしか、呼ばれた覚えがなかった。
その言葉に、シエラも静かに返事を返した。
「はい――ディーノ様」
実は彼女も、こうして面と向かって名前を呼ぶのは初めてだった。
どうしても気恥ずかしくて、いつも「旦那様」と呼んでは逃げてきたのだ。
その声を合図にしたかのように、ディーノの腕が強く彼女を抱き締め返す。
そしてそのまま、ドサッとベッドへと倒れ込んだ。
――彼女を押し潰さないよう、わずかに身体を傾けながら。
「……すまない。俺は、君に言われたとおり、弱気になっていた」
低い声が、すぐ耳元で響く。
「どんな俺でも、君は受け入れてくれるはずだ――
そう、確信していたのに……いざ本人を前にすると、どうにも勇気が出なかった」
口数の少ない夫にしては、珍しく多い言葉に、
シエラの口元が自然とほころぶ。
「本当は、きちんと痩せてから帰ってくるつもりだった。
だが……どうしても、早くシエラに会いたかった」
彼はそう言って、彼女の頬を撫でる。
熱を帯びた眼差しが、逃がさぬように絡みつく。
「俺は、自分の欲を……優先したんだ」
「それは、英断でしたわね」
シエラは、わざと少し戯けた調子で微笑む。
「私も、
あなたのお帰りを、とーっても、お待ちしていましたから」
その言葉に、ディーノは小さく苦笑を漏らした。
「ああ……間違えていなくて、よかった……」
そっと、唇が重なる。
先ほどよりも深く、確かめ合うように。
そこにはもう、躊躇いはなかった。
しかし、気持ち的にはまたしても失神してしまったかのような衝撃だった。
(そのまま、なのか……)
視界の端に、嫌でも入ってくる大きな身体。
ほんのり匂う体臭。
前とは違う、ちょっとくぐもった声。
同じ夫であるはずなのに、まるで別人だ。
正直に言うと、説明を聞き終えたところでも、戸惑いは消えていない。
(それでも、私は――)
シエラは天井を見上げたまま、口を開いた。
「正直に言いますと、私は、太っている殿方よりも、以前のあなたのような、鍛え抜かれた身体のほうが好きです」
見えてはいないのに、夫の顔が暗く沈むのがわかる。
「……そうか」
「でも」
シエラは続けた。
「私は、どんなあなたでも、愛したい」
「――!」
私がぽつりと静かに言った言葉に、夫が息を呑む。
(ちょっと外見が残念になったくらいで、なによ。
中身は、いつもの旦那様じゃない)
シエラは、基本的に困難があれば燃えるタイプだ。
夫の見た目が変わったくらいで、ここまで育った気持ちを枯らすなんて、矜持が許さなかった。
心の中で謎の闘争心を燃やしながら、私はちらりと夫のほうに目を向けた。
……どこか、感動しているようにも見える。分厚い肩がふるふると少し揺れている。
(――それに、私のことを信じてくれたんだから、私は彼の気持ちに報いたい……)
「食事のたびに太る呪いが解けた、ということは、
健康管理に気を付ければ、痩せることも可能、ということですよね?」
「あ、ああ。おそらく……
まあ、あまり成果は出ていないが……」
夫は自分のお腹を再度もみ、はぁっと溜息をつく。
「お仕事のほうは、大丈夫なんですか?」
「仕事のほうは、身体をある程度まで絞るまでは、事務作業を割り当てられた。
いまの身体じゃ、みんなの足手まといだし、馬にも乗れないからな……」
彼が一か月も帰還が遅れた理由は、
彼を乗せる馬がいなかったことも、大きく関わっているらしい。
――移動手段に馬を使う騎士としては、致命的である。
「それと、慰労手当ということで、二週間の休暇をもらっている。
この休暇中に、できる限り鍛えるつもりだ」
「あら、二週間もですか!
じゃあ、しばらくゆっくりできるんですね」
シエラは、自然と顔がほころんでいくのを感じた。
実は、新婚ほやほやのときですら、彼にまとまった休みは取れなかった。
結婚式の翌日、たった一日、結婚休暇で休んだだけで、その翌日からは普通に騎士団の仕事へ戻っていったのだ。
(なにをしようかしら……領地巡り?
ああ、領内にある温泉に浸かりにいくのもいいわね。
ダイエットにもよさそうだし)
「ああ、迷うわね……
二人で楽しく過ごせること……二週間なんかじゃ足りないわ……」
先ほどまでとは違い、心が躍ってくる。
彼は身体を絞るのに忙しいかもしれないが、この際だ、とことん自分との時間を作ってもらいたい。
夫をそっちのけでやりたいことに思考を巡らせていると、
彼が静かに呟きを漏らした。
「君は……こんな風になってしまった俺と、
休暇中、一緒に過ごしてくれるというのか?」
夫は、いつになく不安げな表情でこちらを見て問いかけている。
(魔女には『妻はどんな俺でも受け入れてくれる!』と、啖呵を切っていたくせに)
本人を前にすると、やはり心が揺らいでしまうらしい。
そんな夫が、たまらなく愛しく感じた。
――この人は、さっき、
「どんなあなたでも、愛したい」
と、私が言ったことを、早速忘れてしまったのだろうか。
(どうせここで私が色々言っても、きちんと納得しないんだろうな⋯⋯)
シエラは何かを決心したように、ふうっと一息吐いた。
――言ってダメなら、行動に移すまでだ。
目の前の夫を真っ直ぐ見据え、ゆっくりと口を開く。
「旦那様。
何も言わず、ここまで来てください」
シエラは、そう言って、ぽんぽんと自分の隣を叩き、
足元近くの椅子に座っていたディーノを、自身の近くに呼び寄せた。
「……」
ディーノは、やや怪訝そうな顔をしたものの、
シエラの言うとおり、何も言わずに、のそりと側まで来てくれた。
「はい、そこに立膝をつく」
「立膝?」
聞き返しながらも、彼は床に立膝をついた。
大きな彼の上半身が、ベッドの縁から覗く。
「手を」
シエラの言葉に、訳も分からぬまま、ディーノが手を差し出す。
その、ぷにぷにとした手を、シエラは、そっと包み込んだ。
「ふふ……。
いつもは、ただ硬いだけなのに。
ぷにぷに、してますわ……」
触れたことのない感触に、思わず、笑みがこぼれる。
一方、ディーノは、そんなことを言われたことがなかったのだろう。
少し、恥ずかしそうに視線を逸らしていた。
「ここまで太ると……
手の甲まで、こんなふうに、ぱんぱんに膨れるものなんだな。
初めて知った」
ぼそりと呟かれた言葉に、シエラは、とうとう耐えきれなくなった。
「じゃあ、もっと教えてくださいな。
あなた自身も、知らなかった、今のあなたの身体について。
その顎肉……洗うとき、大変ではありませんか?」
――私の、ぶしつけな問いに、夫は眉を顰めるでもなく、
自分で自分の顎に手を当てた。
「あまり、意識したことがなかった。――触るか?」
突然の提案に、シエラは目を丸くした。
(え……いいの?)
さっき、手を触っただけで照れていたくらいである。
なんとなくではあるが、彼は、自分の太った部分を触られることに、
抵抗があるのだと思っていた。
「旦那様が、良いのであれば……ぜひ」
べつに、顎肉に興味があったわけではない。
けれども、このチャンスを逃したら――
夫が痩せてしまったら――
触れることも、二度とお目にかかることもできない部位である。
正直に言って、好奇心が、理性を上回っていた。
なぜか、夫の“いけない部分”に触れようとしているような、
奇妙な背徳感が、胸を襲った。
「じゃあ、ちょっと失礼します」
身体を彼の方へと寄せ、顔に手を滑らせる。
手のお肉よりも、柔らかい。
「あら、タプタプ」
「――なんだか、猫になったような気分だ」
確かに。
顎を触られることなんて、人間をやってたら早々ないだろう。
次に顎と頬に手をあて、ぷっくりとしたほっぺたをムニッと揉む。
夫の許可なく揉みだしたが、彼はされるがままだ。
ムニムニ。
(なにこれ、ずっと触ってられそう)
夫はずっと無言。
好きにさせてくれるということは、特に問題はないのだろう。
「あなたの輪郭は面長だと思ってましたが、今は丸くて愛嬌がありますね」
「⋯⋯」
普段は顔もゴツゴツしていて、頬はどちらかというとコケているタイプなのに、今はもりっと盛り上がっている。
――可愛らしいわ。
まるで子供に戻ったかのよう。
いや、きっと彼は子供の頃でもこんなに丸々はしていなかったのだろうけど。
気付けばその丸い頬に口を寄せていた。
まるで吸い寄せられたかのように口づけをし、終わったあと、自分でもびっくりした。
彼に自分からキスするなんて、後にも先にもこれが初めてのことだった。
「あら、ごめんなさい。無意識だったわ」
顔を話したあと、ついうっかり、といった様子で謝ると、夫は至極驚いた顔でこちらを見ていた。
なんだかその様子が可愛くて、調子に乗って、再度反対の頬に口づけを落とす。
すると、
「!」
抑えの効かなくなった夫が、私の腕を引いて自分の方へ抱き寄せ、そのまま私の唇をゆっくりとふさいだ。
ゆっくりと目を閉じ、ひさしぶりの夫を味わう。
――彼の頬を両手で挟み、プニプニと触れながら。
以前とは違う感触に、新鮮味を感じる。
彼の熱にあてられ、次第に蕩けそうな心地になってきた瞬間――
夫が、弾かれたように身体を離した。
「え⋯⋯」
急になくなってしまった温もりに、驚きとともに寂しさを感じる。
「突然、どうされたんですか?」
戸惑いながらも静かに問いかけるシエラだったが、内心はというと、
(え、なんでやめちゃうの!? いま、そういう雰囲気じゃなかった!?)
と、自分の夫をめちゃくちゃに非難していた。
しかし、そんなシエラに対し、彼はひどく申し訳なさそうな顔をして、視線を逸らしてから言う。
「すまない――。これ以上君に触れていると、止まれなくなる」
「だから?」
何を言っているのだろうか、この人は。
焚きつけたのは、どっちだと思ってるんだ。
「だから……
君も、不本意だろう」
(私が⋯⋯不本意、ですって?)
今のどこに、私が意にそぐわないことをされている要素があったというのだろうか。
勝手にシエラの気持ちを決めつけてくる夫に、途端にカッとなって、その手を彼へと伸ばした。
むに。
「っ!?」
シエラは思いっきりディーノの腹肉を両手で掴むと、彼の俯いた顔を下から覗き込む。
すぐに啖呵を切るつもりが、その意外な弾力に、思わずむにむにと手を動かす。
「い、いたい……」
ディーノは、彼女に掴まれた部分に手をあて、やんわりと彼女の手を外した。
だが、シエラは今度は彼の手を掴み返し、逃がすまいとする。
そして、凄むようにして言った。
「――旦那様は、魔女に自尊心まで弄ばれてしまったのですか?」
「……!」
夫の瞳が、はっきりと驚きに揺れた。
こんなに自分に自信のない夫を、初めてみた。
いつもはそつがなく、口数は少なくとも、
「俺に任せとけ」
そんな空気を纏った、頼りがいのある夫。
(実際に言われたことは、ただの一度も無いが)
その夫が、大きな身体に反して、今はとんでもなく小さく見える。
(私がこの日をどれだけ楽しみにしてたと思ってるの。止めてもらって、たまるもんですか!)
そう。
シエラが彼の帰還を心待ちにしていた大きな理由は――
彼の欲を、全部受け止めることだった。
これまで長期遠征はなかったものの、任務の都合で二、三日家を空けることはザラにあった。
不在の間は寂しい。
けれど、帰ってきたあとは――ただのお楽しみでしかなかった。
そのときばかりは、いつもは淡白なはずの夫が、雄を剥き出しにして、シエラを激しく求めてくる。
回数は多くない。
けれど、その一度一度が濃厚で、
その時間が、シエラは溜まらなく好きだった。
今回は、長期遠征からの帰還。
――相当、溜まっているはず。
そう思ってたのに。
目の前で意気地のない弱気な発言ばかりを口にする夫に、シエラは憤りが止まらなかった。
「私、体型云々よりも――
弱気になっている旦那様のほうが、ずっと嫌です」
はっきりと言い切ったシエラの言葉に、ディーノは黙り込んだ。
視線は落ちたまま、丸くなった腹に向けられ、こちらと目を合わせようとしない。
「さっき……
どんなあなたでも愛したいって、私が言ったこと。
ちゃんと、聞こえていましたか?」
「――!」
その問いかけに、ようやく彼の視線が上がる。
不安と戸惑いを滲ませた青い瞳と、真正面から目が合った。
シエラは、握っていた手をいったん離し、
今度は包み込むように、彼の両手を取り直す。
「あなたの、新しい一面を……
私に、見せてください」
そうして、やわらかな声で続けた。
「大丈夫ですから」
ゆっくりと肩へ手を滑らせ、
そのまま逃がさぬように、ベッド越しに彼の大きな身体を抱き締める。
もう、ゴツゴツとした感触はない。
ただひたすらに分厚く、熱を帯びた身体。
包まれるような温もりが、そこにあった。
「……シエラ」
耳元で囁かれたその声に、胸の奥がきゅっと疼く。
夫は、滅多なことで彼女の名を呼ばない。
思い返してみても――
指折り数えるほどしか、呼ばれた覚えがなかった。
その言葉に、シエラも静かに返事を返した。
「はい――ディーノ様」
実は彼女も、こうして面と向かって名前を呼ぶのは初めてだった。
どうしても気恥ずかしくて、いつも「旦那様」と呼んでは逃げてきたのだ。
その声を合図にしたかのように、ディーノの腕が強く彼女を抱き締め返す。
そしてそのまま、ドサッとベッドへと倒れ込んだ。
――彼女を押し潰さないよう、わずかに身体を傾けながら。
「……すまない。俺は、君に言われたとおり、弱気になっていた」
低い声が、すぐ耳元で響く。
「どんな俺でも、君は受け入れてくれるはずだ――
そう、確信していたのに……いざ本人を前にすると、どうにも勇気が出なかった」
口数の少ない夫にしては、珍しく多い言葉に、
シエラの口元が自然とほころぶ。
「本当は、きちんと痩せてから帰ってくるつもりだった。
だが……どうしても、早くシエラに会いたかった」
彼はそう言って、彼女の頬を撫でる。
熱を帯びた眼差しが、逃がさぬように絡みつく。
「俺は、自分の欲を……優先したんだ」
「それは、英断でしたわね」
シエラは、わざと少し戯けた調子で微笑む。
「私も、
あなたのお帰りを、とーっても、お待ちしていましたから」
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