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その日、鳩は飛び立った
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Nさんはマンションでひとり暮らしのお年寄りです。
八十代、足が悪くてほぼ寝たきりですが、頭の方はしっかりしていて、ヘルパーの私にも優しく気を遣ってくださいます。
もとは民俗学の教授で、若いときから海外をあちこち旅していたそうで、ワンルームの部屋にはアジアのどこかの置物や、美しい雪山の写真が飾られていました。
「ああ、また旅がしたいなぁ」
それがNさんの口癖です。
「たくさんの国へ行ったけど、まだまだ見ていない場所があるんだよ」
そして、いつも面白い旅の話をしてくれました。インドでは、ネパールでは──。
私は訪問介護ヘルパーとして、毎日、通いで食事の支度と身の回りの世話をしていました。気難しい方が多いなか、穏やかなNさんのところへ行くのは、私にとっては癒しのような時間でしたが、ただひとつ困ったことがありました。
Nさんは鳥が好きで、ベランダに来る鳩に餌をやるのを楽しみにしていたのです。はじめは私が頼まれて小鳥の餌を買っていたのですが、鳩が集まるようになると他の住民から苦情が出て、餌付けは禁止になりました。
私が餌を買っていかなくなると、Nさんは私が夕食のために用意していく自分のオニギリをベランダに放って、鳥たちに食べさせるようになりました。
止めても、この子たちが来るのだけが楽しみだから──と。
歩けないNさんには、自由に空を飛んでいる鳥たちを眺めるのが、唯一の慰めだったのです。
しかし、間もなくマンションの理事会でも問題になり、とうとうベランダに鳥よけネットを設置するように言われてしまいました。もちろん法的な強制力はありませんが、この頃になると、Nさんは少し弱ってきていて、抵抗する気力もないようでした。
窓の外を眺めながら、しかたないね、と穏やかに言われたのが印象に残っています。
来週は、ネットを張る業者が入るという週末のことです。
「今週末は、友達が訪ねてくるから、訪問は月曜までお休みでいいよ」
帰り際、なにげなくそう仰いました。
窓際に置いたベッドの向こうにはベランダに通じる窓があり、夕焼けの逆光で表情はよく見えませんでした。
「お友達?」
「うん。大勢、来てくれるんだ」
珍しいなと思いましたが、良かったですね──と応じました。孤独なNさんに来客があるのはいいことです。
「ドアは開けられますか?」
「うん、だいじょうぶ」
ドアは暗証番号なので、それを伝えれば開きます。
わたしは朝食用にもオニギリを作り、枕元に置きました。
「なにかあれば、電話してくださいね」
そう言いましたが、やはり心配になり、土曜日の夕方にお電話を入れました。
ご親戚はみえましたか、と尋ねると、うん、たくさん来てくれたよ──と、ゆっくりと答えられました。
少し疲れているようでしたが、確かに、電話の向こうからは大勢の賑やかな声が聞こえていました。
日本語ではないようでしたので、外国の人たちだな、と思いました。研究のため海外に住んでいたこともある、という話を聞いていたので、不思議には思いませんでした。
では、また月曜日に、と電話を切ろうとしたら、
「うん──ありがとう。またね」
そう、優しく言ってくださいました。
そして、月曜日。
いつも通り夕方に訪問すると、もう鳥よけネットを設置する業者が来ていて、一階から作業が始まっていました。
Nさんの部屋は五階ですから、まだネットは張られていません。
エレベーターを降りると、なぜか不思議な胸騒ぎがして、急いでNさんの部屋に向かい、ドアを開けて玄関に入りました。
その瞬間です。ものすごい風が起こって、同時に嵐のような羽ばたきの音が聞こえました。
Nさんが寝ていたベッドから、数えきれない鳩が一斉に飛び立ったのです。
私が閉めたはずの窓は全開になっていて、鳩たちが灰色の雲のように次々と飛び出していきます。ほんとうに、何百羽もいたと思います。
「Nさん!」
急いでベッドに駆け寄ると、そこには、もう、骨ばかりになったNさんが、大量の羽毛に包まれて横たわっているばかりでした。
いつかNさんに聞いた、鳥葬──という遠い国の弔い法が、頭のどこかを横切っていきました。
死者のからだを鳥に食べさせ、魂を天に還すんだそうです。聞いた時は、その様子を想像して、ちょっと恐ろしく感じたものです。
部屋じゅうに羽毛が雪のように舞い散って、Nさんの脱け殻の上に降り積もります。
ベランダには、まだ十数羽の鳩が止まっていました。
その中の一羽が──ふと私の方へ振り返りました。その穏やかな目が、Nさんにそっくりでした。
「Nさん?」
思わず踏み出しかけた時、鳩は嬉しそうに翼をひろげ、ベランダから舞い上がりました。そして、思い切りはばたくと、真っ青な夏の空へ、仲間たちと一緒に、すうっと吸い込まれていったのです。
八十代、足が悪くてほぼ寝たきりですが、頭の方はしっかりしていて、ヘルパーの私にも優しく気を遣ってくださいます。
もとは民俗学の教授で、若いときから海外をあちこち旅していたそうで、ワンルームの部屋にはアジアのどこかの置物や、美しい雪山の写真が飾られていました。
「ああ、また旅がしたいなぁ」
それがNさんの口癖です。
「たくさんの国へ行ったけど、まだまだ見ていない場所があるんだよ」
そして、いつも面白い旅の話をしてくれました。インドでは、ネパールでは──。
私は訪問介護ヘルパーとして、毎日、通いで食事の支度と身の回りの世話をしていました。気難しい方が多いなか、穏やかなNさんのところへ行くのは、私にとっては癒しのような時間でしたが、ただひとつ困ったことがありました。
Nさんは鳥が好きで、ベランダに来る鳩に餌をやるのを楽しみにしていたのです。はじめは私が頼まれて小鳥の餌を買っていたのですが、鳩が集まるようになると他の住民から苦情が出て、餌付けは禁止になりました。
私が餌を買っていかなくなると、Nさんは私が夕食のために用意していく自分のオニギリをベランダに放って、鳥たちに食べさせるようになりました。
止めても、この子たちが来るのだけが楽しみだから──と。
歩けないNさんには、自由に空を飛んでいる鳥たちを眺めるのが、唯一の慰めだったのです。
しかし、間もなくマンションの理事会でも問題になり、とうとうベランダに鳥よけネットを設置するように言われてしまいました。もちろん法的な強制力はありませんが、この頃になると、Nさんは少し弱ってきていて、抵抗する気力もないようでした。
窓の外を眺めながら、しかたないね、と穏やかに言われたのが印象に残っています。
来週は、ネットを張る業者が入るという週末のことです。
「今週末は、友達が訪ねてくるから、訪問は月曜までお休みでいいよ」
帰り際、なにげなくそう仰いました。
窓際に置いたベッドの向こうにはベランダに通じる窓があり、夕焼けの逆光で表情はよく見えませんでした。
「お友達?」
「うん。大勢、来てくれるんだ」
珍しいなと思いましたが、良かったですね──と応じました。孤独なNさんに来客があるのはいいことです。
「ドアは開けられますか?」
「うん、だいじょうぶ」
ドアは暗証番号なので、それを伝えれば開きます。
わたしは朝食用にもオニギリを作り、枕元に置きました。
「なにかあれば、電話してくださいね」
そう言いましたが、やはり心配になり、土曜日の夕方にお電話を入れました。
ご親戚はみえましたか、と尋ねると、うん、たくさん来てくれたよ──と、ゆっくりと答えられました。
少し疲れているようでしたが、確かに、電話の向こうからは大勢の賑やかな声が聞こえていました。
日本語ではないようでしたので、外国の人たちだな、と思いました。研究のため海外に住んでいたこともある、という話を聞いていたので、不思議には思いませんでした。
では、また月曜日に、と電話を切ろうとしたら、
「うん──ありがとう。またね」
そう、優しく言ってくださいました。
そして、月曜日。
いつも通り夕方に訪問すると、もう鳥よけネットを設置する業者が来ていて、一階から作業が始まっていました。
Nさんの部屋は五階ですから、まだネットは張られていません。
エレベーターを降りると、なぜか不思議な胸騒ぎがして、急いでNさんの部屋に向かい、ドアを開けて玄関に入りました。
その瞬間です。ものすごい風が起こって、同時に嵐のような羽ばたきの音が聞こえました。
Nさんが寝ていたベッドから、数えきれない鳩が一斉に飛び立ったのです。
私が閉めたはずの窓は全開になっていて、鳩たちが灰色の雲のように次々と飛び出していきます。ほんとうに、何百羽もいたと思います。
「Nさん!」
急いでベッドに駆け寄ると、そこには、もう、骨ばかりになったNさんが、大量の羽毛に包まれて横たわっているばかりでした。
いつかNさんに聞いた、鳥葬──という遠い国の弔い法が、頭のどこかを横切っていきました。
死者のからだを鳥に食べさせ、魂を天に還すんだそうです。聞いた時は、その様子を想像して、ちょっと恐ろしく感じたものです。
部屋じゅうに羽毛が雪のように舞い散って、Nさんの脱け殻の上に降り積もります。
ベランダには、まだ十数羽の鳩が止まっていました。
その中の一羽が──ふと私の方へ振り返りました。その穏やかな目が、Nさんにそっくりでした。
「Nさん?」
思わず踏み出しかけた時、鳩は嬉しそうに翼をひろげ、ベランダから舞い上がりました。そして、思い切りはばたくと、真っ青な夏の空へ、仲間たちと一緒に、すうっと吸い込まれていったのです。
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