灯びの系譜ー静寂なる闇に芽吹くもの

武内れい

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第1章:静寂に沈む船出

1、番号で呼ばれる少女(前半)

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 港は、朝の霧にすっぽりと包まれていた。

 冷たい白が、肺の奥まで染み込んでくる。海の匂いに混じって、煤けた金属の気配がじわじわと喉を刺した。目を凝らしても、視界は霞の奥に溶けていってしまう。だけど、私には見えていた。
 黒い船の影が、ぼんやりと桟橋の向こうに浮かんでいるのが。

 まるで、空気ごと沈黙しているようなその姿――。

 名前を奪われてから、世界の色が少しずつ削れていっている。
 ミナ・カリス。
 本当は、そう呼ばれていたはずだった。
 でも今、その音を口にしてくれる人は誰もいない。名前は、自分の中でこっそり唱えるものになった。

「F-283、進め」

 霧を裂くように、冷たい声が響いた。反射的に胸がぎゅっと縮こまる。見れば、黒い軍靴の男が無表情に手を振っていた。その仕草さえ、まるで機械みたいだった。

 私は頷いた。逆らうことはできない。ただ、足を前に出す。

 一歩、また一歩。桟橋の板が靴の裏で鳴るたびに、もう戻れないと何かが告げてくる気がした。

 すでに並んでいた子どもたちは、無言で船へと乗っていく。みんな、私と同じ制服を着ていた。灰色がかった薄手の布、金属のタグ。歳も性別もわからないくらい、すべてが塗りつぶされている。

 それは人間じゃなく、製品に近かった。

 ヘレボルス号――誰かがそう呟いていた気がする。でも、はっきりとは覚えていない。
 ただその名前が、どこか不吉な花の名に重なることを、私の胸は静かに知っていた。

 黒く塗られた船体は、まるで霧の中で静かに息をしているようだった。

 甲板に足を踏み入れると、すでに数人の子どもたちが列を作っていた。誰も目を合わせない。うつむいたまま、背筋を張って、まるで自分を消すように。

 喋るななんて言われていないのに。
 でも、ここではみんながそうしていた。
 言葉を出すだけで、自分が壊れてしまいそうで――。

 私も、沈黙に身を預けた。

 目を閉じて、胸の奥で自分の名をそっと唱える。
 声には出さず、ただ確かめるように。

(ミナ・カリス……私は、ミナ・カリス)

 その響きがあまりにもはっきりと心の中にあって、誰かに聞かれてしまうのではと不安になるほどだった。けれど、それは祈りに近かった。忘れないように。私が、私であることを。

 そのとき、ふと視線を感じて、目を開けた。

 霧の隙間から――列の向こう。
 甲板の端に、ひとりの少年がいた。

 同じ制服。同じタグ。けれど、彼だけはどこか、違っていた。
 空気の密度すら変わるような気配。静けさをまとう黒い影。

 長い手足。無駄のない動き。座っているように見えて、背中には緊張が張りつめていた。
 黒に近い茶の髪。小麦色の肌。目は細く開かれ、霧の彼方を見つめている。

 名前……なんていうのだろう?

 そう思って、すぐに打ち消した。
 ここでは、名乗ることは許されていない。誰もが番号しか持っていない。

 だけど――彼だけは、番号でくくられる存在じゃないように思えた。

 彼の呼吸はとても静かだった。
 まるで、空気の層そのものが彼を包んでいるような。
 他の子どもたちは誰も彼を見ていなかった。もしかしたら、見ないようにしていたのかもしれない。

 でも、私は……目が離せなかった。

 霧の中に灯った、ひとつの黒い星のようだった。
 名前じゃなく、存在そのものでここにいると訴えかけてくる、確かな気配。

「動くな」

 監視官の声で、思考が切り裂かれた。
 列がぴんと張り詰める。
 息が止まる。すべてが静止した。

 船はまだ動かない。霧が晴れるのを待っているのだろうか。あるいは、何かの準備があるのか。何も教えられないまま、ただ時間だけがすり減っていく。

 私は、また彼を見た。

 彼は――動かない。目も、指先も、唇すら。

 それでも私にはわかる。
 彼は、他の誰とも違う。
 何かを見ている。その奥に、光のようなものを宿している気がする。

 言葉にならない問いが、霧のように胸に浮かぶ。

(あなたは……何を知っているの?)

 声にはならない。ただ、心の奥でその問いが響いた。

 名前じゃない。だけど、それでも。
 誰かを気配で覚えてしまうことがあるのだと、私はこのとき初めて知った。

 霧の中。
 番号しかない場所で。
 呼び名のない絆が、たしかに息をしていた。

 船は、音もなく霧の奥へと進んでいく。
 やがて見えてくるだろう。名のない島の影が。

 けれど今は――ただ、沈黙のなかに立っている。
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