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第4章:鏡に映る心の影
61、砕けた静寂(前半)
しおりを挟む私は、ひたすらに床を擦っていた。
硬いブラシで、石の溝を丁寧に磨き、汚れを浮かせては布で拭い取る。廊下の端から端まで、何度も往復しながら、清掃を進めていく。
実験棟の三階は、特に空気が重い。
壁は同じ灰色でも、ここだけはどこか、湿ったような匂いがする。かすかに薬品と、金属と、……あたたかい血のような、いやな香りが鼻を突いた。
ルーカンは、私の少し前を無言で進んでいる。二コラは、バケツを運びながら、時おり退屈そうに靴の先で水をはじかせていた。
その時だった。
「――ふざけるな……そんなもの、僕が受け入れるはずないだろ。」
怒りを含んだ低い声が、石の廊下に響いた。
私たちは同時に、手を止めた。
ルーカンが小さく息を呑むのが、すぐそばでわかった。
倫の声だった。
普段は冷たくて、静かで、どこか遠い彼が――はっきりと、怒っていた。
「どうやら……彼の中にも綻びがあるようだな。」
くぐもった声が応じた。
アルベロス・ニクトヴァルト――感情を弄ぶことにしか興味のない男。
彼の声音は、酷く愉しげで、倫の拒絶すら、興味深い実験材料としか見ていないことが伝わる。
「弱点を抱えるのは良いことだ。強い個体ほど、崩れる瞬間は見応えがある。」
次に響いたのは、バラカン・フォルンシュタールの声だった。
彼は、まるで鷹が獲物を弄ぶように、倫の抵抗を心の底から愉しんでいる。
「ふ……やれやれ、君には決定権はないと言ったはずだ。」
監視官の声が静かに落ちてくる。
「選択肢など、最初から与えられていない。君は、我々の手のひらの上だ。」
「……勝手に、決めるな。」
倫の低い声が、わずかに震えていた。
怒りと、拒絶と、否定――それは彼の中に確かにあった弱さで、彼らはそれを見逃さない。
私は、ゆっくりと顔を上げた。
ここは実験棟三階、3-Q実験室の前。
声は、すぐそこから聞こえている。
ルーカンも気づいたように、そっと格子窓に目を向けた。
私も、吸い寄せられるように、その窓に近づいた。
金属の格子に指をかけ、そっと覗き込む。
……その瞬間、思考が凍りついた。
倫は、そこにいた。
ベッドの上に拘束され、彼の肌はあまりにもあらわで――ほとんど、何も着ていなかった。
手首と足首は、柔らかそうな布で丁寧に縛られ、体には複数のコードが絡みついている。
胸に、小さな吸盤のような器具が貼り付けられ、側には脈拍や血圧の波形が表示された端末が淡く光っていた。
薬瓶が床にいくつも転がっている。
誰かがあわてて落としたのか、それとも意図的に使い切ったのか、床の一角に、微かに甘い匂いが立ち込めている。
アルベロスは、上着を脱いだまま、無造作に椅子に腰をかけて倫を見下ろしていた。
バラカンは、前開きのシャツのボタンを外したまま、指で倫の顎を持ち上げ、無理やり彼に視線を合わせさせていた。
彼らの服は、どこかだらしなく乱れていて、清潔なはずの実験室が、異様に濁って見えた。
「君は……これが嫌なんだろう?」
バラカンが、あやすように呟く。
「でも、抗えば抗うほど、君の反応は顕著だ。数値が跳ね上がっている。」
モニターを指で叩き、愉快そうに笑う。
「生理的拒絶と、興奮と――どちらも、我々には極めて重要なデータだ。」
「やめろ……」
倫の声がかすかに震える。
彼は、これほどまでに激しく抵抗しているのに――その表情は、どこか諦めにも似ていた。
「やはり……君はそこに隙がある。」
アルベロスが退屈そうに、だが確信に満ちた目で言った。
「弱点が、見えた。」
私は、耐えられなくなって、視線を逸らした。
ルーカンも、唇をきつく結んで、静かに二コラの肩を叩く。
「……二コラ。」
彼の声は優しかった。
「目を閉じて。耳も、塞いで。」
二コラはきょとんとしたまま、ルーカンを見上げる。
「どうして?」
「いいから。」
私は、そっと二コラの耳を覆った。
……ここにいてはいけない。
ここに、知ってはいけないことがある。
ルーカンが、ゆっくりと二コラの手を引いて歩き出す。
「……行こう。」
私も、清掃用具を押し、ルーカンたちの後を追った。
胸の奥で、ひどく嫌な音が鳴っていた。
あの部屋で、倫に施されていること。
彼の怒りも、抵抗も、誰かにとっては愉しみであり、弱点として観察されている。
倫は、どんなに冷たく、どんなに完璧に見えても――壊せる隙が、あった。
私たちは、きっと、その事実を知ってしまった。
この事実を、どうしたらいいのか、私にはまだ、答えが出せなかった。
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