灯びの系譜ー静寂なる闇に芽吹くもの

武内れい

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第4章:鏡に映る心の影

69、交渉の代償(前半)

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 霧雨が降り続く夜。冷たく湿った空気が肌にまとわりつき、石畳は黒く濡れて滑りやすくなっていた。夕食を終えた静かな時間。消灯前の身支度をみんなが始める頃、私はいつもと違う倫の姿を見た。

 彼は、いつものようにひとりで席を立ち、静かに歩き出した。その背中を見たとき、胸の奥にざわつくものが走った。今まで感じたことのない、遠くへ行ってしまうような、言葉にできない不安が波紋のように広がった。

 私たちは、倫が物資を得るために交渉していることを知っていた。昼間、みんなの前で、監視官や大人たちに媚びるようにして、慎重に物を引き出す彼の姿を何度か見たことがある。あれが、私たちの知る「交渉」だった。

 でも、その交渉はいつも昼間の明るい場所で、見える範囲のことだった。夜にひそかにどこかへ行って、誰にも見られずに交渉をするなんて、私は知らなかった。

「どこへ行くの?」レオがすぐ後ろで声をかけてきた。

「……倫を追いかけたい。」声が震えているのに、自分でも驚いた。理由をうまく説明できない。たぶん、彼の背中を見たときに感じた、怖さのせいだった。

「追いかけるって、どうして?」

 レオの問いに、私は言葉を探す。

「なんとなく……でもたぶん、違う。いつもの交渉じゃない気がする。」

 ルーカンが隣に来て、短く言った。

「俺も行く。」

 その言葉に胸が少し楽になった。ルーカンは私の気持ちを少しだけわかってくれたのかもしれない。

 イザベルとニコラはまだ幼いから、今回は残すことにした。私たちは静かにうなずき合い、倫の背を追った。

 湿った夜の空気がじっとりと肌に絡みつき、濡れた石畳に倫の足跡が小さく残っていた。彼はときどき振り返ろうとするけれど、気づかずに歩き続ける。

 私たちは声をかけられなかった。軽く呼び止めることさえ、ためらわれた。

 普段、彼は昼間の交渉場で、必死に媚びを売りながら物資を得ている姿しか知らなかった。だから、今回の夜の様子が、あまりにも違って見えたのだ。

 その背中は、いつもみんなを安心させていたけれど、今はどこか儚く、見ていて苦しくなるほど遠くに感じられた。

 やがて、倫は施設の裏手にある荷降ろし場へと入っていった。昼間は活気のある場所も、今は暗く静まり返っている。薄暗い灯りがぼんやりと石壁を照らし、湿気を帯びた空気が漂っていた。

「来てはだめ。」突然、背後から宮乃の声がした。

 振り返ると、息を切らした彼女が立っていた。必死に私たちを追いかけてきたらしい。

「どうして?」と尋ねると、宮乃は困ったように微笑みながら言った。

「ここは、知らないほうがいい場所。見てしまうと、戻れなくなる。」

「戻れなくなるって……?」

 私は一歩踏み出そうとしたが、宮乃はすぐに私の手を掴んだ。その手は夜気に濡れて冷たかった。

「お願い、ここで引き返して。倫は大丈夫だから。」

「本当に?」

 私は問い返した。宮乃は少しだけ目を伏せてから答えた。

「倫は、いつも自分で選んでいる。誰かに強制されたわけじゃない。」

 その言葉に震えが混じるのを感じた。

「でも、それって……倫はひとりで……」

「――見ないで。」宮乃は私の手を強く握った。

「見たら、きっと……倫はもう、私たちの前であんなふうに笑えなくなる。」

「どういう意味?」

「……だから、お願い。」

 私は宮乃の目を見つめ、その瞳の奥に宿る切実な想いを感じ取った。

 知らないふりをしてここから離れることもできた。でも私はもう逃げたくなかった。

「ミナ……」

「ごめん、宮乃。」

 私は静かに手を振りほどいた。

「私は知りたいの。」

 レオとルーカンが黙ってうなずいた。

「私たちは、倫のことをちゃんと知りたい。」

 宮乃は痛むように眉をひそめ、うつむいた。

「優しいね、ミナは。」彼女の声は泣きそうだった。

 私たちは濡れた石畳を進み、暗がりへと近づいた。
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