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# 56ー記憶ー
しおりを挟む「いいんだよ……わざとなんだからさ」
そう望は、雄介に聞こえるか聞こえないかの小さな声で呟いた。
「へ? なんやって!?」
「聞こえてなかったんならいい……」
雄介は一瞬きょとんとしながらも、それ以上は深く追及せず、いつものように望の頭を拭き始める。
柔らかなタオル越しに、望の髪の温もりと微かな石鹸の香りが伝わってくる。
その小さな仕草ひとつひとつが、雄介にとっては何よりの幸せだった。
静かな部屋の中、テレビの音が遠くで流れ、タオルの擦れる音だけが響く。
穏やかで、温かく、まるで時間がゆっくりと流れているかのようだった。
「ほな、俺は……ふぅ……ん」
雄介は「お風呂に入ってくる」と言おうとしたその瞬間、言葉が喉の奥で止まった。
唇に、柔らかくて温かい感触。
それが何かを理解するよりも早く、雄介の心臓はどくんと跳ねる。
望が、雄介の言葉を塞ぐようにキスをしたのだ。
いつもは望の方が顔を真っ赤にしているというのに、今回は雄介の方が目を丸くし、頬を染めてしまっている。
好きな相手からの不意打ちのキス――それは、理屈抜きに心を揺さぶるものだった。
「早く……お前も風呂に入って来いよ。昨日の約束、果たしてやるからさ」
「昨日の約束……?」
雄介はぽかんとしながら首を傾げる。どうやら本気で覚えていないようだ。
その反応に、望はほんの少しだけ眉を寄せ、視線を逸らした。
「忘れてるんならいい」
小さく呟くその声は、どこか寂しげで、テレビの光に照らされた横顔が少し切なく見えた。
「ああ、ほな、まぁ、とりあえず……俺、風呂に入って来るな」
雄介は頭をかきながら立ち上がる。
口ではそう言いながらも、足取りはどこか落ち着かない。
浴室へ向かう途中、望の言葉が頭の中で何度も反芻され、腕を組んで首を傾げながら考え込む。
――昨日の約束って、なんやったっけな……。
そんな風に思いながらも、雄介の胸の鼓動はまだ少し早いままだった。
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