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ヒデ渡辺

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エコバック

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高層マンションの5階に、私は妻と住んでいる。
医師という職業のわりには高尚とも言い難い我が家だが、勤務医の私にしては奮発したはずだ。それでも、高層階と低層階という比較対象があると、ヒエラルキーをめぐるマウントの取り合いが生じるのも、人の心理として否めない。

ジェンダーレスが叫ばれる昨今だが、未だ「妻は家で家庭を守る」という観念が払しょくできていない。別の視点で見ると、いわゆる富裕層ほど妻は家庭に入ることを望み、雇用機会均等を叫ぶのは中間層に多いように思える。

妻とは飲み会で出会い、その後、どちらかといえば妻に押し切られる格好で入籍した。
彼女は中堅商社に勤め、ほどほどの品性と行動力。そして、決して美人とは言えないが、愛嬌で世の中を渡り、会社の上役にも重宝される程度のルックスを兼ね備えていた。

つきあい始めはしおらしかったが、私の職業・家柄・友人関係・所有するクルマなどを隙あればチェックしてくる。私は彼女の見栄と自尊心を満たすブランド品の一部に過ぎない。幸か不幸か彼女の査定に合格した模様で、気づけば結婚準備に取り掛かっていた。

医師の仕事は命を預かる以上、想像以上の心理的負担から逃れられない。内心、医学の発展のための研究や、医療技術の発展のために費やしたい時間が、目の前の患者への向き合いに費やされる。それはそれで医師の本懐なのだが、キャリアを重ねるとルーティンワークに近い手術などにこの先何年縛られることか。その重責と天秤にかけると気が重くなる。

帰宅すると妻が、マンションのママ友達との間で今日一日起こった話につきあわされる。
時折ヒステリックになり「低層階であること」「いつも疲労困憊で不愛想な私の表情」について叩かれる。
そんな私にはメンタルのバランスをとるために、妻には内緒のはけ口がある。同僚の医師A子だ。彼女とは医学部時代からの同期で、フランクに話せる。何より僕の苦しみを察して、でしゃばらない程度に心をほっこりとケアしてくれる。正直、妻とは別れてA子と再婚するという選択肢もある。

今日は夜勤の緊急対応。日中、家でゴロゴロしていたら、妻が買い物から帰ってきた。白いレジ袋ではなく、時流からか、エコバックに食材を入れて持ち帰ってきた。
「へぇ、環境に関心があるんだぁ。」
「その前にレジ袋代の節約よ。“ちりつも”で暮らしに関わってくるから。」
少し彼女を見直した。見栄っ張りで欲深く、劣等感を抱える彼女にもこんな一面があったか。エコバックから取り出した、私の好きなオレンジを切って、皿に盛り付けて出してくれた。

とはいえ、彼女の本性は自尊心と劣等感による“見栄”のオーラを纏った、悲しい女にしか見えなくなっていた。「こいつがいなくなれば。」自分に嘘はつけない。心を許せるA子との人生の出直しを本音では願っていること。自分に嘘はつけない。


この夜の救急センターには、続々と患者が運ばれてくる。救急隊と病院の間で受け入れの可否の調整が続く。このクラスの病院だと、急病・大怪我の最優先の患者が運ばれてくる。

救急対応の医師は、専門外の処置も施かさねばならない。トラックと正面衝突した運転手は、一目見て誰もが手の施しようがなく、次の患者の処置のためには、その場で看取るほかになかった。末期がんの老人は、緩和ケア病棟が開くまで、時間を稼ぐことしかできない。命の選別が日々行われている。

道路を横断中に車に巻き込まれ、内臓破裂を起こした主婦。瀕死の重体。
その顔は紛れもなく、数時間前にオレンジを切ってくれた“私の妻”。買い物中の不慮の事故と警察から伝え聞いた。

苦楽を共にしてきたものの、最近は愛憎の“憎”が倍増した妻。彼女がいなくなれば、A子と人生をやり直すことができる。
そんな雑念に戸惑いながらも、“愛”の感情、そして医師の本分を弁えてベストの処置を施す。

動脈と静脈。破裂した臓器への応急対応。医師である私と、患者である妻との命をかけた対話が進む。リミットは残りあと少し。
施術に集中しながらも、これまでの妻との軋轢から湧いて出る複雑な心情や、A子への思いが邪魔をして、数秒単位のロスが生じる。心電図には、波形が容赦なく弱まるのが見て取れる。
残りの1秒まで、あらゆる手を尽くした。「やるだけのことはやった」。
疲れ切った脳が停止するのを感じる。

心電図は水平線をたどった。
「力及ばず」と、「やるだけやった」。二つの思いが固まった頭の中でがぐるぐるとリフレインする。
“A子への想いにかけた時間(2~3分だろうか?)を集中して、妻への施術に使えていれば”
いまさらどうにもならない思いがめぐる。

妻の死を迎えて、緊急医の役割はもう一人の医師に任せ、遺体の保管と葬儀屋との段取り確認に移る。


ふと、担当の警官が手渡してくれた妻のエコバックには、今日が誕生日の私を祝う小さめのケーキと、好物のオレンジが入っていた。
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