ラストホリデイ

ヒデ渡辺

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ラストホリデイ

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「『最期の旅』はお任せを! マイタイを飲みながら南の島で? 流氷を見ながら白熊の一撃で? そんな願いを叶えます」

 そんな文字が躍っていた。洋祐は、細いネクタイをさらに緩め、シャツの袖をまくりながら、自社のサイトを見つめる。社長をしているとはいえ、サイトをリニューアルするのは一苦労。WEBデザイナーなるものに任せてみたが、これが本当に正しいのかは分からない。担当した男も、こちらの指示にいちいち難癖をつけるあたり、鬱憤が溜まっているように思えた。そのうち、もしかしたらうちのツアーを使うかもしれないな、と思いながら席を立つ。
「ちょっと、社長。人前でため息つくの、やめてくれませんか? 」
「なんだよ。幸運が逃げるとでも言いたいのか? 」
「純粋にうっとおしいです。このオフィス、狭いんですから! 人生は楽しく優雅に生きていきましょうよ! 」
そう言ったのは、初めての就職活動が不況に直撃して難航し、やっとの思いでこの場末の旅行代理店――ラストホリデイーーに入った谷川唯だった。採用してから、まだ二か月も経っていないが、すっかり一人前の顔をしている。実際、唯がいなければ回らない仕事の方が多い。洋祐にとっても貴重な従業員だし、なるべく丁重に扱わねばならない。
「あーあ。都内で月収十八万。しょっぱい仕事ですよね」
「転職してもいいんだぞ」
「この不景気に、何を言ってるんですか」
 そういって、唯は遠い眼をした。
「最近、『仮想現実』って聞くじゃないですか。私、ときどきこの世界が本物なのか?って思うんです。本当の私は異次元で、外交官かなんかやってて、シュッとした彼氏と、将来を約束してるんじゃないかなって」
「そういうの現実逃避って言うんだよ。中東の危険地帯に赴任して、イケメンのテロリストと『ジハード』とか叫んで燃え尽きちまえ」
「ふん、お言葉を返しますけど、もう一人の洋祐さんは、きちんと家族を養って、社会にとって有意義なお仕事してる、この世とは正反対のダンディかも? ですよ」
 この会社に入って、唯は成長した。一言二言、嫌なことを言われても落ち込まないようになった。それを成長と呼んでいいのかが分からないが、そうでもしないと洋祐の相手はできない。蓮っ葉な口調で、憎まれ口ばかり叩く洋祐とは。
「今の時点で、俺は十二分にダンディだろ」
「そう思うのは自由だと思いますよ」
 飄々と言った唯に、洋祐は舌打ちする。
「ああ! まったく。終わり終わり、本日は終了! 」
「まだ四時ですけど」
「俺はこっから大事な用事があるんだよ。お前みたいに暇じゃないの」
「と言いつつ、いつものバーに行くだけですよね。中年男がお酒を飲みながら、過去の栄光を語り、俺はもっとできるんだと妄想を膨らませるバーに……」
「はい、解散! 」
 洋祐は、唯の言葉を最後まで聞くのはやめた。きっと今夜の飲酒量が増えるだろうから。
「ま、お金払ってくれるならいいですけどね」
 そう言って、唯はパソコンを閉じる。この事務所の鍵を持っているのは、洋祐だ。その洋祐が退社するなら、唯が居座れる理由もない。
 唯が閉じようとしていたサイトは、WEBデザイナーが作ったものに変わっていた。

「場所・季節・シチュエーション・そしてエンディングと、その後の処理に至るまで、経験豊かなスタッフがご対応。すっきりとこの世から旅立ってみませんか? 」

 こんな違法まがいの仕事でも、求めている人がいるのだ。
 そんな無常を感じながら、唯は席を立った。洋祐も、それを見て、同じくサイトを閉じるのだった。

§§§

洋祐がこの仕事に就いたのは、数年前、行きつけのバーで出会った一人の男の稼業を継いだのがきっかけ。男は金田と名乗ったが、本名かどうかはわからない。 
 年は離れていたがどこか馬があい、ときどき仕事を手伝うようになった。といっても、デジタルに疎い金田の代わりに、メール返信をするくらいだ。ただ、特定のメールアカウントには、絶対に触らせてくれなかった。守秘義務の強いツアーがあるんだろうと洋祐も思っていたし、そこまで気にしたことはない。
 そもそも、十六で家をでて、夜の町で働き、二十六になってようやく旅行会社という表社会の仕事についた洋祐にとっては、この仕事は得難いものだった。
 だが、ある日、金田が姿を消した。「ツアー客に添乗する」、と言って出たまま、十日も経つ。捜索願いを出していいものかも分からない。家族も、親戚もいないと言っていた。そんな境遇が、自分と似ていると洋祐は思っていた。
だがある日、BGM代わりに聴いていたテレビで、資産家の相次ぐ失踪事件を聞いて目を見張った。その人物の名前や行先やらが、仕事でメールした人々と重なる。
そして、今まで金田に絶対に触らせてもらえなかったフォルダも、なぜか、パスワードが解除されていた。恐る恐る中に入ってみると、そこにあったものは、洋祐への手紙、会社の引継ぎ方、そして、金田の遺書だった。
 自死を選ぶ人々と触れ合う中で、そのネガティブが金田にも伝染したのか? 或いはもともと、どこか自分の人生に疲れていたのか?
 しばらくは呆然としていたが、メールは何通も舞い込んでくる。表家業の『熟年夫婦を対象とした客船クルーズ』と、裏家業の『ラストホリデイ』。どちらも、切実な客が多かった。やはり新宿歌舞伎町に店を構えているからか、訳アリの客ばかり。
 夜の町で働いていた手前、そう言った人々には、他に救ってくれる場所がないことも知っている。
 そして、洋祐は、『ラストホリデイ』を継いだのだった。

「しかし、金田の兄貴はさ、俺が継がなかったらどうする気だったのかね? 」
 バーで、思わずそう呟いた。
 客は洋祐一人。夕方にもならない時間帯である。開店前というのが相応しいか。
 社外の人間で、唯一事情を知っているのが、このバーのマスターの江川だった。
「金田さんは、洋祐さんに会った時から、後を継がせる気でしたよ」
「なんだって? 」
「あいつは、俺と同じ匂いがする。無鉄砲で、でも、他人のために何かしてやりたいって気持ちがあるって」
 そんな話を聞くのは初めてだ。
洋祐は、顎を触りながら、金田のどこか陰のある顔を思い出す。
「兄貴、どうして『ラストホリデイ』を始めたんだろうな」
「誰でも、死にたくなる時はあるでしょう。こんな自分はホンモノじゃない。もっと違う自分がいるはずで、もっと違う人生があるはずだって」
「まあな」
「そんな時に、救いになるものは、そう多くありませんから」
 洋祐はため息をつく。一瞬、唯がいないか確かめそうになったが、この会員制のバーは、訪れる人も限られている。
「まあ、アンタがいつか死にたくなった時は、ウチに頼んでくれればいいよ」
「さて。どうしましょうかね。『ラストホリデイ』に限らず、人に話せないことを話せる私のような存在は、必要ですから。まだ、生きていようとは思いますよ」
 そういって、江川は微笑んだ。
 確かにその通りだろうと、洋祐も思う。だが、自分以外にも、このバーテンダーにしか話せない闇を抱えている人間がいるのだと思うと、笑ってしまいたくもなる。誰もが闇を抱えている社会。それが、健全なのかどうか、洋祐には判断がつかなかった。
「あのぅ、入ってもいいですか? 」
 洋祐が新しい酒を頼もうと思った時、そんな声が聞こえて来た。
 入って来たのは、くたびれたスーツの、冴えない中年男だった。
「どうぞ。何にしますか? 」
 江川がそう聞くと、中年男は、困った顔であたりを見回す。
「ここで、『ラストホリデイ』の話が聞けると伺ったのですが……」
 江川が、洋祐を見つめる。あなたの客ですよ、というように。
「どうも。『ラストホリデイ』の者です。本日は、どのようなご用件で? 」
 洋祐は愛想笑いを顔に張り付けた。まだ、今日の仕事は終わらないらしい。

§§§

椎名が会社を出たのは、二十三時をまわる頃だった。
駅を出て、家までの静かな道のりを歩いていく。残業続きの仕事だが、仕事がないよりはマシなのだろうか、と答えの出ない問いが反芻する。
今日の依頼は、『ラストホリデイ』という会社のサイト制作。
裏家業らしく、すぐにはアクセスできないように設定してほしい、という依頼だった。ただ、「死にたい人が死にたい時に」の気軽さと、それに相反する、「検索をかけた上で、特定のパスワードを入れた人だけが入れる仕様にしたい」、というセキュリティの厳重さ故に、難易度は高かった。
完成した達成感はあるが、それよりも、徒労感のほうが強い。お世辞にも健全な方向に向かっていないからかもしれない?
あのサイトが、本当にそんな闇の仕事に使われているのかは分からない。上司に「通報したほうがいいのではないか? 」と聞いても、「ジョークサイトだろ」と答えられるだけ。不況に苦しむ会社としては、金になればそれでいいらしい。
眼を上げれば、夜空に星はない。東京は、月も雲もおぼろげだ。故郷の山ばかりの村と違って、人のほうが多いくらいに思ってしまう。
それでも、椎名の住む郊外の住宅街は、会社のまわりに比べると空気が澄んでいる。公園が多く作られており、造成された緑とはいえ、光合成によって生み出される酸素は、生き物にとって活力の源だ。
やがて駅からほど近くに建つ、昨年購入した一軒家に着いた。
大きくはないが白い壁の3LDK。椎名にとっては、夢の城。東京に一軒家を建てることができた、そのことが、何よりも椎名の誇りになっていたのだ。
まだ新築の香りを残す玄関に着くと、子供靴が無造作に転がっていた。
「ただいま」
そういってリビングに入ると、カレーの残り香がした。息子の翔太の大好物だ。もちろん、椎名にとっても同じ。結婚して十年になる妻の玲子が、洗濯物を畳むのを止めて立ち上がった。
「お帰りなさい」
息子の翔太は、まだ小学生。とっくの昔に眠っている時間だ。
「最近、早いのね」
「もう二十四時過ぎだよ」
「前は朝帰りだったじゃない。私と一緒に、始発まで企画をしてね」
「まあ、そうだったな」
 妻の玲子とは、同じ会社で働いていた。椎名がサイト制作を受け持ち、玲子が客に営業をする。そんな風にバディを組んでいるうちに、自然と付き合い始め、結婚にたどり着いたのだ。
「そっちこそ、仕事はどうなんだ? 最近、忙しいんだろ? 」
「八時には帰ってこれるもの。終電まで働かせる会社なんて、私は二度と入りたくない」
 そう言ってカレーの準備をする玲子を見ていると、椎名は少し、申し訳なくなる。
 同じ会社に勤めていた二人が袂を分かったのは、妊娠が分かった時だった。椎名も玲子も心から喜んだが、会社は違った。
 つわりの酷かった玲子は、たった一か月で有給休暇を使い切った。そのあとも休みがちになり、会社から、他の会社に行ったほうがいいのではないか、とやんわりとクビを告げられた。その気になれば会社都合退職にもできたが、そこまで争う意味もなかった。
 玲子は会社を辞め、出産後一年間だけ育児に専念したあと、新しい職場に転職したのだった。育児休暇も、産児休暇も、有給休暇も、当たり前にとれる会社に。
「いつも遅くて、ごめんな」
「謝るなら、翔太に行ってあげて。パパがいつもいない、って元気無いんんだから」
「そんなに?」
「授業参観にも運動会にも来ないでしょ? 他の家のパパは、大きなカメラ担いでくるのに、どうしてうちのパパは来ないの?僕の事、嫌いなの?って」
 そこまで翔太が気にしているとは、椎名も知らなかった。
 何か言おうとしたが、玲子が手早く用意したカレーが運ばれてきてしまう。
 仕事も、家事も、育児も、すべてを一人でこなす玲子には、感謝しかない。同時に、仕事ばかりで家庭を顧みていない自分にも、情けなくなる瞬間がある。
 男は仕事だけしていればいい、と椎名の親が言っていた気がするが、もう、そんな時代では、ないのだ。

 椎名は毎晩、眠る前に睡眠薬を飲む。いつ、客先から呼び出されるかもわからない日々が、交感神経を高ぶらせ、不眠気味なのだ。玲子は「転職しなよ」と何度もいうが、椎名にはその気はなかった。いや、正しくは、現状を変えたくはなかった。残業が多すぎるとはいえ、仕事に対する充実感はある。今日の『ラストホリデイ』のサイトのような、普段は接さないものに触れ合えて好奇心もほどほどに満たされている。
 人生の半分を仕事して過ごすのだから、その半分は、刺激のあるものにしたい。それが椎名の考えであり、だからこそ、玲子と衝突することもよくあった。
「おやすみ」
 玲子に声をかけると、背中を向けた小さな声が、同じ言葉を返して来た。その声は、なぜか泣いているようにも聞こえた。
 でも、泣きたいのは椎名も同じ。一日の大半を無意識に緊張して体を強張らせ、心までも委縮させていることに気づく。家でくらい好きなように過ごしたい。義務化された夫婦の営みなんて、疲れるだけだ。昔は恋をしていたし、玲子と一緒にいると心が躍った。だが、それは遥か昔のような気がする。
「舐められたら、おしまいだ……」
片親家庭の出身で、三流の大学を出た、地方出身の自分。
そんな偏屈なコンプレックスが、椎名の生きる原動力でもあった。
玲子と抱き合ったら、その優しさに甘えて、ずぶずぶと終わりのない沼にハマってしまいそうだった。玲子はきっと、「頑張らなくていい」「休んでいい」「私が稼ぐからお願いだから、ゆっくりして」と言ってくれる。
椎名は、それが一番いやだった。一度立ち止まったら、二度と、元には戻れないように思えたから。
となりで眠っていた玲子が、体を起こす。求めてくるのかと体を硬くしたが、玲子はそのまま、部屋を出ていった。階段をおりていく音が聞こえる。
――今夜も、寝る前に酒を飲むのか。
 椎名はそう思って、ふうと安堵の息を吐いた。
 忙しく仕事しながら、息子の面倒を見て、家事をもこなす玲子には感謝しかない。それでもときどき、一人になりたい夜がある。広々としたベッドに両手をひろげて、椎名はゆっくりと眠りに落ちていった。
息子が育つまでに、特別なことがなければいい。このありきたりな幸せを崩す、余計なことがなければいい、ただそれだけを考えて。そして、その考えこそが、家庭を壊してしまうのを、まだ知らずに。

§§§

洋祐がバーで出会った男は、岩井と名乗った。くたびれたスーツの、疲れた顔の岩井は、こう切り出した。
「ずっと、お話を聞いてみたいと思っていたんです。『ラストホリデイ』のことは、噂になっていましたから」
「噂に? それは、まずい。うちのことが人に知られたら、警察に嗅ぎつけられるかもしれないし」
「ああ、大丈夫ですよ。 噂しているのは、もう先の無い男ばかり。将来を託すことになるかもしれない人を通報するなんて、そんなこと……」
 岩井はそう言ってから、頼んだウーロン茶に口をつけた。アルコールは、飲めないらしい。洋祐はその隣で強いウォッカを煽りながら、「それで?」と尋ねる。
「それで、どうして死にたくなったんです?」
 洋祐の仕事――つまり、希望者を旅先で葬る仕事には、相手の事情を聞くことが必須だった。自殺志願でやってくる人々は、皆、一様に暗い過去を抱えている。その身の上を話の腰を折らずに聞くことを含めて、『ラストホリデイ』のサービスだと洋祐は思っていた。どう生きて来たのか、どうして死にたくなったのかを知らなければ、最適な死出の旅は提案できない。
「私はダメな男なんです……」
「……そうですか」
 洋祐は「でしょうね」という言葉を呑み込んだ。無精ひげを生やし、生気のない岩井に対して、辛辣な言葉を投げつけても意味がない。それで奮起するのは、まだ心の底に生きる希望を持つ人だけだ。

 岩井の話は、こうだった。
 地方で生まれて。大阪の専門学校に行ったが、関西の文化があわずに、仕事は東京で見つけたという。職場で知り合った女性と結婚し、一女ををもうけ、大事に育ててきたと岩井は言った。
「私も、馬鹿だったんです。慣れない仕事に戸惑っていて。上司からも毎日怒鳴られて、それで、お酒に逃げてしまって……」
「よくあることじゃないんですか」
「そうでしょうね。ただ、私がほかの人と違ったのは、お酒に弱かったことです」
 そう言って、岩井は深いため息をついた。己の過去を後悔し、罪をうちあける人の吐息であった。洋祐は強いアルコールで胃を満たす。他人の暗い話を聞くには、そうでもしないとやりきれない。
「仕事から帰ると、酒におぼれるようになったんです。三杯目からは、もう記憶にない。でも朝起きると……」
 岩井は一瞬、言葉を切った。ウーロン茶を飲み干して、残りを続ける。
「妻が、あざだらけの姿で倒れているんです。小学生の娘は、獣でも見るように怯えながら、私を見ていました。それが、何度も続いて……」
「アルコール中毒になった、という事ですか」
「会社には分からないようにしていたんですが……。でもある日、妻が怯えたようにこう云うんです。『あなたが怖い』と」
「毎日殴られていれば、そうなるでしょう」
「でも、当時の私には、それが分からなかった。美香――娘も、成績が伸び悩んでいました。家庭に問題があれば、当然のことでしょう。なのに、私は、家庭を顧みようともしなかった。仕事のことで頭がいっぱいだったんです」
 二杯目のウーロン茶が運ばれてきた。バーテンダーの男は、何も聞いていないような顔をしている。後ろの席には数人の客が入っていたが、黙って酔いに浸っているか、歓談しているかで、誰も洋祐と岩井を気にしてはいなかった。
 今、一人の人間が死のうとしているのに、誰も気にしない。それも、仕方ないのかもしれない。と、洋祐は思う。一人、グラスと向き合う男も、最期の時間を過ごしているのかもしれない。歓談している男たちも。絶望を人の輪の中でやりすごしているのかもしれない。隣の人の気持ちさえ知らずに生きていく。
岩井が、妻の言葉に耳を傾けなかったように。
「私は、『本人の努力不足だろ』と、そう言いました。妻は怯えながら、でも勇気を出して私を見つめるんです。『あなたの娘なのよ。どうして真剣に考えてくれないの』って」
「なるほど」
「たしかに私は、仕事に手がいっぱいで教師との面談はおろか、娘の美香のことを妻に任せきりでした。私にもね、仕事で輝いていた時期があるんです。数年前のその頃は、社の業績をかけた大きな案件を控えてましてね、家に帰るのもままならず……。頭の中は仕事でいっぱいだったんです」
「まあ、会社員なら、仕方ないことでしょう」
「いいえ。家庭とは、甘えるための場所ではありません。次の世代の子どもを育てるための場所です。自分の子どもを作ったのですから、家庭のことも考えるべきだった。私は、甲斐性が無いんですよ」
 岩井が、結露したグラスをみつめる。
 その一雫ごとに、過去が投影されているように。
「仕事って理不尽でしょう?それを大真面目に背負いこんで。そして時折、爆発するように、何にでもいいから当たりたい衝動にかられてしまって、酒をのみ、妻を殴った。日ごろ、私が妻に発した言葉と態度は、職場で感じた理不尽をそのまま吐き出していたように思うんです」
「弱いものが、さらに弱いものを叩く、ということですか」
「ええ。それでも妻は堪え続けくれていた。とめどなく続く私の醜い悪態も、暴力も。美香のことを守りながら……。なのに、私は!」
 それ以上、岩井は言葉にしなかった。
 どうやら奥さんに、言ってはいけない最後の一線を越えてしまったようだ。
 洋祐は、ウォッカを煽る。しかし今夜はいつにもましていくら飲んでも、酔えなかった。初めて酒を飲んだのは正月のお屠蘇を親戚に飲まされた子どもの時だったが、その時も、ぐいぐいと飲み続ける洋祐に周りが驚いたほどだ。
 酒に酔って、人生を壊すのは悲惨だ。だが、もっと悲惨なのは、酒にも酔えず、現実に生き続けなくてはいけないことかもしれない。洋祐のなかには、岩井のような男の過去が、いくつも、いくつも蓄えられている。そのすべての男たちが、死んでいったことも、洋祐だけが覚えている。

それから岩井の妻は転職し、少しは高い収入を得られるデザイン会社で働きはじめた。もともと、美術関係の学校を出ていたため、その経験が転職に有利に働いた。そんな妻の装いに、勤め始めてから少しずつ、明るい色が増えていったのを、岩井は気づきすらしなかった。美香を習い事に通わせはじめてからは心も軽くなったようで、時にその仕草は小躍りするようにも見えたという。最初は、妻が上機嫌なことをありがたく思っていた岩井だが、段々と帰宅が遅くなり。岩井が終電で帰ってきても、明かりが点いておらず、誰もいないということさえあった。男でもできたか?と直感したが、それを問いただすのは躊躇っていた。悶々とした日々が過ぎるある夜、岩井はついに妻に聞いた。
「男がいるのか?」
 妻は「ふん」、と鼻で笑ったという。昔の、怯えたような顔は、もう妻には、なかった。
岩井もこのところは、酒を飲んでは家に帰って妻を殴れなくなっていた。帰っても家にいないのだから。ただ、毎日泥酔して玄関に横たわるだけで。皮肉なことに、八つ当たりする相手がいなくなると、酒量も減っていった。
「何を言っているの?」
「毎日、毎日、こんな遅くまでどこにいってるんだ? まさか、男の所か? 化粧までして」
「会社に行ってるんだから、化粧くらい当たり前でしょ。この時代に、何を言ってるのよ」
「亭主を馬鹿にするのか!」
 そう言って、岩井は、今まで通り、妻を殴ろうとした。
 その瞬間、カシャリ、と音がした。振り返ると、美香がカメラを構えていた。
「……何をしているんだ」
「別に」
「父親をはめるのか!」
「ママを毎日殴るひとのことを、お父さんと呼べっていうの? 」
 岩井は息をのんだ。今まで、娘が口答えすることは、一度もなかったから。
「毎日酔っぱらって帰ってきて、お前も働け、専業主婦には価値が無い。誰の金でメシを食っているんだって言ったから、ママは仕事始めたんだよ。それなのに、今度は文句をいうの? 」
「美香……」
「私だって、もう中学生になんだよ。パパがしたこと、ママが泣いてたこと、全部、覚えているから」
 岩井は、振り上げた手を下ろすほかなかった。撮影されていたからではない。美香の頬を、涙が伝ったからだ。娘を泣かせてしまった。赤子のころは、すこし泣いただけで慌てていたのに、いま、娘を傷つけているのはこの自分。
 その事実が、岩井の心をじわりじわりと削っていった。
「すまない……」
 いつの間にか、そう呟いていた。
「俺のせいで……」
 しゃがみこみ、顔を覆った。涙が、あとからあとから溢れて来た。娘は、何も言わずに二階に上がった。子ども部屋にこもる音がして、全てを拒絶されたような気分になった。そして妻は、そんな夫を、ただ見つめていた。憎しみと、悲しさをこめて。

 それから、離婚までは早かった。岩井の有責離婚だったが、妻は、「養育費はいりません。だから、娘に面会しないで。心の傷を抉りたくないの」と言った。
 岩井は、その要求を呑むわけにはいかなかった。面会はしなくていいから、養育費だけでも支払わせてくれと頼みこんだ。それが、子どもをつくった男の最低限の責任だと理解していた。
 家を引き渡し、妻と美香が出ていくのを見送り、ひとりでアパート暮らしを始めた。
築四十年のマンションは、その巨体が日陰となり、住人がいても廃墟感が漂う。色褪せた壁が一層の不気味さを醸し出す。住み込みの老いた管理人が案内してくれた。
「このマンションの住人は、ほとんどが高齢者だからね。あんたみたいな若いのは珍しいよ。一人暮らしの老人が多いから。でも、悪いことだけはしないでよ」
 ヨレヨレの老人が厳しいまなざしを向けた。
「もちろんです」
「みんな若い頃は猛烈に働いてきたのさ。今でも、自分では老けてると思ってないから」
 岩井はまるで、自分の事を言われているような気がした。妻――いや、元妻と出会ったころは、こんな未来が訪れるとは、思っていなかった。きっと六十になっても、八十になっても、出会ったころと同じだろうと思っていた。
二十階を超えるそのマンションは、言うなれば老人の城。頻繁に救急車のサイレンが鳴り、昼夜の区別なく誰かが運ばれていく。日本の核家族の成れの果ての悲哀がそこにある。
仮住まいのガランとした部屋をみるたびに、岩井はむなしくなるのだった。数ヶ月後には目の前に、建設途中のタワーマンションが二棟隣合わせで並ぶ予定と聞く。そうすれば陽も当たらなくなり、夜明けにも気づかなくなるだろう。
 岩井にとって幸運だったのかーーあるいは不運だったのかーー、やがて妻の態度は変わり、月に一度、美香に会ってもいい、とお達しが出た。ただし、妻自身が岩井に会うことは二度となかった。殴られていた時のことを思い出すから、と言われれば、身を引く以外の方法がない。

「最近、お母さんはどうだ?」
「普通だよ。仕事もうまくいってるみたい。今度、係長になるって」
「そりゃあ、すごいなあ。昔から、仕事のできる人だったから……」
「パパとママは、どうして結婚したの?」
 ある日の面会で、美香はそう聞いてきた。
 中学二年になった娘は、アーモンド形の目で岩井を見つめていた。
 岩井は顎をさわり、考え込んだ。もう、美香も大人に近づいているのだ。きちんと答えなくてはいけない、と思った。
「ママはね、芯がある人なんだ」
「うん。知ってる」
「でも、だからこそ、見落としてしまうところがあるんだ。まっすぐに前だけを見つめているから、横道にある何か大切なものを見失ってしまう。ママが見失ったものを、パパが拾えればいいなって。そう思って結婚したんだよ」
「ああ、そういうことか……」
 美香は、遠くをみるように、呟いた。
「そういうこと、って?」
「……ううん。なんでもない」
 口ごもった美香に、再度、尋ねることはできなかった。まるでハリネズミのように、体を硬くして、回答を拒否していたのだから。
 どこかおかしいと思ったが、岩井はそれ以上、何かを聞くことはできなかった。月に一度の面会。楽しませてあげたい、と思った。
 会うたびに、若木のように健やかに成長していく我が子。改めてその愛しさに気づいたのが離婚した後になってしまったことを、心から、後悔した。
 だが、事態は急転する。岩井の元妻であり、美香の母が、死んだのだ。出張先のトンネルで崩落事故に巻き込まれた。
 岩井も元妻のもとへ駆けつけようとしたが、そのころは、またもや大きなプロジェクトが始まっていた。それに、すでに、元妻には再婚相手がいた。新しい夫からすれば、大事な場に元夫がいるのは不愉快だろう。そう思い、逸る心を抑えて我慢した。
「パパ……どうして来てくれなかったの?」
「美香? どうした?」
 夜中に電話がかかってきたのは、葬儀が終わって五日後のこと。
 眠い目をこすりながら岩井が体を起こすと、四時だった。もうすでに、夜明けといっても差し支えない。美香は、眠れない夜を過ごしたのだと思うと、胸が痛かった。
「パパが来ると思って、ずっと待っていたのに」
「ママは、パパに会いたくなかったと思うよ。だから……」
「そんなの、知らない。パパは、私達のこと、どうでもいいんだよ。だからでしょ」
「美香! どうしてそんなことを言うんだ!」
 思わず、声が大きくなってしまう。一人暮らしのアパートで、思わず口をふさぐ。深夜の騒音問題が、最近、話題になったばかりだった。
「だって、私のことを引き取ろうともしなかったじゃない」
「美香には、もう新しいパパがいるじゃないか。やっぱり俺が育てたいなんていうのは悪いし……。知っているだろう。パパはね、今も、お酒がやめられないんだ」
「今も……?」
「ああ。辛いことがあると飲んでしまう。それでもし、美香を殴ってしまったら……。パパはもう、生きていけないよ」
 美香は、長く無言だった。十秒、二十秒、三十秒、一分。
 岩井が問い返しても、美香は答えない。
 だが、二分も経ったころ、「分かった」と言って、通話が切られた。
「美香!」
 異常な事態だということは、嫌でもわかった。電話をかけなおすが、美香は出ない。
――何かがおかしい。何とかしなきゃ……。
 そう思うが、どうすればいいのか分からない。
 岩井はコートを急いで羽織り、家を飛び出した。下がパジャマのままであることも、忘れていた。
 美香から聞いていた住所までタクシーに飛び乗り、財布の底が尽きると、あとは走った。そして、鍵のひらいたマンションの扉をひらいて目にしたものはーー。

 それから先のことは、岩井は記憶にないという。
 近所の人が、喧嘩する音がすると言って通報したらしい。駆けつけた警察官が見たものは、岩井が、新しい父親を殴る姿。そして、――着衣が乱れたまま、呆然と佇む美香だったという。
新しい父親……いや、性虐待者は死に、美香は施設に入り、岩井は、刑務所に入った。
刑務所の中は、墨を背負った任侠達だらけかと思ったが、実際は違った。冷たく無表情な壁の中、遭遇した事のない人種の坩堝。
自分は罪を犯した者で、その人格に矯正が必要である。そんな当たり前の反省がない者ばかり。あるのは「ツキがなかった」「他のやつらもやっているのに」という自分を正当化する下衆の極み。誰からの愛情も感じたこともない、心の底から寂しき者が集う刑務所のなかで、岩井もまた、鬱々とした気分から解放されることはなかった。しかも、困ったことに、酒の飲めない刑務所では、思考もいやにはっきりとする。外の世界のように、現実から逃れることもできなかった。
――どうして、美香をすぐに助けなかったんだろう。
――酒なんて止めておけば、美香を助けられたのに……。
――俺は結局、自分勝手。こんな人間が生きていてどうする。
――惚れた女が見失ったものを見つけるために結婚したっていったのに、一番大事なものを見落としていたなんて……。
全ての気力を奪う絶望が、毎晩、岩井を襲う。
刑務所の中では、性犯罪をおかした者は「ピンク」と呼ばれ、差別される。最下層に属するのが常。一方で、彼らに「制裁」を加えてパクられた人間は、多少は尊敬の目で見られる。だが、岩井の場合は、そんな目線なんて心底どうでもよかった。信頼してほしかったのは、刑務所にいる連中ではなく。妻や美香の笑顔こそが、見たかったのだ。

ある日、ほんのちょっとした隙に取り囲まれた。だが、周りの連中は脅すでもなく、ただ取り囲んで睨みつけるだけ。やはり、懲罰を食らうのは嫌なのだろう。号令がかかったので整列しようとすると、後頭部を掴まれ壁に叩きつけられた。
――こいつら、ケンカ慣れしている……。
そう思ったからこそ、反撃はしなかった。いや、できなかった。人を殺したとはいえ、もともとはただの会社員なのだから。
次の笛で整列すると、看守が鼻血を出している岩井に気づいた。
「どうした」
「……顔をぶつけました」
 看守は一瞬、怪訝そうな顔をしたが、次いで現実から目を背けた。彼らには、それが許可されているのだ。
「奉仕作業の前に医務室に行け。高山、連れて行け」
 もちろん、看守も、自分から頭をぶつけるわけがないと知っている。だが、「そういうこと」にしておけば、波風は立たない。もし、看守が派手に騒げば、岩井へのいじめが酷くなるなどと思ったのかもしれない。

 医務室に向かう途中、高山幹夫という受刑者は、岩井のことを横目でチラリと何度も見続けた。
「なんですか」
「お前、人を殺したんだってな」
「そうですけど」
「よくやったよ」
「……」
「自分の娘を守ったんだろ。頑張ったな」
 その言葉は、岩井が刑務所に入ってから、何度か聞いたものだった。いまさら、何の感慨が生まれるわけでもない。むしろ、娘を守れなかった罪悪感のほうが強く出る。だが、この時は、人生で初めて、他人に暴力を振るわれたあとだった。
 目に涙がにじむのを、止められるはずもない。高山は、その涙を見ないふりをして、言葉を続ける。
「自分でぶつけたといったな。あれは正解だ」
「タチの悪いのがいるんですね」
「出所しても行くアテのない満期上等の連中だよ。真面目に勤めて刑期短縮を願う一般囚とは違う」
 アテのないのは、岩井と同じ。だが、今すぐにでもここから出て行きたいと思っているところが、彼らとの違いと察した。
「刑期満了が近づいた人間にちょっかいをかけて、トラブルをおこさせて刑務官にチクる。そうやって足を引っ張ることが奴らの唯一の楽しみなのさ」
 そう言って、高山はニッと笑った。
「嘘でも笑っておけ。そうすれば絡まれないし……」
「他にも何かあるのか?」
「どうせ、人生一度きりなんだ。楽しもうぜ。兄弟」
 それ以来、高山とはよくつるむようになった。とはいえ、医務室に行くときのように頻繁に話ができるわけがない。
 アイコンタクトをたまにやり取りして、運動場で一緒に歩く程度だったが、それだけでも岩井の心は癒されていった。
「若い頃、ちょいと元気の良すぎるのが祟って職場と揉めてなぁ。独立して会社を立ち上げたのが分岐点だったよ。その頃の俺は威勢が良いだけで手に職もねえし、資産があるわけでもない。それに、商売の勘みたいなのもからっきし」
「普通はそうだろう」
「普通はな。でも俺はバカだったよ。世間を知ったつもりでいて、何でもできるはずだと勘違いした。実力に不相応な高望みばかりして、結局損ばかりした。後悔先に立たず、てやつだ」
「じゃあ、俺と同じだ」
 運動場に風が吹き、砂埃が舞った。立ち止まって話していた岩井たちは看守に歩くように言われ、他の受刑者たちの反時計回りの流れに紛れた。
「そんな俺を慕ってついてきてくれた連中への分け前や、事務所の家賃なんかを工面しないといけない。それで危ない仕事を始めたわけだ。裏の仕事をやるという噂はすぐに広まって、人が寄ってきた。そのうち偽造パスポート作りを依頼されてな」
「うぅん……」
「今思えば、どうかしてたんだと思う。作業自体は、慣れた違法滞在の外国人がやるんだ。俺は場所を貸して、見張っていればいい。簡単な仕事だ。それだけで、仲間への給料が出せる」
「そうか……」
「あの仕事のタチが悪いのは、悪さしている実感が無いことだな。血も涙も出てこない作業を監視して、ブツを引き取りにきたやつに渡すだけだからな」
 その時、購買の申し込みはあるかと看守が大声で聞いた。岩井と高山も看守のほうを見たが、何を疑ったのか、誰も返事をしなかった。
「借金も返し終わった頃、いつまでもこんなことしてられないと思ってたら、呼び鈴が鳴ってさ。紺色のジャンパーの捜査官に令状を見せられて。あとは普通に事務手続きがあって、そのあと、これだ」
そう言って、高山は手錠をはめられるまねをして笑った。
運動時間終了のサイレンがなり、二人は看守の前に整列し、行進して房に戻っていった。
高山は悪人とも言い切れない。善悪の境界線はグレースケールのようになだらかで、その境界線を人間は無自覚のままに踏み越えてしまう。風向き次第で、これまで積み上げた地位も資産もなかったことになる。
社会の隙間に堕ちた、似た者同士。高山には、それまでの岩井の人生の中で、どこか魅力的に見えた者に残る、憎みきれない人間としての顔があった。
「なあ、兄弟。娑婆に出たら会おうぜ」
そう約束して別れた数年後、ようやく岩井も出所を迎えた。
六年間の懲役は、岩井には長いようで短かった。人間一人を殺したのに、あんな性犯罪者であっても人間なのに、たった六年で罪が贖われてしまう。そのことに恐ろしさも感じた。
もともと、計画的な殺人ではなかったこと、娘を守るための犯行だったことなどから、抒情酌量の余地ありと判断されたのだ。その事実自体が岩井を苦しめるとは、誰も思わなかっただろう。

§§§

「洋祐さん、一度、バーを出たほうがいいですよ」
 そう言われて、現実に戻って来た。洋祐がバーテンダーを見ると、苦々しい顔で、岩井と洋祐の背後を見つめている。
 振り返ると、私服姿の男が二人、新しく客として入って来たところだった。
「あれは……」
「ええ。私服警官でしょうね」
 洋祐とバーテンダーの会話に、岩井が不安そうな顔をした。
「でも、どうして? ここは会員制ですし、滅多なことがなければ警察なんて……」
「うちみたいな店には、定期的にああいうのが来るんですよ。まずいことはしてるだろうか? 人を殺すような計画がないか? 聞き耳を立てにね」
 バーテンダーが、洋祐の前に会計用紙を置く。
「岩井さん。ちょっと外を歩こう。横浜まで、海を見に行くなんてのはどうだ? ちょうど今日は、満月だしな」
 そう告げると、岩井は、怯えながら頷いた。
 人を殺したとはいえ、元はといえば普通の会社員で、今から死のうとしている人間だ。警察官がそばにいて嬉しいはずもない。
 新宿歌舞伎町のバーから横浜までは、案外と近い。湘南新宿ラインに乗れば、乗り換えなしで、三十分でつく。
 車窓を呆然と観る岩井の隣で、洋祐は、腕を組んで眠ったふりをしていた。
 電車で話せば、どこで聞き耳をたてられているか分からない。横浜駅から数駅離れたところでおりて、浜辺に降りる。神奈川県というのは不思議なところで、繁華街から少し過ぎれば、静けさの闇に包まれた浜辺がある。
「おっと」
 浜辺に引かれた白線を踏もうとして、洋祐が、よろけた。貝殻を並べたような、不思議な白線。その先には行ってはいけない、と暗示するような。
「どうしました?」
「ああ、いや、すこし飲みすぎたかな」
 そう言って、二人で浜辺を歩く。岩井は、重い口を、再度ひらきはじめた。本当は、誰かに聞いてもらわないと苦しいのだろう。喉元まで、苦しみが押し寄せてきているのだ。
「……満月の横浜は、すこし珍しいものでね」
「というと? 」
「普通はありえないことが起きると、聞いたことがある」
 実際には、そんな不可思議なことが起こるとは思っていない。だが、その言葉は、岩井の心を軽くするだろうと洋祐は思った。
「出所した後は、どうした? 」
 そう尋ねると、岩井は、ようやく聞いてくれた、というように、滑らかに語りだす。死にゆく人間に必要なものは、現実的で論理的な話ではない。
 ただ、自分に寄り添ってくれる人間だけだ。
「あの時は……所持金は一万二千円ほどでしたかね。身内の引き受け人なんていませんから、公安が手配したボランティアの老夫婦に厄介になりました。おかげで無事に保護観察期間を過ごしましたが、長居することはできません。次から次に、刑務所から出てくる人はいるわけですから」
「でも、新しい家を探すのも大変でしょう? 」
「そこは、ボランティアにサポートしてもらって……。殺人の前科持ちなんて、誰も雇いたがらないと思ったんですがね。友人の知り合いで、小さなWEBサイトの制作会社が声をかけてくれて。人手が足りない職種だとかで……」
「WEBサイト? 」
「どうかしましたか? 」
「ああ、いや。今日、作ってもらったばっかりなんですよ。もしかしたら、岩井さんの会社に頼んだのかもしれない」
 冗談で言った洋祐だったが、岩井は笑わなかった。
 代わりに、含みのある口ぶりでこういった。
「私も、最初にあのサイトを作るよう言われたときは、ジョークサイトだと思いましたよ」
「え……? 」
「あなたの『ラストホリデイ』のサイトを作ったのは、ウチの会社です」
 洋祐は息をのんだ。まさか、こんなところで、仕事相手に会うとは思っていなかったのだ。いつもより明るい月のなかでも、岩井の顔は沈んでいた。
「最初は信じませんでした。でも、調べていくうちに、本物なんじゃないかって。隠し方も巧妙だし、連絡はバーに行くか、隠しページに行くしかないし……」
「それで、今日、バーに来たんですか」
「……ええ」
「どうして」
「嫌になったんですよ。何もかもが。さっき、高山の話をしたでしょう。私は出所した後、彼に会いに行ったんです」
 岩井は、長いため息をついた。
 胸の奥底から悔恨を絞り出すような吐息に、洋祐は眉根をひそめた。このあとに聞く話は、今までよりもつらいものになるかもしれない、と思ったのだ。
「待ち合わせは九州の繁華街の角でしてね。湾に向かって流れる川の中州に、古くから色町が形成されていたところです。川辺には無数の屋台が並んで、お祭りみたいで綺麗だった。地元の焼酎の看板が水面に映えるんです。有数の地方都市を、うごめく欲望が下支えしていると思うと、なんともおかしくて」
「そんなもんでしょう。きれいごとだけじゃ、世の中は廻っていかない」
「きれいごとだけで廻る世の中のほうが、ずっといいんでしょうが……。川の左手に風俗街。右手に、数年前にできた不似合いなショッピングモール。そんな橋の上に、約束どおり高山が来ました。嬉しそうな顔を照れ隠しのサングラスに隠した高山をみて、泣きそうになりましたよ。まるで、故郷に戻ってきた気分でね」
「故郷……」
「おかしいですよね。サラリーマン生活をしていた時間のほうが長いはずなのに、刑務所生活のほうが、ずっと自分の胸に響くんです。高山は、刑務所にいるときより、一回り恰幅がよくなっていました。坊主だった頭は、今どき珍しい、撫でつけたダックステイルになっていまして。久しぶりに握手をすると、左右の手首には数珠のような胡散臭いアクセサリー。どこか地方を感じさせます」
「ははぁ」
 輩風の格好だったのだな、と洋祐は察する。
 岩井の目が、どんどんと暗くなっている理由も、大体は察せられた。
「出所後、彼は営業マンとして、ほどほどにいい暮らしをしていたそうです。なんの営業かは教えてくれませんでしたがね。奴の誘いで夜の街に繰り出すと、高級酒を何本も奢られて……。どうやらその店の女に入れ込んでいるようで、彼女を呼び出しては、自分の女だとアピールしていました。よせばいいのに背伸びしてさ」
「なるほど。まあ、女も商売ですから、適当に相手をしては他の客をまわっていたでしょうね」
「そう。そうなんです。高山も、そのことは分かっているはずなのに、女が自分の席に来るように、何度もシャンパンをあけて、男前を気取ります。暫くはそれにつきあっていましたが、結局、借りを作らないようになけなしの金を払って、その夜は早々に別れました。私にとって、塀の中で唯一心を許せた男は、街では女に踊らされる、憐れな男だったんですよ。小さく見えました」
 そう言って、岩井は夜の海を見つめる。
 洋祐も、そういった話は何度も聞いたことがある。刑務所の中では気持ちのよい性格の男だったのに、外に出たら気弱で業突く張りな男だった、というのはよくある話だそうだ。刑務所のなかは、異質な空間。寮生活のような日々のなかで、人の性格を変える。そして、狭い世界で生きなくてはいけない人々は、その狭さに順応するために、相手を受け入れる力ばかりを増やしていく。上っ面だけ愛想がいいとこだけは、そこらの社会と同じ。
 その時、砂浜のそばで何かが光った。流木が流れ着いたあたりだった。洋祐は目を細めたが、岩井は気づかずに言葉を続ける。
「あなた、プロですよね。私を、殺してください」
「まあ、そういう契約は作れますが。今日、すぐというわけには……」
「いえ。今日じゃなきゃダメなんです! 」
 そういって、岩井は頭を下げる。その時、流木のほうから、こんな声がかかった。
「なんの話をしているんです? 」
振り返れば、そこにはつばの長い帽子を目深にかぶった男が一人、たたずんでいる。
 満月のあかりが逆光となり、その顔はよく見えない。
「あ、ああ、演劇の練習で……」とっさに誤魔化す洋祐。すると男の驚いた声が。
「岩井さん、覚えてますか。僕ですよ。椎名です」
 洋祐も瞠目した。椎名、それは、洋祐の苗字でもあったからだ。同じ苗字なんて珍しくもないが、裏の仕事をしようとしているこの時に出会うというのは、いささか不可思議なようにも思えた。
 そう思った自分自身に、洋祐は頭をふる。そんな偶然ごときに心を惑わされるなんて、「人殺し」には不釣り合いだ、というように。
「椎名君、どうして、ここに」
「それは別れた奥さんが……。いえ、そんなことは、どうでもいいんです。椎名さん、死ぬおつもりなんですか。その男が、あなたを殺すとでも言うんですか」
「君には、関係ないじゃないか」
「ありますよ! あなたがいてくれたから、僕はあの会社で頑張れたんですよ。WEBサイトの制作なんて地味な仕事を毎日毎日……。他の上司たちから僕を守ってくれたのも、岩井さん、あなたじゃないですか」
 WEBサイトの制作会社の後輩か、と洋祐は悟る。同時に、どうやってこの場から逃げ出そうかとも考え始めた。逆光と帽子の長いつばで、相変わらず声の主の顔は見えない。『ラストホリデイ』のサイトを、岩井はジョークサイトだと思ったといった。ならば、岩井を手にかけさえしなければ、今現れた椎名――自分の苗字を呼ぶのは違和感があったが、椎名と呼ぶことにしたーーにさえ誤魔化せれば、逃げ切ることもできる。
「……岩井さん、今日は、この辺でやめておきましょう」
「え……?」
「劇団に入りたいって気持ちは分かりました。でもね、やっぱり、仕事のほうを頑張らなきゃ。こんなにいい部下もいるんだし」
 あまりにも分かりやすい誤魔化しの言葉に、岩井が乗ってきてくれるかは分からなかった。でも、それでもよかった。洋祐としては、この場から立ち去れれば、それでいいのだ。
「それじゃ、これで。忙しくなりますから、あぁ、あと、この先の連絡は遠慮してください」
 そう言って立ち去ろうとして背中を向ける。洋祐と岩井の間に、波の音二つ分の距離が空いた。そのときだった。
「見捨てないでくれ! 」
 夜の波音にも負けない声で、岩井がそう叫ぶ。
「頼む! 私を殺してくれ! 」
 その声に、振り向かないわけにはいかなかった。椎名も、混乱した顔で岩井を見ている。岩井はすでに立っていられなかったらしく、両ひざを砂浜についていた。
「岩井さん、どうして……」
「私は死にたいんだ。椎名君、君に邪魔する権利はない!」
「そんな……」
 椎名と呼ばれた男も混乱していた。まさか、助けに入った相手から、そんな言葉を貰うとは思わなかったのだろう。
「……何があったんです」
 洋祐が、静かな声でそう尋ねた。ここまで大きな声で叫ばれては、誤魔化すのも一苦労だ。ならば、落ち着かせたほうがいい。長年の勘が、そう告げていた。
 岩井は、苦し気に顔を振った。それから拳を握り、絞り出すようなかすかな声で、こう告げたのだった。
「娘が……美香が死んだんだ」
「え……?」
「美香は中学二年で施設に入った。妊娠していたせいで、中絶手術もやらされてね。でも、そこまではよかったろう。美香だって、自分を犯した男の子どもを、十四歳やそこらで産みたいわけがない。だが、……施設で、その話が噂になったんだ。美香は、私が出所する前に、施設のトイレで、首を吊ったよ」
 岩井の声を、波の音が消していく。いや、消そうとしているのに、その声は、いやに洋祐の耳に入って来た。これを聞かねばならない、と共生するように。
「高山と会った後、美香と妻が暮らしていた家に行ってみたらさ、家は、跡形もなく取り壊されていた。殺人事件現場なのだから、当たり前かもしれない。産まれたばかりの美香と、妻のために、少しでも良い暮らしをとローンを組んで建てた我が家が、なくなっていた」
「でも、それは……」
「椎名君。仕方ない、とは言わないでくれ。それは、私と妻と美香の生活をすべて否定する言葉だ。あの秋の日の、竣工祭での晴れ晴れとした気持ちを思い出したよ。美香の遊び相手が家に来た時のことを思い出したよ。朝早く起きて弁当を作ってくれた妻の笑顔も思い出したよ。そう、『思い出した』だけなんだ。もう、誰もいない。私のそばには」
 岩井の頬は、熱く濡れていた。砂浜に落ちてゆく涙は、中年の男が流すには、辛すぎたかもしれない。
「どうして、生きることばかりが推奨されるんだろうな。死ぬことだって、人生の選択肢の一つじゃないか。どうしても苦しくて、痛みに悶えている人間に、『生きたい人がいるんだから頑張りなさい』と言うのは、どれほど酷いことなのか。想像力が足りないんだよ」
「……岩井さん……」
「今日は、妻の、そして、美香の命日なんだ。今日、私を殺してくれ。金なら持ってきた。使うあてもない金だ。だから……頼む」
 洋祐は困惑していた。今まで、何人も手にかけて来た。だが、第三者がいる場所で裏の『業務』を行ったことはない。椎名がいる以上、手を出すことはできないのだ。
 そして、椎名も混乱していたい。仕事終わりに、妻から連絡がきた。「大事な話があるから、早く帰ってきてほしい」と。そんなことを言われてすぐに帰れるのは、妻を心底愛している人間だけかもしれない。きっと、いつものママ友の愚痴だろうと思って、椎名はこの海辺で時間をつぶしていたのだ。それだけのことだったのに、まさか会社の、世話になった先輩と巡り合うとは思っていなかった。しかも、自殺したい、とすがりつく瞬間に……。
「……君にできないなら、私は海に入るよ」
「え……? 」
「それなら、構わないだろう? 」
 戸惑う洋祐の前に、椎名が進み出る。
「待ってください、岩井さん。きっと他に、何か方法が……」
「私も考えたよ。新しい家庭を持つ。いいかもしれないね。酒もやめた。次はDVをしないかもしれない。でも、それが何になる? 五十をすぎた人殺しと付き合いたい女性がどこにいる? 何人もに断られているうちに、私の心は挫けてしまうよ」
「じゃあ……。そうだ、一度仕事を休むのはどうですか。あなたはきっと鬱なんです。暗い気持ちがなくなれば……」
「そうして、妻や美香のことを忘れて行けというのか?」
 椎名も、それ以上は何もいえなかった。
 岩井が、ゆっくりと海へと歩いていく。一歩一歩、まるで明るい歩道を歩くように、穏やかに。
「何もかも忘れて、明るい気持ちで八十、九十まで生きたとしよう。それで、私に何が残る? 妻を殴り、娘を見捨て、人を殺した前科持ち。愛するものもいない人生は、死んでいるのと何が違うんだ? 」
「……岩井さん」
「椎名君。今日のことは、誰にも言わないでくれ。そうして、忘れてくれ。もし、他のひとに彼のことを言ったら……」
 そういって、岩井は、洋祐を見つめた。
 大人の迫真の演技会にどこか白けて帰ろうとしていた洋祐は、困惑したまま岩井を見つめ返す。
「私は、きっとあの世でも、君を憎むだろう。私のような人間を救ってくれる逃げ道を、世間に晒すのだからね」
 椎名は、それ以上、何も言わなかった。代わりに、憔悴したように俯く。頃合いだ、と洋祐は思った。
「……ああ、でも、できるなら楽に死にたかったなあ。薬でも飲んで、眠ったままおぼれられたらよかったのに……」
「……できますよ」
「え? 」
 そう答えたのは、椎名。それまで頑なに先輩の自死を拒んできた椎名、本人だった。
 洋祐が瞠目していると、椎名は流木のそばにおいてある鞄へと歩いていく。そこから錠剤の入ったシートを見つけ出すと、十五錠分、岩井に渡した。
「今日、病院の日だったんです。いつも、睡眠薬を使っているから……。これを使えば、きっと眠ったまま……」
「……ありがとう」
 岩井が、椎名の両手を握った。椎名は、うつむいたままそれを見つめている。
 まるで、社内のゴルフコンペで優勝した上司と部下のようなあたたかい光景に、一番動揺しているのは洋祐だ。今まで裏稼業を営んできて、こんな状況には巡り合ったことがないのだから。
 まさか第三者に見られるとは思っていなかったし、その第三者が自分と同じ仕事ーー自殺ほう助ーーをするとも思っていなかった。おかげで洋祐は訴えられる心配はなくなったかもしれないが、事態の進展を呑み込めないでいるのも確かだった。
「ありがとう。私の最期を、見届けてくれて」
 岩井はそう言って、洋祐と椎名に微笑んだ。今日、初めて見る、岩井の微笑みだった。
 本当にうれしそうに、安堵したような、笑顔だった。

 薬が効き始めたか、ゆっくりと、時折ふらつきながら海に向かう。白波を超え、来ては行き返す波を超え、急に水深が深くなったところで足をとられ、意識も朦朧となった岩井が海へと流れてゆくのを、洋祐と椎名は、流木に座りながら見つめていた。どちらも、もちろん海から陸へ上げようとはしない。ただ、二人で座り続けていた。
「……ずっと、こんな仕事をしているんですか?」
「まぁ。知り合いがやってたんだけど、そいつもあの世に行ってね。おかげで、なんとなく後を継がされた」
 椎名の質問に答えてから、洋祐はハッとして口をつぐんだ。まさか、部外者に裏稼業の話をする日がくるとは思わなかった。だが、返って来たのは、意外な言葉だった。
「大事な仕事ですね」
「え……? 」
「僕も、死にたくなる時があります。眠るように逝きたいって、何度も思ったことがあります。岩井さんは、その願いを叶えたんですよね……」
 そう言って、椎名は帽子を脱いだ。
「いいな。僕も、いつかあなたに連絡するときが来るかもしれません……」
「え? 」
「いや、僕だって、死にたくなる時くらいありますから」
「そっちじゃない。あんた……誰、だ? 」
 洋祐の不可解な問いに、椎名が振り向く。洋祐と椎名、二つの顔が、合わせ鏡のように向かい合った。
「……え? 」
「……どういうこと? 」
 互いの顔をみて、二人はそれ以外の言葉を失っていた。そこにあったのは、まったく同じ顔。目、鼻、口元、耳にいたるまで、瓜二つ。後ろに髪を撫でつけた洋祐と、短く切りそろえた椎名という差はある。眼鏡をかけた椎名と、かけていない洋祐という違いもある。もちろん、服装も、まとう雰囲気も違う。だが、その顔かたちに関しては、まるきり、同じだった。
「……あんた、誰だ? 」
 洋祐と椎名は、お互いが同じタイミングで、同じ言葉を発する。そして、同じ顔が、同じ顔を見つめる。
「名前は? 」
「え? 」
「椎名ってのは、苗字だろう。下の名前は? 」
「洋祐……」
「あちゃぁ……俺がお前で、お前が俺で? 」
「冗談でしょう? 」
 洋祐はこめかみを抑えた。一体、どういうことだか頭の整理がつかない。夢だか現実だか知らないが。
 このまま、満月の海にいてはだめだと思った。引き込まれてしまう。「何か」に。
「今日は、もう帰りましょう。いろんなことが起きて、頭が破裂しそうだ」
「それがいい。俺も、いったん頭を冷やすか。このままじゃ爆発する」
 頭をふりながらいった洋祐に、椎名は息をのんだ。それは、自分の癖でもあったからだ。
 二人は、言葉少なに砂浜へと戻った。あの貝殻の白い線が、洋祐の目の前に現れる。そのまま渡ろうとすると、体がふらついて、片膝をついてしまった。
「どうしました? 」
「いや、飲みすぎたかな」
 つい先ほど岩井に言ったのと同じことを告げると、椎名は軽々と白線を超えている。
 まるで、何の障壁もないというように。
「……先に帰ってくれるか。俺は、もう少し、頭を冷やしてみる」
 椎名は何か言いたげだったが、これ以上、一緒にいても、らちが明かないことは自覚していた。そのまま、暗い道の先へと歩き始める。洋祐は、その白い貝たちの線を見つめた。まるでその先に行ってはいけない、というように、洋祐が進むのを防ぐのだ。
 だが、その抵抗も、椎名が暗闇に消えると、嘘のように消えてしまった。
「どういうことだ……? 」
 もう一度、貝をまたごうとすると、今度はふらつきも起きなかった。怪訝に思ったが、洋祐は考えるのをやめた。今日はあまりにも一度に、色々なことが起きすぎた。満月の海には不可思議なことが起きる、と岩井に言ったことを思い出す。岩井を慰めるために言ったのに、今この現実の前では、あの言葉を否定できない。困惑する洋祐の背後に、波の音だけが、さざめいていた。

§§§

 今日は、どうやって眠ろう。郊外の家へと向かいながら、椎名はそんなことを考えていた。ありったけの錠剤は、すべて岩井に渡してしまった。
 薬がなくては眠れないのが常なのに、どうかしていたのだ。自殺ほう助のほうが、よほどおかしいのに、椎名は、今夜自分が眠れるかどうかを考えていた。
――もう、僕は、壊れているのかもしれない。
 最寄り駅に到着して、電車の座椅子から立ち上がりながら、そう考えた。
――人を殺しても平気でいられるなんて、麻痺しているとしか思えない。
 そう言って、自分を責めてはみるものの、警察に行こうという気にはならなかった。自分も捕まってしまうからではない。洋祐のような人間を、必要としている人がいるといった岩井の声が、離れなかったのだ。いまや椎名自身も、その一人なのだから。
「ただいま……」
 囁いて家に入ると、リビングがまだ明るかった。『大事な話があるから、早めに帰ってきてね』。妻にはそう言われたのに、結局、すでに二十三時を過ぎている。
 どう言い訳しようかと考えながら扉を開けて、瞠目した。
「……何をしてるの? 」
 そこには、息子の翔太と一緒に、引っ越しの荷物を作っている玲子がいた。大学の懇親会の席で出会い、誰よりも輝いていた玲子が、疲れた顔をして、椎名を見つめていた。
「早く帰ってきてって、言ったのに」
「仕事が忙しくて」
「うそ。会社に電話したら、もう帰ったって言われたよ。八時くらいに」
「それは……」
「彼女さんでもできた?」
 そう尋ねる玲子の声には、怒りが滲んでいなかった。そのことが、恐ろしかった。夫婦の仲なのに、不貞をなじることもされなくなった自分が。
「いや」
「そう。どっちでもいいけれど」
「なあ、何をしているんだよ。荷物なんて、まとめて。これじゃあ、まるで……」
 そのあとの言葉は、続けられなかった。決定的な一言になってしまうような気がして。お願いがあるの、と玲子が、その端麗な唇でつぶやく。
「私と、離婚してください」
「いきなりなにを」
「ずっと思ってた。私って何なんだろうって。何もしてくれない夫のために、仕事もして、家事もして、育児もして」
「何もしてくれないって。俺だって働いてる! 」
「働いてる『だけ』でしょう。私はフルタイムで働いた上に、ご飯作りも掃除も子供の面倒も見ているの。学芸会にもいくし、この子が風邪をひいたら仕事も休む。そのうえ、あなたの世話までしないといけないなんて、もう嫌よ」
 あなたの世話、という言葉が、椎名の頭に血をのぼらせた。
 まるで、自分が小さな赤子のように言われた気がしたのだ。反論しようとしたが、言葉は出てこなかった。玲子と椎名の間に、さほど収入の格差はない。そのうえで、料理を作ってもらい、風呂を沸かしてもらい、洗濯物を干してもらっているのは、たしかに、椎名の方だった。まるで、お母さんに守ってもらえていた子ども時代のように。
「離婚届は書いておいたから。そこに記入しておいて」
「待ってくれ。僕の意思はどうなる? 」
「布団のなかで、私が部屋を出ていくのを願ってるだけの男の意思ってなに? 話し合いしようともしない、生活を変えようともしない人間に、意思があるっていうの? 」
「玲子……」
「お願い。別れて。それくらいなら、あなたにもできるでしょう」
 思わず、ひっぱたきたくなった。だが、それをしたら終わりだ。子どもが見ているにも関わらず、椎名は、玲子のことを抱きしめた。
「……頼む。僕にできることなら、何でもするから……」
 玲子の目に、ほのかに熱いものが揺れた。
 椎名も、玲子の体温を感じて、胸が苦しくなった。恋をしていたはずの女の肌に触れたのは、もう、五年ぶりだった。
「……本当に、なんでも? 」
「ああ……」
「じゃあ、別れて……」
 椎名は息をのむ。その答えは、想像していなかった。
 それこそが、玲子に言わせれば「甘すぎる」のだろう。
「それが、あなたにできるすべてよ」
 黙って荷造りしていた翔太が、ふわあ、とあくびをした。滑稽な夫婦の悲劇――あるいは喜劇には、もう飽きた、というように。

呆然としながら、椎名はビジネスホテルのベッドに体を預けた。
――どうしてこんなことになったんだろう。
 子ども時代、学生時代、働き始めた頃。どの時代も、自分の未来がこんなに暗いとは思わなかった。
「もしも、もう一人の自分がいたなら? 」
 窓の外、天に向かって併走するような会社のビルを見ながらつぶやいた。まだ明かりがついているのは、残業している社員が多いからだろう。
「プロ野球選手になる? それとも、自由気ままに生きる? 家庭も仕事もなくて、身一つで時間を味わう。あの、洋祐という男のように……」
 今晩、会ったばかりの男の顔を思い出す。自分と、そっくりな顔を。
「いや、無理だ。会社にいれば世間的には成功者でいられる。銀行でローンも組めるし、会社の金で人間ドックにも行ける。自意識を捨てて、その場しのぎで振舞い続けられれば、いい人だったと悔やまれて、土に帰れる……」
 独り言をつぶやきながら、椎名はため息をはいた。昔、会社の上司に言われたことがある。
『会社員の作法ってのは、地雷を踏まないようにして、面倒は他人に任せる。利益と手柄は自分のもの。そんなんでいいんだよ』
 その時は、上司が何を言っているのか分からなかった。今なら理解できる。あれは会社で生きるための作法であり、家庭を守るための方法ではなかった。玲子の地雷を踏まないように話し合いをさけ、家庭訪問や文化祭は妻任せ、でも、卒業式には「いいお父さんね」と言われて手柄を横取りする。それが椎名のやってきたこと。あの洋祐なんかには別世界のことなのだ。

 そもそも、椎名にとって生きるというのは、緩慢な自殺のようなものであった。
就活時の幸運でうまく入れた大手の広告会社を、辞めずになんとか持ちこたえたのは奇跡としか、いいようがない。入社当時は羨む大学の同期や、社名を伝えただけで見る目が変わる人々の反応に浮かれていたが、数か月もすると現実を知らされた。
社会に潜むヒエラルキー。顧客と業者、親会社と子会社。その序列は絶対だ。どんなベテランでも親会社の社員には、頭があがらない。
人間の評価は誠実さであったとしても、仕事の評価は小狡さで決まることには、いまだに椎名は慣れなかった。
何度も辞めようと思ったが、自分が世間の平均年収を上回ることを知ると、優越感に気力が回復した。独身時代は麻布のマンションに住み、着るものはセレクトショップで上から下まで揃えていたのだ。自分を上流階級の一員なんだと洗脳し、雑誌で知った星付きの店で狙いの女に奢るのが唯一の楽しみだった。僅かな小遣いを握り締め、焼き鳥屋で飲んでいるような、親の世代の安サラリーマンを見下していた。
そんな生活の中、いわゆる平均以上の自分を捨てられぬまま、同期の式に出席する機会が増え、自分も結婚を考えて、出会ったのが玲子だ。
会社の同僚のなかで、ひときわ、華のあった玲子。彼女は椎名に恋をしていたかもしれないが、椎名は、いわゆるルッキズムで選んだと非難されても仕方なかった。
 出産の瞬間には、立ち会えなかった。仕事場に玲子の親から連絡が来て、今分娩室に入ったといわれて、慌てて病院に走ったのだ。その時には、もう玲子の両親の、冷たい眼が椎名を刺した。他の妊婦たちは、夫の立ち合いのもとに産んでいるのに、うちの娘は……という憐憫の目でもあった。
なんとか、誤魔化して部屋に入ると、看護士に渡されたエプロンを着て、子供を抱いた。
初めて抱いた我が子は不可思議だった。こんなに軽くて小さいのに一人前の命が宿っているということに感動もした。
「ちょっと、鼻息」
玲子が、土気色の顔をして、まだ息が整わない椎名を笑ったものだ。
「何? 泣いてるの」
ああ、と頷きながら、ようやく、親の気持ちがわかった。一瞬にして、この子を命に代えても守るという覚悟が生じたのだ。その覚悟が、のちに消滅するとは、この時は思ってもみなかった。
「ありがとう、玲子。何ていったらいいか……」
「うん……。こちらこそ」
玲子も、椎名も柄になく泣いていた。玲子の親を振り返ると、頭を下げた。玲子の父親は、そんなことより、椎名が子供を落とさないか気が気でない様子だったのだ。
仕事の理不尽も、そこら中にある社会の歪みも、翔太の笑顔にはかなわないと思えたのだ。だが……。一瞬の感動は、日常に消されていく。
すくすくと育つ翔太につきっきりの玲子をサポートすべく、父親としての責任感で奮い立ったが、玲子にはかなわなかった。
夜泣きする翔太のために深夜も起き出してあやし、ミルクを与え、オムツを替える玲子の姿を見ながら、「明日も忙しいのに」と思うことも、一度や二度ではなかった。
 子どもの成長とは早いもので、保育園に入ったかと思ったら、すぐに小学校の入学式がやって来た。夢のマイホームを買い、美しい妻と賢い息子がいて、何が不満なのかと問われても、「何かがしっくりこない」と思う日々。
 死への抑止力は、死ぬ間際の苦痛と、後に残す大切な人の存在だけ。その二つが無ければ他愛もなく境界を越えていける。
誰の言葉かは忘れたが、「土に還らないのは人間だけ」という言葉がある。
人間は生まれついての死刑囚。ただ、暗い夜道を、満月の光もなく生きていく。照らしてもらえるのは、岩井のように、死ぬときだけなのかもしれない……。
――ああ、そうか。
 と、初めて気づく。岩井も、こんな気持ちだったんだろう。
 絶望の末に、もはや希望は、死ぬことだけだったんだ、と。しかし、「死にたい」なんて簡単に言うが、本当に一線を越える者の絶望と、その奈落の憶測に誘われる絶対的な寂寥を目の当たりにすると、自分の絶望などまだ戯言。それをわきまえた気分になれただけ、この世に執着する理由ができる。

§§§

事務所では、相変わらず、新卒の唯がパソコンに向かっていた。朝九時の光のなかで、遠くに電車の音が聞こえる。あの満月の夜から二晩が経った今、「椎名洋祐」は想像上の産物だったのではないかとさえ思えてくる。
岩井の死体も、上がっていない。WEBサイトの会社からは、請求書が送られてきている。まるで何もなかったかのように、日常が過ぎていった。
洋祐は、ぷかりと煙草の煙を吐く。どこも禁煙になった時代、気兼ねなく据えるのは、自分の事務所だけだ。
「ちょっと、社長。分煙は今や社会の常識ですよ! 」
「ここは俺の城だ! 」
「私の勤務先でもあります。労働環境を整えるのが社長の仕事では? 」
「それはそうだが……。だがな、この煙草の葉を採っている現地の皆さんの苦労を考えたことがあるか? その一人一人の努力の結晶がな、この一本に宿ってるんだ。皆さんの生活の為にも、消費して差し上げることが社会貢献に繋がるとは思わんか?想像が及ばんか? 」
「はい、じゃあ、そういうことで」
「あっ」
 ジュッと言って、煙草を奪われて消されてしまった。
 舌打ちはするが、何を言っても無駄なことは分かっている。労働者の環境のほうが、社長の言葉より強いのは、昨今、当たり前のことである。

 洋祐は両手を後頭部で組んで、天井に上がるタバコの残り香を眺めながら、今後について考えていた。『ラストホリデイ』の仕事も、潮時かもしれない。
死にたいだの、消えたいだの、なくなりたいだのと、最期の旅行の需要は多いが、本気度が高く、かつ、実入りの良い案件は限られる。心の闇ばかりを垣間見せられると、己の健全たる生活もままならなくなる。他人の闇に触れると自らも病んでいくのだ。
「なあ。人って生きなきゃいけないと思うか?次世代のホープよ? 」
「なんですか、社長。いきなりですね」
「お前もさ、これから色んなことがあるわけだろ。辛いこともある。それでも生きたいか? 」
「そりゃ、生きていればいろいろありますよ。それでも強く生きていかなきゃ」
「それ、お前がどんな状態でも言う自信あるか? 」
 洋祐の言葉に、唯は返答に迷った。
どんな時も? 義父に犯されて中学生で子どもを妊娠したら? 実父も刑務所にいて、施設でもいじめに遭ったら? 刑務所から出てきたら娘は死んでいて、愛する者のすべてを失ったら? そんな時に、「強く生きていかなきゃ」なんて言葉は、ただお芝居用の戯言に過ぎない。
「必ずしも生き続けることが幸せとも言えない世の中だろ。『幸せな終わりかた』が『救い』になることもあるわけだよ」
「社長……どうしたんですか?」
「いや、なんでもない」
そう言いながら、パソコンに目を戻す。新しいサイトのおかげで、最近は良質な案件が増えているとはいえ、何十年も続けられる仕事ではない。唯には「ただの旅行会社」と伝えて、表の仕事ばかり回しているが、裏家業が知られるのも時間の問題だ。
「そろそろ潮時かぁ」
「うわあ。ひどい」
洋祐の言葉と、唯の嘆息が同時だった。事務所についていたテレビのワイドショーでは、デパートで昨日起きた無差別殺人事件を扱っていた。
「速報です。婦人服売り場に乱入した男が、居合わせた女性客を次々と切りつけた事件です。被害者は複数人にのぼり、うち一名が、病院で死亡が確認されました。容疑者は『人生が嫌になった、誰でもよかった』などと供述しており……」
 こういう連中のために、逃げ場が必要なんだ、と洋祐は思い出す。死ぬなら一人で死んでほしい、というのは、あまりにもひどい言い草だ、とリベラルな連中は言う。もちろん、他人を巻き込んで自殺したがる人を出さないことが重要なことだとは分かる。
 だが、対処療法として、そういった人間が静かに人生を終えられるようなシステムも作っておくべきだ。『ラストホリデイ』は、その答えの一つ。
「うーん…」
 ジレンマのなかで、洋祐は伸びをした。
窓の外には、小雨が降りだしている。薄曇りの空の向こうには、太陽は見えない。もう、二度とそんなものは現れないような気がしてくる。煙草をもって屋上にのぼって、空でも見て、この思暗澹たる思いをやりすごそう。そう思った瞬間、通知音が鳴った。新しいメールが来たらしい。その文面をみて、洋祐は、瞠目した。
「満月の海で。椎名洋祐」
たった一行だったからこそ、すべての思いが含まれていることが分かった。洋祐は立ち上がる。この不可思議な現象に終止符を打つために。そして、自分の人生の方向性を、決めるために。

§§§

「よぉ」
「どうも」
 そんなあいさつで、同じ顔の二人の男は再会した。
シカゴを経由して十数時間の長旅にややお疲れの二人の中年。
 今日の洋祐は、開襟シャツに短パン。撫でつけた髪は日に焼けたように茶色かった。椎名のほうは、会社を辞めたというのに、かっちりとした髪型にシャツ姿を崩していなかった。雰囲気も服装も違う。だが、顔だけは双子のようにーーいや、それ以上に、まったく同じものだった。
 南国の陽気にあふれた出店の一角に、洋祐は座る。ビール瓶ケースに腰掛けた洋祐は、まるで、この国で生まれたかのようになじんでいた。一方、この暑いのにシャツ姿の椎名は、居心地悪そうに尻をもぞもぞさせている。
 ビール二つと、キューバサンドを頼んだついでに、豆のスープとキャッサバ芋のガーリック煮もお願いする。どれも、周りから美味しそうな匂いが漂ってきているものだった。
 氷水で冷やされたビールが二つ、洋祐のもとに運ばれてくる。そのうちの一本を椎名のもとに押しやって、飲み干した。
飛行機のなかで、多少は緊張していたのだ、と洋祐もようやく気付く。
椎名も、ビールの蓋を開けていた。
「それで? なんで、ハバナなんだ?」
「新婚旅行で来たんだよ」
「ほお。面白い奥さんなんだな」
「まだ行ったことのない国に行きたいって、いつも言ってたからね」
「そんな貴重な奥さんをおいて死んでいいのか?」
「もう、離婚したから」
 椎名の言葉に、洋祐は片目を細めた。それは、ある意味では予想していた言葉だ。男の場合、離婚後のほうが、離婚前よりも死亡率が上がる。食事の不摂生もさることながら、孤独感から自死を選ぶケースが多いのだ。一方で、女性の場合は既婚のほうが心を病む率が高いというのだから、たまらない。
 だが、椎名が離婚してくるとは、思っていなかった。
 洋祐にとっては、椎名は「成功者」だった。お堅い仕事につき、妻子がいて、家もある。今まで手を下して来たものは、ほとんどが「脱落者」だった。一度は成功していても、そのあとで事業を失い、やがて全てを失ったものが多かった。
「理由を聞いても?」
「ああ、もうなんでも聞いてくれ。単純な話だよ。僕が怠けていたからだ」
「仕事はしていたんだろ?」
「人はパンのみに生きるにあらず、さ。僕は妻を家政婦としか見ていなかった。一人の人間として尊重していなかった。離婚するときにはじめて、息子が僕の顔をよく覚えていないことを知ったよ。そりゃあ、そうだ。ほとんど家にいなかったからね」
「……そうか」
 椎名が、ぐいっとビールをあおる。その勢いのよさに、一瞬止めそうになったが、やめた。やけ酒が必要な時があるのだ。椎名にも、きっと、別れた奥さんにも。
「でも、サブスクリプションサービスを解約しろって言われたときは驚いたよ。今から死ぬっていうのに、いやに現実的だなって」
「でも、必要だったろ? 」
「ああ。解約があんなに手間だと思わなかった。死んでから解約するのは、もっと大変だとも知った。「死んだ方からのご連絡がなければ解約できません」なんて言われることまであると知って愕然としたよ」
「人間、生きてればいろんな金がかかる。昔は現金払いだったから、死んでも簡単に遺族が出金を止められた。だが、今は時代が違うからな。家族の手間を減らすためにも、死ぬ前にサブスクの解約。……喜劇だな。これまで真っ当に思えたプライオリティが役に立たん」
「本当に」
 椎名が、くつくつと笑った。その表情に、わずかな狂気が隠れていたことを、洋祐は見逃せなかった。死を前にして笑う人間は、たいていが、どこか狂い始めている。
 岩井は笑わなかった。ただ必死に死を願った。だが、椎名は、笑う。自分がしていることが可笑しくて。それでも、止められない自分を馬鹿にして。自虐もここまで行けば、もう後戻りはできない。キューバサンドをかじると、中から濃厚なチーズがあふれ出した。口の端についたソースをぬぐいなら、洋祐が聞く。
「気づいているか? 」
「なにに? 」
「さっきから、ビールも、キューバサンドも、俺のほうに置かれる。豆のスープも、芋のガーリック煮も」
「ああ。僕は、見えていないんだろうな」
 椎名はそう言って、道行く人たちを見つめる。窓外を眺める一階の席。人々は怪訝そうに、独り言を言う洋祐を見つめていた。
「なあ、飛行機の番号は、何番だった? 」
「54F」
「やっぱりか。俺も同じだ。12:35分着の座席54F。出発空港は成田だよな? 」
「もちろん。……俺たちは、違う世界の同じ「椎名洋祐」なのかな。それが、偶然、ここで巡り合った」
「人生に偶然はない」
 洋祐が、きっぱりと告げる。
 椎名も納得したようにうつむいた。
「あるのは、必然だけだ。……決行は今日の夜。それでいいな? 」
 うん、と椎名は呟いた。だが、その声は、洋祐以外には聞き取れなかっただろう。この街の喧騒に比べて小さすぎて。そして何より、椎名はこの世界の住人ではないから。

§§§

波の音が、痛いほど耳についた。
横浜の海と違って、ハバナの海は南国らしい穏やかなところがある。だが、その穏やかさが、いまは恐ろしかった。マレゴン通りを時折浴びせる高潮。穏やかと思いきや自然の圧倒的な力を見せつける。住民も慣れたもので、水浸しになりながらも平然と運転する。
「……玲子。翔太。ごめん……」
 一人で海辺にいる椎名が思い出すのは、残して来た妻子のことだった。いや、「残して来た」なんて傲慢かもしれない、と考え直す。もともと、彼らのことをちゃんと「見て」はいなかったのだ。幻想の中の、家政婦としての妻と、妻が養育する子ども。本当にはそうとしかみていなかったのかもしれないと思うと、自分の人生の無意味さを知らされる。
「何を、やっているんだろうな」
考え込むと迷いが生じる。ビーチの傍にある流木まで、ふらりと歩いた。角度と強さをかえて入り混じる心地よい風の中、民家のような売店でビールを買い、のんびりと海を眺めて過ごす。最後の一日という思いが時の流れを早め、名残惜しさが胸を掻きむしる。
思えば今日はめまぐるしかった。海岸沿いの町を歩くと、住民たちの貧しくも陽気で図太い生きざまが見えてくる。その光景には、射抜かれたように心を打たれた。これまで人に負けまいと、時に歯を食いしばって掴んできた肩書も郊外の家も、車も、ブランドで固めたスーツも、彼らの生きざまを見ると薄っぺらく思えてくる。
路地でサッカーボールを蹴り、無心に遊ぶ子供たち。そこには周囲より少し不器用な、でも必死にボールに食らいつく少年を見つける。ふとその少年と目が合った。もし同じ年頃の自分が、今の自分の境遇を知ったら、どうなっただろう。我ながら残酷なことを考えたものだ。
「お父さん! 」
翔太の声がよみがえる。一緒に遊んだ時、どぶ川に落ちたボールを必死に手繰り寄せようとして、無様に川に落ちた。岸から離れて流れていこうとするボールを、自分で泳いでずぶ濡れになりながら、やっとボールを取り戻す。そんな椎名を、翔太はどこか尊敬の瞳で見た。思えばそれが、翔太との一番に、思い出深い一瞬だった。それ以外は、すべて玲子に任せてしまっていたから。
 
スマートフォンを見ると、待ち受けには、玲子と翔太、そして椎名の笑顔があった。
見まいと思っても、つい見てしまう。翔太の目は世の中のありとあらゆるものを無条件に受け入れる、愛おしく、そして危なっかしいほど純粋な光を放っていて、翔太を囲む夫婦は我が子をこの世に送り出した誇らしさと責任と、そして溢れるばかりの幸せをあらわにしていた。
そのかけがえのない妻と子を置いて椎名は旅立ち、二度とこの世に戻らない。家族も仕事も、生きる目的も失った自分には未来に歩を進める理由はない。家族は椎名がいなくても、保険金で生きていける。自分の責任は果たし、潔く散るのがすべてだ、と改めて考える。

「……もう、いいか? 」
椎名のそばに歩いてきたのは、最後の旅に誘う添乗員、洋祐だった。
だが、不思議と怖くはない。こうなるのが、生まれた時からの必然のように思えた。これまで苦労したのも、喜びがあったのも、この日のためだったのかもしれない、と。
「一応、確認しておくが……、どっちかを殺したら、どっちも死ぬってことはないよな? 」
「たぶん、大丈夫だろう。ここは、君のいるべき世界だし……。君は、僕の「ありえたかもしれない別の姿」だと思うよ」
 いかにも非現実的なことを、椎名がつぶやく。
 だが、同じ顔の、同じ名前の男が今ここに二人いる限り、それを幻想だと切って捨てることはできなかった。
「世間に語れる仕事もせず、結婚もしなかった場合の僕。それを、君が見せてくれた。ただ、それだけなんだと思う」
「じゃあ、あんたも、俺の『ありえたかもしれない姿』か。まじめに働いて、子どもも作った場合の」
「きっとね」
「でも、なんで俺たちが、こんな目に……」
「本当は、誰もが、『ありえたかもしれない姿』に巡り合っているのかもしれない。ただ、振り返らなければ、見えないまま通り過ぎるんだよ。きっと、それだけの話だ」
 椎名は目をつむった。あの横浜の日と同じように、満月が海を照らしている。深いインディゴのグラデーションが、海の向こうまで続いていた。洋祐は、波打ち際を探るように近づいていく。どこから狙えば、一番「他殺」として診断されるか確かめるように。

「……生きるって大変だな。逃げ出したくって、別の自分になりたかったり」
「ぶれちゃいかん、って言っときながら、ぶれなきゃやってられなかったり」
「はは」、と笑ってお互いを見合う。その、「ぶれ」の片方が椎名で、もう片方が洋祐。

 そして、洋祐は銃を構える。椎名は、「ありがとう」というように微笑んだ。それは音にはならなかったはずなのに、確かに、洋祐の耳には届いた。それ以上の感慨は、野暮ってもの。
 
一発の乾いた銃声が響く。その音はインディゴの空に響き、そして、遠くに消えていった。


§§§

いつもの店で昼食を終えて部屋に戻った唯は、食後の珈琲を用意しながら、事務所の窓を開けた。歌舞伎町のにおいが、部屋に流れ込んでくる。人間たちの汗と、どこか甘い香水の匂い。生きて死ぬまでの一瞬の輝きと、わずかな血の臭いが。
「今日も、平和だなあ」
なんて、柄にもない言葉をつぶやく。今日は久しぶりに晴れたからかもしれない。マグカップに珈琲を入れて、シングルソファーに腰掛け、用もなくテレビをつけた。
このところメディアの格好のネタとなっている、政治家絡みの献金疑惑をいつものコメンテーターがああだこうだ、とこねくりまわしている。容疑者とされる男は、上に尽くすタイプで、真面目に働いた挙句に精神を病み、自ら命を絶ったらしい。死んだ男の上司は最近、異例の出世を遂げていた。ありがちな話だ。
庶民向けの「ガス抜き」たる事件は、必ず視聴率がとれる。そして、視聴者の集まる番組にはスポンサーがつく。怖いもの見たさを刺激する、こんなビジネスの行く先はどうなるのか?と思いつつ、唯はチャンネルを変更した。そこでは、中東の危険地帯に赴任した日本の女性が、テロリストと一緒に『ジハード』と叫んで自爆攻撃したという一報が流れていた。
「あれ、これって……」
たしか、社長にそんな悪態をつかれたことがあった気がする。
「もしも、もう一人の自分がいたら、いや、まさか、ね……」
 ピロリン、とパソコンの通知音が鳴った。YO-SUKE SHI-NAからの一報だった。
「社長、今日、帰ってくるんだ」
 もしかして日焼けしているかもしれない。ハバナなんて南国に行って性格も変わっているかもしれない。たっぷりと、土産話をしてもらおう、と唯は思った。それが奇怪な話であっても、すべて聞いてあげようと。窓の外には、青空が続いている。きっと、ハバナに繋がっている空。そして、そのもっと向こう側にも、続いている空が。

(了)

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