8 / 31
第8話『音のないピアノ』
しおりを挟む
くちなし第二中学校の音楽室には、古びたグランドピアノが置かれている。
漆黒の光沢はところどころ剥がれ、鍵盤も黄ばみ、長年の湿気で蓋の蝶番は錆びついていた。
音楽教師が新任のときから「あのピアノは調律しても狂いやすい」と言われており、いまではほとんど使われなくなっていた。
だが、そのピアノは――夜になると勝手に鳴るという噂があった。
「音のないピアノ」と呼ばれ、弾く人のいない旋律を鳴らし続ける。
いや、正確には、誰もその音を“聴いた”わけではなかった。
ただ夜の学校に忍び込んだ生徒たちが、こう口を揃えるのだ。
「音は聞こえなかったのに、確かにピアノが弾かれていた」と。
*
私は放送部だった。
校内放送設備を管理し、行事ごとのBGMやマイクチェックをするのが仕事だった。
夏休みのある日、文化祭の準備で体育館に行こうとしたとき、放送室のモニタ画面に奇妙な映像が映った。
モニタは校内の数カ所を映す簡易監視カメラだ。
音楽室のカメラには、暗い室内にぽつんとピアノが映っていた。
だが、そのピアノの前に――誰かが座っていた。
肩までの髪の長い、制服を着た女子生徒。
髪が顔を隠していて表情は見えなかったが、両手を膝に置き、ピアノに向かって静かに座っていた。
最初は気味が悪かった。
だが、次の瞬間、彼女の指がそっと鍵盤に触れたのが見えた。
私は慌ててモニタを消した。
だが、そのあとずっと耳の奥で、誰かがピアノを弾いている気配が続いていた。
*
夜、家でうとうとしていると、ふとピアノの音が聞こえた。
最初は気のせいかと思った。
だが、目を閉じると、はっきりと旋律が浮かぶ。
やわらかく、どこか悲しげな短調の曲。
その曲には聴き覚えがあった。
小学生の頃、ピアノ教室で習った『別れの曲』。
失敗ばかりして叱られ、泣きながら家に帰ったことを思い出した。
その思い出に重なるように、旋律はやがて音を失った。
音が消えたのに、指だけが動いている――そんな幻覚が瞼の裏で続いていた。
*
次の日、私は思い切って音楽室に行った。
扉を開けると、そこには昨日のモニタで見たままの光景があった。
古びたピアノ、埃っぽいカーテン、誰もいないはずの教室。
でも、よく見ると、ピアノの椅子に薄く人影があった。
私は近づき、そっとピアノに触れた。
冷たい。まるで、長いあいだ誰も弾かなかった氷のようだった。
だが、次の瞬間――私の手が勝手に動き出した。
鍵盤の上で、ゆっくりと、あの旋律をなぞる。
音は聞こえなかった。ただ、自分の指が確かに押し下げられていく感覚があった。
弾き終わったとき、背後でカーテンが揺れた。
「……きこえた?」
誰かが、すぐ後ろで囁いた。
慌てて振り向くと、そこには誰もいなかった。
ただ、ピアノの譜面台に置かれた楽譜の上に、小さな指紋の跡だけが残っていた。
*
その日から、私は夜になると「音のない曲」を聴くようになった。
最初は遠かった音が、日に日に近くなる。
やがて、耳元で誰かが息をする気配がした。
「もういちど、いっしょに弾こうよ」
ある晩、はっきりとそう声が聞こえた。
私は思わず布団を引きかぶって震えた。
すると、どこからともなくピアノの音が――いや、音のようなものが、布団の中まで染み込んできた。
翌朝、目が覚めると、手には古い五線譜が握られていた。
そこには、何も書かれていなかった。
ただ、薄く灰色に擦れた指の跡が、鍵盤をなぞるように残っていた。
*
いまも、放送室のモニタは音楽室を映している。
私はできるだけ見ないようにしている。
なぜなら、画面の向こうで、誰かがこちらをじっと見つめている気がするからだ。
目が合えば、きっともう、二度と音を忘れられなくなる。
そして――音のない曲を、一緒に弾かされる。
そんな気がしてならないのだ。
(第8話 了)
【あとがき】
「音が聞こえないのに旋律だけが残る」というのは、人間の深層記憶に訴える奇妙な恐怖です。
この話は、記憶に刻まれた旋律が再生される瞬間をテーマにしました。
漆黒の光沢はところどころ剥がれ、鍵盤も黄ばみ、長年の湿気で蓋の蝶番は錆びついていた。
音楽教師が新任のときから「あのピアノは調律しても狂いやすい」と言われており、いまではほとんど使われなくなっていた。
だが、そのピアノは――夜になると勝手に鳴るという噂があった。
「音のないピアノ」と呼ばれ、弾く人のいない旋律を鳴らし続ける。
いや、正確には、誰もその音を“聴いた”わけではなかった。
ただ夜の学校に忍び込んだ生徒たちが、こう口を揃えるのだ。
「音は聞こえなかったのに、確かにピアノが弾かれていた」と。
*
私は放送部だった。
校内放送設備を管理し、行事ごとのBGMやマイクチェックをするのが仕事だった。
夏休みのある日、文化祭の準備で体育館に行こうとしたとき、放送室のモニタ画面に奇妙な映像が映った。
モニタは校内の数カ所を映す簡易監視カメラだ。
音楽室のカメラには、暗い室内にぽつんとピアノが映っていた。
だが、そのピアノの前に――誰かが座っていた。
肩までの髪の長い、制服を着た女子生徒。
髪が顔を隠していて表情は見えなかったが、両手を膝に置き、ピアノに向かって静かに座っていた。
最初は気味が悪かった。
だが、次の瞬間、彼女の指がそっと鍵盤に触れたのが見えた。
私は慌ててモニタを消した。
だが、そのあとずっと耳の奥で、誰かがピアノを弾いている気配が続いていた。
*
夜、家でうとうとしていると、ふとピアノの音が聞こえた。
最初は気のせいかと思った。
だが、目を閉じると、はっきりと旋律が浮かぶ。
やわらかく、どこか悲しげな短調の曲。
その曲には聴き覚えがあった。
小学生の頃、ピアノ教室で習った『別れの曲』。
失敗ばかりして叱られ、泣きながら家に帰ったことを思い出した。
その思い出に重なるように、旋律はやがて音を失った。
音が消えたのに、指だけが動いている――そんな幻覚が瞼の裏で続いていた。
*
次の日、私は思い切って音楽室に行った。
扉を開けると、そこには昨日のモニタで見たままの光景があった。
古びたピアノ、埃っぽいカーテン、誰もいないはずの教室。
でも、よく見ると、ピアノの椅子に薄く人影があった。
私は近づき、そっとピアノに触れた。
冷たい。まるで、長いあいだ誰も弾かなかった氷のようだった。
だが、次の瞬間――私の手が勝手に動き出した。
鍵盤の上で、ゆっくりと、あの旋律をなぞる。
音は聞こえなかった。ただ、自分の指が確かに押し下げられていく感覚があった。
弾き終わったとき、背後でカーテンが揺れた。
「……きこえた?」
誰かが、すぐ後ろで囁いた。
慌てて振り向くと、そこには誰もいなかった。
ただ、ピアノの譜面台に置かれた楽譜の上に、小さな指紋の跡だけが残っていた。
*
その日から、私は夜になると「音のない曲」を聴くようになった。
最初は遠かった音が、日に日に近くなる。
やがて、耳元で誰かが息をする気配がした。
「もういちど、いっしょに弾こうよ」
ある晩、はっきりとそう声が聞こえた。
私は思わず布団を引きかぶって震えた。
すると、どこからともなくピアノの音が――いや、音のようなものが、布団の中まで染み込んできた。
翌朝、目が覚めると、手には古い五線譜が握られていた。
そこには、何も書かれていなかった。
ただ、薄く灰色に擦れた指の跡が、鍵盤をなぞるように残っていた。
*
いまも、放送室のモニタは音楽室を映している。
私はできるだけ見ないようにしている。
なぜなら、画面の向こうで、誰かがこちらをじっと見つめている気がするからだ。
目が合えば、きっともう、二度と音を忘れられなくなる。
そして――音のない曲を、一緒に弾かされる。
そんな気がしてならないのだ。
(第8話 了)
【あとがき】
「音が聞こえないのに旋律だけが残る」というのは、人間の深層記憶に訴える奇妙な恐怖です。
この話は、記憶に刻まれた旋律が再生される瞬間をテーマにしました。
0
あなたにおすすめの小説
意味が分かると怖い話(解説付き)
彦彦炎
ホラー
一見普通のよくある話ですが、矛盾に気づけばゾッとするはずです
読みながら話に潜む違和感を探してみてください
最後に解説も載せていますので、是非読んでみてください
実話も混ざっております
【⁉】意味がわかると怖い話【解説あり】
絢郷水沙
ホラー
普通に読めばそうでもないけど、よく考えてみたらゾクッとする、そんな怖い話です。基本1ページ完結。
下にスクロールするとヒントと解説があります。何が怖いのか、ぜひ推理しながら読み進めてみてください。
※全話オリジナル作品です。
与兵衛長屋つれあい帖 お江戸ふたり暮らし
かずえ
歴史・時代
旧題:ふたり暮らし
長屋シリーズ一作目。
第八回歴史・時代小説大賞で優秀短編賞を頂きました。応援してくださった皆様、ありがとうございます。
十歳のみつは、十日前に一人親の母を亡くしたばかり。幸い、母の蓄えがあり、自分の裁縫の腕の良さもあって、何とか今まで通り長屋で暮らしていけそうだ。
頼まれた繕い物を届けた帰り、くすんだ着物で座り込んでいる男の子を拾う。
一人で寂しかったみつは、拾った男の子と二人で暮らし始めた。
百合ランジェリーカフェにようこそ!
楠富 つかさ
青春
主人公、下条藍はバイトを探すちょっと胸が大きい普通の女子大生。ある日、同じサークルの先輩からバイト先を紹介してもらうのだが、そこは男子禁制のカフェ併設ランジェリーショップで!?
ちょっとハレンチなお仕事カフェライフ、始まります!!
※この物語はフィクションであり実在の人物・団体・法律とは一切関係ありません。
表紙画像はAIイラストです。下着が生成できないのでビキニで代用しています。
上司、快楽に沈むまで
赤林檎
BL
完璧な男――それが、営業部課長・**榊(さかき)**の社内での評判だった。
冷静沈着、部下にも厳しい。私生活の噂すら立たないほどの隙のなさ。
だが、その“完璧”が崩れる日がくるとは、誰も想像していなかった。
入社三年目の篠原は、榊の直属の部下。
真面目だが強気で、どこか挑発的な笑みを浮かべる青年。
ある夜、取引先とのトラブル対応で二人だけが残ったオフィスで、
篠原は上司に向かって、いつもの穏やかな口調を崩した。「……そんな顔、部下には見せないんですね」
疲労で僅かに緩んだ榊の表情。
その弱さを見逃さず、篠原はデスク越しに距離を詰める。
「強がらなくていいですよ。俺の前では、もう」
指先が榊のネクタイを掴む。
引き寄せられた瞬間、榊の理性は音を立てて崩れた。
拒むことも、許すこともできないまま、
彼は“部下”の手によって、ひとつずつ乱されていく。
言葉で支配され、触れられるたびに、自分の知らなかった感情と快楽を知る。それは、上司としての誇りを壊すほどに甘く、逃れられないほどに深い。
だが、篠原の視線の奥に宿るのは、ただの欲望ではなかった。
そこには、ずっと榊だけを見つめ続けてきた、静かな執着がある。
「俺、前から思ってたんです。
あなたが誰かに“支配される”ところ、きっと綺麗だろうなって」
支配する側だったはずの男が、
支配されることで初めて“生きている”と感じてしまう――。
上司と部下、立場も理性も、すべてが絡み合うオフィスの夜。
秘密の扉を開けた榊は、もう戻れない。
快楽に溺れるその瞬間まで、彼を待つのは破滅か、それとも救いか。
――これは、ひとりの上司が“愛”という名の支配に沈んでいく物語。
どうしよう私、弟にお腹を大きくさせられちゃった!~弟大好きお姉ちゃんの秘密の悩み~
さいとう みさき
恋愛
「ま、まさか!?」
あたし三鷹優美(みたかゆうみ)高校一年生。
弟の晴仁(はると)が大好きな普通のお姉ちゃん。
弟とは凄く仲が良いの!
それはそれはものすごく‥‥‥
「あん、晴仁いきなりそんなのお口に入らないよぉ~♡」
そんな関係のあたしたち。
でもある日トイレであたしはアレが来そうなのになかなか来ないのも気にもせずスカートのファスナーを上げると‥‥‥
「うそっ! お腹が出て来てる!?」
お姉ちゃんの秘密の悩みです。
別れし夫婦の御定書(おさだめがき)
佐倉 蘭
歴史・時代
★第11回歴史・時代小説大賞 奨励賞受賞★
嫡男を産めぬがゆえに、姑の策略で南町奉行所の例繰方与力・進藤 又十蔵と離縁させられた与岐(よき)。
離縁後、生家の父の猛反対を押し切って生まれ育った八丁堀の組屋敷を出ると、小伝馬町の仕舞屋に居を定めて一人暮らしを始めた。
月日は流れ、姑の思惑どおり後妻が嫡男を産み、婚家に置いてきた娘は二人とも無事与力の御家に嫁いだ。
おのれに起こったことは綺麗さっぱり水に流した与岐は、今では女だてらに離縁を望む町家の女房たちの代わりに亭主どもから去り状(三行半)をもぎ取るなどをする「公事師(くじし)」の生業(なりわい)をして生計を立てていた。
されどもある日突然、与岐の仕舞屋にとっくの昔に離縁したはずの元夫・又十蔵が転がり込んできて——
※「今宵は遣らずの雨」「大江戸ロミオ&ジュリエット」「大江戸シンデレラ」「大江戸の番人 〜吉原髪切り捕物帖〜」にうっすらと関連したお話ですが単独でお読みいただけます。
ユーザ登録のメリット
- 毎日¥0対象作品が毎日1話無料!
- お気に入り登録で最新話を見逃さない!
- しおり機能で小説の続きが読みやすい!
1~3分で完了!
無料でユーザ登録する
すでにユーザの方はログイン
閉じる