『さよならを教えてくれた、あの町のパン屋さん』

コテット

文字の大きさ
7 / 10

第7話 「あなたは、ちゃんと泣けた?」

しおりを挟む



 台風一過の朝は、驚くほど静かだった。

 空は洗い立てたように澄みわたり、裏の山からは鳥のさえずりが聞こえていた。
 庭に出てみると、夏みかんの木が何本か枝を落としていたが、家も窯も無事だった。

「ふぅ、今年も耐えたわねぇ……あたしより丈夫よ、この家」

 千代子さんが笑いながら言う。

 手には竹箒。落ち葉をせっせと掃いているその背中は、どこか軽やかだった。

「昨日は……すごかったですね」

「そうね。あんたがいてくれて本当によかったわ。ありがとね」

 穏やかな声に、胸がふわりと温かくなった。

 その日の午前中は、濡れた畳を干し、濡れたタオルを何枚も絞り、パンの焼き直しを少しだけした。

 昼前、作業が一段落した頃だった。

「直人さん、ちょっと外、散歩でもどう?」

 不意に千代子さんがそう言った。

「散歩、ですか?」

「ええ。今日みたいな空の日はね、歩くだけで心が軽くなるのよ。……ついでに、ちょっと寄りたいところがあるの」

 その誘いに頷き、ふたりで坂を下ることになった。

 通い慣れた商店街を抜け、住宅街を過ぎ、やがて田畑の広がる道へ。
 台風の影響でところどころぬかるんでいたが、空気は澄み、野の香りが心地よかった。

「ほら、見えてきたわよ」

 坂の先に、小さな丘があった。その上には、木陰に囲まれた小さな墓石。

「……ここって」

「ええ。おじいさんのところ」

 千代子さんは、手に持っていた小さな花束とパンを、静かに墓前に供えた。

「毎年、台風が過ぎたらね、来るのよ。嵐を越えて、また一年、生きられたことを報告しに」

 手を合わせるその姿に、言葉を挟むことはできなかった。

 静かな風が吹いた。葉擦れの音だけが耳に残る。

「……ねえ、直人さん」

 不意に、千代子さんが口を開いた。

「あなた、自分のこと、話してくれる?」

 その言葉に、一瞬、戸惑った。

 けれど、ここまでの時間が、問いを拒む気持ちをゆっくりと溶かしていた。

「……僕、東京のデザイン会社で働いていました。広告とか、ロゴとか、いろいろ。最初はやりがいもあって、夢中で働いてたんです。でも……ある日、取引先とのミスを僕のせいにされて、上司にも責められて。気づいたら、眠れなくなって、食べられなくなって……」

 声が少しずつかすれていく。

「いつのまにか、誰の顔も見たくなくなって。気づいたら……何もかも、どうでもよくなってました」

 千代子さんは、黙って聞いていた。

 話すうちに、心の奥で凍っていた何かが、ゆっくりと溶け出すようだった。

「でも、不思議だったんです。パンを食べて、あの匂いを吸い込んで、あなたが頭をなでてくれて……初めて、涙が出たんです。……今でも、うまく泣けないこともあるけど……あのときのことだけは、忘れられない」

 話し終えたあと、長い沈黙があった。

 その沈黙を破ったのは、千代子さんのやさしい問いだった。

「……直人さん。あなたは、ちゃんと泣けた?」

 その問いに、もう一度、胸がぎゅっと締めつけられた。

「……泣けました。たぶん、少しだけど、ちゃんと……」

「なら、いいのよ。それで十分。人はね、涙が出せるなら、まだ大丈夫」

 千代子さんは、小さく笑った。

「泣けなかったら、人に借りればいい。ここには、泣きたい人がたくさんいるから。うちのパンは、泣いてもいい場所に焼いてあるの」

 その言葉が、深く胸に染みた。

 この人の作るパンは、味だけじゃない。生き方が、詰まっているんだ。

 僕はこの町で、ようやく、そういうものに触れたのだ。

 帰り道、陽ざしが背中を照らしていた。秋の風は、ほんの少しだけ甘かった。

◆あとがき
今回も最後まで読んでくださり、ありがとうございます。

第7話では、主人公・直人の“心の奥”にあったものを少しだけ解き明かす回となりました。

人は、泣けることですべてが救われるわけではありません。
でも、“泣ける場所”を持っていることは、確かに人を守る力になります。

この物語が、誰かの「泣ける場所」の代わりになってくれたらと、心から願っています。

次回は、季節が少し進みます。
秋の終わり、少女・花音のとある「手紙」をきっかけに、物語は小さな転機を迎えます。

◆応援のお願い
ここまで読んでくださり、本当にありがとうございます。

物語の中で、もし少しでも心が揺れたり、あたたかさを感じていただけたなら、ぜひ――

📌いいね
📌お気に入り登録
📌フォロー

で応援いただけると、とても励みになります。
この静かな物語が、ひとつずつ読者の皆様の元に届くよう、願いながら紡いでいます。

次回も、どうぞよろしくお願いいたします。
しおりを挟む
感想 0

あなたにおすすめの小説

わたしの下着 母の私をBBA~と呼ぶことのある息子がまさか...

MisakiNonagase
青春
39才の母・真知子は息子が私の下着を持ち出していることに気づいた。 ネットで同様の事象がないか調べると、案外多いようだ。 さて、真知子は息子を問い詰める? それとも気づかないふりを続けてあげるか?

百合ランジェリーカフェにようこそ!

楠富 つかさ
青春
 主人公、下条藍はバイトを探すちょっと胸が大きい普通の女子大生。ある日、同じサークルの先輩からバイト先を紹介してもらうのだが、そこは男子禁制のカフェ併設ランジェリーショップで!?  ちょっとハレンチなお仕事カフェライフ、始まります!! ※この物語はフィクションであり実在の人物・団体・法律とは一切関係ありません。 表紙画像はAIイラストです。下着が生成できないのでビキニで代用しています。

せんせいとおばさん

悠生ゆう
恋愛
創作百合 樹梨は小学校の教師をしている。今年になりはじめてクラス担任を持つことになった。毎日張り詰めている中、クラスの児童の流里が怪我をした。母親に連絡をしたところ、引き取りに現れたのは流里の叔母のすみ枝だった。樹梨は、飄々としたすみ枝に惹かれていく。 ※学校の先生のお仕事の実情は知りませんので、間違っている部分がっあたらすみません。

春の雨はあたたかいー家出JKがオッサンの嫁になって女子大生になるまでのお話

登夢
恋愛
春の雨の夜に出会った訳あり家出JKと真面目な独身サラリーマンの1年間の同居生活を綴ったラブストーリーです。私は家出JKで春の雨の日の夜に駅前にいたところオッサンに拾われて家に連れ帰ってもらった。家出の訳を聞いたオッサンは、自分と同じに境遇に同情して私を同居させてくれた。同居の代わりに私は家事を引き受けることにしたが、真面目なオッサンは私を抱こうとしなかった。18歳になったときオッサンにプロポーズされる。

中1でEカップって巨乳だから熱く甘く生きたいと思う真理(マリー)と小説家を目指す男子、光(みつ)のラブな日常物語

jun( ̄▽ ̄)ノ
大衆娯楽
 中1でバスト92cmのブラはEカップというマリーと小説家を目指す男子、光の日常ラブ  ★作品はマリーの語り、一人称で進行します。

カオルとカオリ

廣瀬純七
青春
一つの体に男女の双子の魂が混在する高校生の中田薫と中田香織の意外と壮大な話です。

極上イケメン先生が秘密の溺愛教育に熱心です

朝陽七彩
恋愛
 私は。 「夕鶴、こっちにおいで」  現役の高校生だけど。 「ずっと夕鶴とこうしていたい」  担任の先生と。 「夕鶴を誰にも渡したくない」  付き合っています。  ♡-♡-♡-♡-♡-♡-♡-♡-♡-♡-♡-♡-♡-♡-♡-♡-♡  神城夕鶴(かみしろ ゆづる)  軽音楽部の絶対的エース  飛鷹隼理(ひだか しゅんり)  アイドル的存在の超イケメン先生  ♡-♡-♡-♡-♡-♡-♡-♡-♡-♡-♡-♡-♡-♡-♡-♡-♡  彼の名前は飛鷹隼理くん。  隼理くんは。 「夕鶴にこうしていいのは俺だけ」  そう言って……。 「そんなにも可愛い声を出されたら……俺、止められないよ」  そして隼理くんは……。  ……‼  しゅっ……隼理くん……っ。  そんなことをされたら……。  隼理くんと過ごす日々はドキドキとわくわくの連続。  ……だけど……。  え……。  誰……?  誰なの……?  その人はいったい誰なの、隼理くん。  ドキドキとわくわくの連続だった私に突如現れた隼理くんへの疑惑。  その疑惑は次第に大きくなり、私の心の中を不安でいっぱいにさせる。  でも。  でも訊けない。  隼理くんに直接訊くことなんて。  私にはできない。  私は。  私は、これから先、一体どうすればいいの……?

彼の言いなりになってしまう私

守 秀斗
恋愛
マンションで同棲している山野井恭子(26才)と辻村弘(26才)。でも、最近、恭子は弘がやたら過激な行為をしてくると感じているのだが……。

処理中です...