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第7話 「あなたは、ちゃんと泣けた?」
しおりを挟む台風一過の朝は、驚くほど静かだった。
空は洗い立てたように澄みわたり、裏の山からは鳥のさえずりが聞こえていた。
庭に出てみると、夏みかんの木が何本か枝を落としていたが、家も窯も無事だった。
「ふぅ、今年も耐えたわねぇ……あたしより丈夫よ、この家」
千代子さんが笑いながら言う。
手には竹箒。落ち葉をせっせと掃いているその背中は、どこか軽やかだった。
「昨日は……すごかったですね」
「そうね。あんたがいてくれて本当によかったわ。ありがとね」
穏やかな声に、胸がふわりと温かくなった。
その日の午前中は、濡れた畳を干し、濡れたタオルを何枚も絞り、パンの焼き直しを少しだけした。
昼前、作業が一段落した頃だった。
「直人さん、ちょっと外、散歩でもどう?」
不意に千代子さんがそう言った。
「散歩、ですか?」
「ええ。今日みたいな空の日はね、歩くだけで心が軽くなるのよ。……ついでに、ちょっと寄りたいところがあるの」
その誘いに頷き、ふたりで坂を下ることになった。
通い慣れた商店街を抜け、住宅街を過ぎ、やがて田畑の広がる道へ。
台風の影響でところどころぬかるんでいたが、空気は澄み、野の香りが心地よかった。
「ほら、見えてきたわよ」
坂の先に、小さな丘があった。その上には、木陰に囲まれた小さな墓石。
「……ここって」
「ええ。おじいさんのところ」
千代子さんは、手に持っていた小さな花束とパンを、静かに墓前に供えた。
「毎年、台風が過ぎたらね、来るのよ。嵐を越えて、また一年、生きられたことを報告しに」
手を合わせるその姿に、言葉を挟むことはできなかった。
静かな風が吹いた。葉擦れの音だけが耳に残る。
「……ねえ、直人さん」
不意に、千代子さんが口を開いた。
「あなた、自分のこと、話してくれる?」
その言葉に、一瞬、戸惑った。
けれど、ここまでの時間が、問いを拒む気持ちをゆっくりと溶かしていた。
「……僕、東京のデザイン会社で働いていました。広告とか、ロゴとか、いろいろ。最初はやりがいもあって、夢中で働いてたんです。でも……ある日、取引先とのミスを僕のせいにされて、上司にも責められて。気づいたら、眠れなくなって、食べられなくなって……」
声が少しずつかすれていく。
「いつのまにか、誰の顔も見たくなくなって。気づいたら……何もかも、どうでもよくなってました」
千代子さんは、黙って聞いていた。
話すうちに、心の奥で凍っていた何かが、ゆっくりと溶け出すようだった。
「でも、不思議だったんです。パンを食べて、あの匂いを吸い込んで、あなたが頭をなでてくれて……初めて、涙が出たんです。……今でも、うまく泣けないこともあるけど……あのときのことだけは、忘れられない」
話し終えたあと、長い沈黙があった。
その沈黙を破ったのは、千代子さんのやさしい問いだった。
「……直人さん。あなたは、ちゃんと泣けた?」
その問いに、もう一度、胸がぎゅっと締めつけられた。
「……泣けました。たぶん、少しだけど、ちゃんと……」
「なら、いいのよ。それで十分。人はね、涙が出せるなら、まだ大丈夫」
千代子さんは、小さく笑った。
「泣けなかったら、人に借りればいい。ここには、泣きたい人がたくさんいるから。うちのパンは、泣いてもいい場所に焼いてあるの」
その言葉が、深く胸に染みた。
この人の作るパンは、味だけじゃない。生き方が、詰まっているんだ。
僕はこの町で、ようやく、そういうものに触れたのだ。
帰り道、陽ざしが背中を照らしていた。秋の風は、ほんの少しだけ甘かった。
◆あとがき
今回も最後まで読んでくださり、ありがとうございます。
第7話では、主人公・直人の“心の奥”にあったものを少しだけ解き明かす回となりました。
人は、泣けることですべてが救われるわけではありません。
でも、“泣ける場所”を持っていることは、確かに人を守る力になります。
この物語が、誰かの「泣ける場所」の代わりになってくれたらと、心から願っています。
次回は、季節が少し進みます。
秋の終わり、少女・花音のとある「手紙」をきっかけに、物語は小さな転機を迎えます。
◆応援のお願い
ここまで読んでくださり、本当にありがとうございます。
物語の中で、もし少しでも心が揺れたり、あたたかさを感じていただけたなら、ぜひ――
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この静かな物語が、ひとつずつ読者の皆様の元に届くよう、願いながら紡いでいます。
次回も、どうぞよろしくお願いいたします。
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