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第6話 台風と停電と、濡れたパン屋
しおりを挟む朝から、風が強かった。
空は分厚い雲に覆われ、いつもの山並みが灰色に沈んでいる。
秋の台風が近づいているらしい――と、千代子さんがラジオを聴きながらつぶやいた。
「今日は無理しなくていいわよ。買いに来る人も少ないだろうし、パンは半分だけ焼くことにしましょう」
普段なら早朝から焼き始めるパンの数も、今日は控えめ。
それでも、厨房の窯に火を入れれば、やはりパンの香りは静かに漂いはじめる。
くるみパン、チーズパン、そして昨日仕込んだばかりの栗あんパン。
「栗はね、今年の台風でだいぶ落ちちゃったの。拾うの大変だったけど、こうして焼き上げたら、全部報われるわねぇ」
千代子さんの指先は、熱く焼けたトレイにも臆せず触れ、器用にパンを並べていく。
僕は厨房の隅でそれを見ながら、なんだか――心配だった。
風はどんどん強くなっていた。電線が揺れ、木の枝が軋む音が響く。
屋根のトタンがバタンと鳴るたび、胸の中がざわついた。
「……この家、大丈夫なんですか?」
「大丈夫よ。築六十年だけど、台風なんて毎年くぐり抜けてきたんだから」
そうは言うが、古い木造家屋である。縁側の窓が、ギシギシと鳴る。
昼を過ぎた頃、最初の異変が起こった。
――バチン、と音がして、厨房の電灯が消えた。
「……停電?」
「やだわ、またなのね。まあ、昼間でよかった」
電気が落ちた瞬間、窯の温度調節も止まった。
パンの生地はすでに発酵が進んでいる。焼かなければ、だめになってしまう。
「……僕、火の調整、やります。窯、手で温度見ながらでもできますよね?」
「……直人さん」
千代子さんは一瞬、言葉を飲み込んだが、すぐに頷いた。
「ええ。昔は、全部“勘”でやってたんだから。やってみましょうか」
二人で、火の強さを調整しながら、パンを一つずつ、慎重に焼いていく。
外はどんどん風が強まり、ついに雨が降り始めた。
雨粒は勢いよく、窓を打ちつけてくる。まるで太鼓のように、屋根の上を叩く音。
そのうち、ガラス窓の一枚が、がたん、と音を立てた。
「ちょっと見てきます!」
厨房から縁側へ走る。雨が吹き込んで、畳が濡れている。
急いで雨戸を閉めようとするが、風がそれを押し返してくる。
「直人さん! 無理しないで!」
「大丈夫です……っ!」
何とか雨戸を引き込み、板で固定する。額から雨と汗が混じって、首筋を伝った。
厨房に戻ると、窯の前で千代子さんが静かに待っていた。
「……ありがとね。あんたがいてくれて助かった」
その言葉に、思わず笑みがこぼれた。
「僕、ちゃんと役に立ててますか?」
「ええ。とてもね。……なんだか、昔のこと思い出すわ」
「おじいさんと?」
「ええ。あの人も、こうして嵐の日は、あたしの代わりに窯を守ってくれたのよ。手が不器用だったくせにね、妙に火だけは上手だった」
ふっと目を細める千代子さんの横顔を見て、思った。
――自分も、誰かの“隣”にいることができるのかもしれない。
台風の夜、客は一人も来なかった。
だけど、焼きあがったパンの香りは、いつもと変わらず店中に満ちていた。
ろうそくの灯りのなかで、二人きりで分け合った栗あんパンの味は、
僕の人生で、きっと忘れられない一夜の記憶になるだろう。
◆あとがき
お読みいただき、ありがとうございます。
第6話では、台風という非日常を通して、パン屋と主人公との絆が深まるエピソードを描きました。
静かな中にも、火の音、雨の音、パンの香り……五感に残るような1話にしたかったのです。
また、誰かの「役に立てた」という体験は、それだけで人を立ち直らせる力があると信じています。
次回は、主人公の過去に少し触れながら、「泣けなかったこと」への答えが描かれます。
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物語の世界に、少しでも“温かさ”を感じていただけたなら、ぜひ――
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