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第5話 おじいさんがね、昔ね……
しおりを挟む午後の陽ざしが、パン屋の軒先にやわらかく差し込んでいた。
店の奥から、トントンという包丁の音が聞こえてくる。千代子さんが、今日のおかずパンに使うハムを切っている音だ。
「直人さん、ちょっと手を止めてこっち来てくれる?」
「はい。どうかしましたか?」
手を拭いて台所へ入ると、千代子さんが切ったハムの皿を持ちながら、縁側の方を指さした。
「お茶、しようと思ってね。ついでに、昔話でも聞いてってくれる?」
縁側には、湯呑とおはぎが並んでいた。柔らかく炊かれた小豆の香りが、春の風に乗って漂ってくる。
言われるままに座ると、千代子さんが一口、おはぎをかじった。
「こうやってね、天気のいい日にお茶を飲むと、ふと思い出すのよ。あの人のことを」
「あの人、ですか?」
「ええ。おじいさん。……あたしの夫よ」
千代子さんが語るのは、戦後間もない頃の話だった。
パン屋を始めたのは、彼女が二十歳の時。最初は田んぼの片隅で、畑と小屋しかなかった場所に、木の台を置いて手作りのパンを売った。
「なんせ、最初は“あんぱん”しかなかったのよ。小豆もろくに手に入らなかったから、干し柿を潰して甘味にしたりね」
笑いながらそう言うけれど、その語り口には深い時間が染みついていた。
「おじいさんはね、元軍人だったの。でも、戦争が終わって帰ってきてから、ずっと調子が悪くて。……夜中に、突然叫ぶこともあったのよ」
声が一瞬、少しだけ揺れた。
「パンを焼くのも、最初は嫌がってた。火を見ると落ち着かなくなるって。だけどね、一緒に何度も焼いてるうちに、彼が言ったの。『これなら、誰も殺さなくていいんだな』って」
その言葉に、僕は息をのんだ。
戦争が残したものを、生活の中で少しずつ癒していった人たちがいた。
日々の営みのなかに、心の痛みを受け入れ、やわらげる力があった。
「だからね、今でもパンを焼くたびに、あたし、あの人のことを思い出すの。……あの人が、平和の中で生き直せたことが、あたしの誇りなのよ」
語り終えた千代子さんは、そっと手元のおはぎに目を落とした。
縁側の木の隙間から、小さな風が通り抜ける。
「ねぇ直人さん。あんたは、この町に何を探しに来たの?」
急にそう問われ、言葉に詰まった。
――何を探しに来たのか。何も考えていなかった。逃げてきた先に、偶然あったのがこの町だった。
だけど今なら、ほんの少しだけ、答えが見える気がした。
「……生きていて、いいんだって、思いたかったのかもしれません」
「そっか。なら、ここはうってつけよ。うちのパンは“生きててよかった味”だから」
そう言って笑う千代子さんの顔が、どこか懐かしい“母”のように思えた。
その夜、布団に入りながら天井を見上げた。
おじいさんの話は、僕の胸に深く残っていた。
戦争の傷、心の闇、それを癒してくれたパン。
そして、パンを焼き続けるという“日常”が、誰かの人生を変えるということ。
――ならば、自分も、誰かの人生に、優しさを手渡せるようになりたい。
そんな思いが、心のどこかで芽生え始めていた。
◆あとがき
今回も読んでくださりありがとうございます。
第5話では、千代子さんの過去を通して「パン」が持つ癒しの力、そして平和の中で暮らす尊さを描きました。
人の人生には語られない痛みがある。
けれど、それを誰かと共有できる時間があるならば、ほんの少しだけ明日が変わるかもしれません。
次回は、店を訪れるある“意外な来客”を通じて、物語にまたひとつ風が吹き込みます。
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